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しおりを挟む『…台風5号はこの先、日本を縦断する形で北東に進路をとることが予想されています。各地の雨量は、多いところで百ミリを超えると予想されています。…』
悪天候のせいで電波が乱れているのか、雑音の混じるラジオを聞きながら、真柴は少し開けたカーテンの隙間から風雨の吹き荒れる外を見ていた。
本当なら畑が見たかったのだが、真柴がこもっている部屋からは蔦に覆われた高い石壁に囲まれた庭しか見られない。けれど、おそらく酷いことにはなっていないだろうという思いはあった。
(阿賀野さん、側溝も掃除してくれたらしいから……多分大丈夫だ)
「……んっ…」
安堵したと同時に、薬で抑えつけていた疼きが下腹にある器官をぐじゅりとひどく濡らす。その蜜が体内の狭い筒をとろりと伝って溢れてくるような錯覚を覚えて、思わずぐっと後蕾を締めると、タイトなボクサーパンツの奥からぬちゅりと小さな水音がした。
薬は飲んでいる。それほど発情が強いわけではないが、発情期に入るとただでさえ人より濃い匂いが更に強くなるため、市販薬では効果が薄すぎる。半年に一度行っている病院でしか処方されない強い薬を服用していた。
普段ならば、時間通りに薬を飲んでいれば畑にだって出られる。車で行き来をしなければならないほど村からは離れているからこそ出来たことだった。
けれど、今回の発情期は違った。
いつもより疼きがひどく、まるで熱病にでも浮かされたようだ。体は敏感になり、少しの刺激で肌が震える。まるで熱した熟果でも抱えているかのように腹の奥は甘く熱を持って蕩けて、ともするとじっとりと蜜を滴らせた。そのうえ、大体このくらいというサイクルより二週間も早く今回の発情期は訪れていて、真柴は面食らうばかりだった。
けれど、大体の理由はわかっている。阿賀野徳磨だ。
唯一の収入源として村の農協に卸している野菜をどこかで見かけたらしく、契約農家になってくれないかという問い合わせを跳ね除けたところ、取締役であるという彼がなぜか直々にやってきたのは、もう数か月も前のことになる。
契約をしに来たという割に、なぜか突然運命がどうこうと騒ぎ出した阿賀野は、不審極まりなかった。けれど、なぜだか明確に、彼はアルファだと思った。
アルファは怖い。真柴の匂いにあてられて、理性をなくしかねない。だからこそ離れなければならない。
それなのに、彼は怒涛のプレゼントでこちらへ接触を図ろうとしてきた。
時計に財布に高級なタオル。花束や花瓶が届いたこともあった。どれもこれも自分には扱いかねるものばかりで辟易したが、のらりくらりと返送先をはぐらかされて、結局大切に使っていた。
やがて彼は郵送だけでは飽き足らず、菓子を携えて訪れるようになった。
最初は真柴も警戒していた。彼はアルファだ。少しの油断で間違いが起きてはならない。万が一襲ってきた時に鍬の柄で押しのけられるようにイメージトレーニングをしてみたり、来た時はすぐに家の中に駆けこめるように玄関の近くにそれとなく寄ったりした。けれど日を置かずに訪れながらも初対面の時のように突然距離を詰める様子ではない彼に、徐々に自分の警戒心が薄らいでいくのを真柴は自覚していた。
数十メートルが十数メートルに変わり、カウントダウンのように阿賀野は近づいてきた。本当なら、それだって警戒すべきだったのかもしれない。けれど真柴は万が一があった時にと主治医から渡されていたものの、飲まずにいたために使用期限が切れそうになっていたピルのパッケージを開けた。いつ阿賀野が来て、いつ間違いが起きても最低限自分の身を守れるようにと、毎日ピルを飲んだ。
しかしその矢先、阿賀野は突然来なくなった。甘夏のムースをくれたのが最後の日だった。
彼だって社会人だ。聞くところによると、いくつもの飲食店を経営している起業家とのことだった。きっと忙しいんだろうと思いつつ、いつだって心の隅にあるほの暗い自虐は頭をもたげてやまなかった。
(……やっぱり、俺みたいなのは勘違いだったんだろう)
それならそれでいい。また元の生活に戻るだけだ。そう思えば、すぐに楽になれた。
それからあっという間に二週間がたった頃だった。
テレビでは台風がこちらを直撃しそうだと放送し始めたあたりから、真柴は自分の体の異変に気が付いた。
いつもより少しだけ体温が上がっていて、けれど熱っぽいというわけではない。妙に肌がざわざわして、時折腹の奥がじゅわりと滲むような感覚を覚える。
発情期だとすぐに気付いたものの、どうしてとカレンダーを眺めずにはいられなかった。
台風と時期が被ってしまうのは幸か不幸かわからない。けれど、台風対策をしなければいけない。そう思いながら床に就いた翌日、真柴は目覚めるなり体を震わせた。
いつもなら、そろそろかと思った二、三日後に発情期がきていた。けれどなにを逸ってしまっているのか、体は既に発情期に半ば入ったような状態で、シャツの擦れさえ乳首を立たせるには十分だった。
刺激がほしい。
台風対策をしなければならない。
自分のものを握りこんで、何度だって達したい。
トラクターや一輪車を車庫の中に入れなければいけない。
しゃぶり尽くすようにキスをしたい。
後ろを弄りたい。
指だけではきっと足りない。もっと太くて、深いところを抉ってくれるものが欲しい。
奥にかけてほしい。
「……っはぁっ」
理性と本能がせめぎ合っていられるのも僅かな間だ。徐々に本能が理性を飲み込んでいく。
それでも畑はどうにかしなければいけない。咄嗟に注射タイプの抑制剤を二の腕に突き立てた真柴は、急き立てられるように布団から飛び出した。
発情の事は考えないようにとひたすら畑の事に集中して動き続けた真柴だったが、夕方を回る頃にはとうに薬の効果も切れる。泥だらけになった重い体を引きずってたどり着いた風呂場では、シャワーのしぶきにすら漏らしたように白濁を散らし、息も絶え絶えになりながら風呂を出た。
ひどく疲れていた。空腹を満たすことすら億劫で、ただただ体が中から融けていくようなみだらな熱に、足を擦りあわせる事しか出来ない。あえぐように呼吸をするため、開いた口の端から零れる唾液さえ、首を伝うとたまらない。
涙でかすむ視界は暗く、カーテンの隙間から差し込む外のほの明かりだけが唯一の明かりだ。そんな中で、たった一人で熱に溺れている。
泣きたいくらいみじめだった
(俺が、もしアルファで……オメガでもいい、匂いが強くなくて、もう少し小柄で、力も強くなければよかったのかな……)
なんの解決にもならないことを、茫洋とした頭で考える。
世の一般的なオメガのように、発情期でなくてもアルファの情欲を煽るような体質でなければ、アルファと勘違いされるほど体格に恵まれていなければ、こんな風にひとりで侘しい気持ちを抱えたまま、体だけが淫蕩に悶えずに済んだのだろうか。
自分から、社会を遮断して生きずに済んだのだろうか。
暗くよどんだ心の内側から溢れてくるのは、散らかるだけの陰鬱な感情だ。熱に狂う体とは裏腹に、胸の深い場所をただただ冷やしていく。
胎児のように丸まっているせいで、こめかみは枕に預けている。そこがどんどん湿っていくのはいつのまにかこぼれ出した涙なのだろうとはわかっていたが、拭うことも出来ずに荒い呼吸を繰り返していた真柴だったが、不意に鳴り響いた携帯電話の着信音に、びくりと大きく体を震わせた。
真柴の携帯電話の番号を知っているのは、野菜を卸すときに連絡をしなければならない松前と、都内で暮らしている両親、そしてメールアドレスを無理やり交換させられたついでに電話番号まで知られてしまった阿賀野だけだ。
誰だかわからないけれど、こんな状態では出られない。あられもない呼吸の乱れで察されるのは恥ずかしいし、情けなさ過ぎる。
早く切れろ、早く切れろと祈るが、普通なら数コールもすれば切れるはずの電話は一向に鳴り止まない。
まさか家族が急な事故にでもあったかとのろのろと顔を起こして携帯電話を開いた真柴は、画面に表示された名前にごくりと唾を飲んだ。
暗がりにぼんやりと浮かび上がって見える画面には『阿賀野さん』と自分が登録した名前が表示されている。
阿賀野さん。
あの、何度断っても家まで来て、少しの会話をして、やがて来なくなった男だ。
早く切れてほしいのにコールは鳴り続け、切れる気配がない。
コールのたびに震える携帯電話の微弱な振動すら今の体には毒で、ゆっくりと深呼吸をして、真柴は定まらない指先でどうにか受話ボタンを押した。
「……」
はい、もしもし。
そのくらいの声すら出ない。不用意に口を開けば、自分でもどうかしていると思うほどの甘い呼吸が漏れてしまう。
『真柴くん? 俺だが』
携帯電話をスピーカーにしておいてよかったと、真柴は声を聞くだけでじゅわっと股の奥が濡れるのを感じながら思った。そうでなければ、片手で自分の口をふさげなかった。
嬌声を押し殺して、頭の中でゆっくりと数字を数えながら息を吐く。大丈夫だ。声さえ聞かれなければ、阿賀野に発情期であることは悟られない。いくら真柴の匂いが強くても、受話器の向こうにまで伝わるものではない。
「……なにか、用ですか」
出来るだけ呼吸をしないように、単語をしっかり発音して、声が跳ね上がらないようにするのが精いっぱいだ。それなのに、電話の向こうの阿賀野はなかなか通話を終えてくれない。時間にして一分程度の事なのに、真柴には十分にも一時間にも思えた。
『風邪でも引いたのか?』
電話をしながら、阿賀野が少し動いたのだろうか。ほんの少し、声の大きさが波打つように変化した。それだけのことだったが、それは思いがけず真柴の腰を強く疼かせた。
「っ……だいっ…」
声が上ずったのを自覚するなり、顔に血が上ったのがわかった。もう限界だ。彼と繋がっているのは耳だけなのに、体中の全てのセンサーが微弱な変化すら快感に換えてしまう。
「だ、だいじょう、ぶ、です……いいから、俺の、俺の事、いいから、放っておいてください……!」
こんな言い方はだめだ、阿賀野と言えど、相手に失礼だ。霧散しかけている理性のわずかな残滓がそう訴えるが、それにすら構っていられない。
咄嗟に通話を切った瞬間、すぐそこに来ていた限界がはじけた。
「ぅあっ、あぁあっ…!」
ぶしゃっとしぶきがあがり、股間がぐっしょりと濡れる。粘度のないそれはさらさらと水のように内股をすべって、あっという間に敷布団に染み込んだ。
「ああ……」
下腹の奥がじんと熱を持ってしびれている。与えられないものを求めて奔放に疼く体とは裏腹に、疲れ切った真柴は滲んでいく暗闇を見ていた。
いつまでこんな事が続くのか。
自分だけがこんな風に淫蕩に悶えるだけなら、まだよかった。けれど、強すぎる自分の匂いはアルファを狂わせる。それを何度も見てきた。そうして狂わされたアルファたちは、みんなこぞって言うのだ。
―――お前の匂いに誘われた。
そこに理性はない。だからこそ怖くて、恐ろしくて、今までもずっと逃げ惑ってきた。けれど体の自由が利かなくなる発情期になれば、それもかなわなくなる。精一杯抵抗して暴れて、今まで二人に怪我を負わせてしまった。
それが、なによりも怖かった。
人を誘う体質をしているくせに、近寄ってきた人間が怖い。だから暴れて、結局怪我をさせてしまう。けれど匂いにあてられてしまえば、またアルファは寄ってくる。彼らとて相手は選びたいだろうが、オメガの匂いは本能を刺激するのだ。そうして結局また、真柴は自分を護るためとはいえ、人に危害を与えてしまう。
ひどい負の連鎖だ。
だから真柴は人里から離れて暮らすことを決めた。そうすれば誰かを気にして生活せずにすむし、人を傷つけずにすむ。
連鎖の中から自分を引きさえすれば、発情期に苦しめられることはあっても平穏に生きられるのだ。
一度達したことで、体の熱が落ち着きを取り戻しつつある。呼吸を整える真柴の目の前で、また携帯電話が着信を告げた。
ルルルと鳴り響く呼び出し音は、なかなか切れてくれない。
暗闇に浮かび上がる『阿賀野さん』という表示を、真柴はじっと眺めていた。
運命だと、彼は言っていた。けれど、結局は真柴の匂いがなければ彼も他の人を選んだだろう。アルファであり、大企業を背負う彼に似合う、もっと美しく聡明なアルファやオメガ、もしかしたらベータを選んだだろう。
少なくとも、他人も、他人を傷つける自分さえも怖くて山奥に引きこもってしまった自分などではない。
数分もコールは鳴り続けていたが、やがて切れ、部屋は静まり返った。
「……メール、…送ろう……」
あふれた涙が鼻筋を横断して、更に流れてこめかみのあたりからシーツを濡らしていく。
口を押えていたおかげで汚さずに済んだ右手で、ひとつひとつボタンを押した。
『大丈夫なので、来ないでください。出来れば、二度と来ないでください。ごめんなさい』
震える指で送信ボタンを押して、真柴はそのまま携帯電話を畳んだ。
またぞくぞくと背筋を甘いものがかけあがってくる。
じゅわりと口腔に満ちる唾を飲み込んで、真柴はどうにか枕元に置いてある小さな棚から薬を取った。
小指の爪ほどの小さな錠剤。これがなければ、真柴はもはや生きてもいられない。
抑制剤と一緒に睡眠薬も取り出し、本来は水で飲むそれらを無理やり噛み砕いて、そのまま布団に戻る。
濡らしてしまった場所を避けて眠ることにまたみじめさがこみ上げたが、即効性のある薬があっという間に回ったのか、気付けば朝になっていた。
既に天気が荒れ始めていたが、体の中でもあさましい熱がざわざわとあがってこようとする。台所に駆けこんで適当な残り物を掻きこみ、強めの抑制剤を煽った。
(今日中にやらないと……側溝の掃除と、ビニールも張って…)
数年前までは、祖父もいたし祖母もいた。広い畑も余裕を持って管理出来ていた。けれど今はひとりだ。自分がやらなければせっかく育ててきた野菜たちはだめになってしまうし、もしかしたら畑の土壌にだって影響が出てしまう。
寝不足と倦怠感と疲労感、そして体の奥でくすぶる熱を振り払って外に出た真柴だったが、一日中動き回った末、トラクターを倉庫にいれたところで限界に膝をついた。
薬で抑え込んではいたが、少し服用の時間を誤るだけで、一気に体は本能に屈してしまう。シャッターを半ば閉めたあたりから力が入らなくなり、強く吹き荒ぶ風にすら体が震えた。
「うっ……っふ、あ」
ずりずりと四つん這いになりながらもどうにか進み、裏口から家の中に入ろうとしたものの、力が入らず、三段ほどの石段を登った先にあるドアノブにさえ手が届かない。ひんやりとした石段にしばらく頬をつけていたが、体を起こそうとして、そのまま真柴は傍にあった藁の山に横倒しになった。
「うあっ……っはぁっ」
倒れた体を藁がつつく。それだけでもびくっと体が揺れて、泥だらけの作業着の股間がじわっと濡れた感触があった。
めったに上陸しないため、台風がどれほどの規模なのかは見当もつかない。けれど、普段とは空気すら違うのだ。家の中に入らないと危ないのではと思ったが、体が動かず、そのまま真柴は喉を焼くような熱い息を吐いた。
幸いにもここは一応倉庫の中だ。台風が直撃しても暴風に直接さらされるようなことにはならない。
(……馬鹿みたいだ)
泥だらけで倉庫の片隅に転がって疼きに耐えているが、落ち着かない体とは裏腹に頭はやけに冷静だ。
突然やってきた男になにもかもを乱されて、いまざわめいている体よりもずっと先に、心が騒がしい。けれどそれをどうすることも出来はしないのだ。
八方ふさがりの中で悶えているしか出来ない。
またびくんと腰を震わせてあてどなく果てる本能にぐったりと力を抜いて、しばらく真柴は藁に寝そべっていた。
気付けばとっくに陽は暮れて、倉庫の中は暗い。少し寝てしまったのかと思いながら、目覚めと同時にじわじわと広がってくる熱にはあと息を吐いたところで、真柴は半ば開いたままのシャッターの向こうに視線を走らせた。
なにか明確な音がしたわけではない。けれど、いま一瞬、照らされた。懐中電灯ほど小さくはなく、けれど太陽のように全てを照らすわけではない。
(車のライト…?)
この大荒れの中、こんな山奥まで来る人間などいるはずがない。けれど濡れたコンクリートの上を這って行ったのは、確かに車のヘッドライトだった。
もしかしたら避難をするように伝えに来た、村交番の警察官かもしれない。もしくは心配して様子を見に来た松前かもしれない。どちらにせよベータなのでアルファほど真柴のフェロモンが効くわけではないが、発情期に入った真柴の匂いは、今までにも何度かベータの劣情さえ煽ったことがある。そのうえ、股間をびしょびしょに濡らして腰砕けの状態を見られたくはない。
屋内に逃げなければと力の入らない体を起こすが、完全に抑制剤が抜けてしまった体はやはり言う事を聞かない。せめて体を隠そうと藁の中にもぐりこむが、ちくちくとした刺激さえたまらなかった。
雨が吹き込んで、風に晒されて、多少の怪我くらいしても構わない。だから誰も近寄らないでほしい。
そうでないと、真柴は人を傷つけてしまうのだ。
頼むからどこかへ行ってくれと願いながら藁の中で体を竦めた真柴だったが、願いはむなしく、それどこかいま一番聞きたくなかった声が耳に響いた。
「真柴くん、そこにいるんだろう」
「ひぃ……」
喉を細く駆け上がったのは悲鳴だったが、それは恐怖からくるものではなく、それだけのことで達してしまった衝撃のせいだった。
近づいてくる。アルファが、バースの王者たる種が歩いてくる。
そこから先を、真柴はあまり覚えていなかった。
気付けば背負われていたし、その前にはなにかを大声で言い含められていた気もする。刺せだとか襲うだとか、不穏な言葉が飛び交っていた気もする。けれどそれはどこかあやふやで、確かなものは手のひらの痛みだった。背負われながら小指だけどうにか動かして握りこんだものを見ると小さな鍵で、手のひらに食い込むほど強く、真柴はそれを握りしめていた。
風雨の中で揺さぶられながら家に運び込まれ、そのまま玄関に投げ出された。乱暴に振り落されたものだから肩を打ってしまって、けれどその衝撃が理性をたたき起こしてくれた。
引き戸が割れそうな勢いで玄関を閉めた阿賀野のシルエットが、硝子戸の向こうに見えている。吹き荒ぶ中に佇む阿賀野は、畑の世話をすると言ってくれた。
阿賀野がなぜここにいるのか、なぜ畑の事を気にしてくれるのか、真柴にはわからないことだらけだ。けれどするりと頼みごとは口から零れた。
「……わかった。道具はガレージから借りるぞ。君は抑制剤を飲んで、家の中に。なにかあったら電話する。いいか、絶対出てくるなよ。俺も抑制剤を飲んでいるし、君には首輪を嵌めた。それでも間違いが起きないわけじゃない。絶対に、開けるな」」
思いがけない言葉が、ガタガタと硝子戸を揺らす風雨よりも明確に耳に届いた。思わず首に手をやると、確かに身に覚えのない首輪が嵌められていて、そういえばと握ったままだった手のひらを開くと、うっ血しかけた手の中には小さな鍵があった。
「俺はアルファで、君はオメガだ。俺の、運命だ。間違いで、なんて馬鹿は絶対に犯さない」
「……っ」
まるで宣言のように強張った声で言うと、阿賀野のシルエットは身を翻し、そのまま畑に向かって移動していった。
「……うん、めい…」
頭がぼうっとする。
鍵を握りながら、真柴はずりずりと這いずって玄関の脇にある靴箱ににじり寄った。
置き場所としては不適格かも知れなかったが、万が一を考えて、家中のいたるところに抑制剤や避妊薬は置いてある。自己注射型のそれをひとつを取り出して太ももに突き立てると、小さな痛みのあとに、やがてもせずにすっと熱が引いていく感じがした。
まだ肌のざわつきが完全になくなったわけではないが、意識の全てを解かしていくような中毒じみた淫欲から覚めた体を引き起こして、真柴は改めて手のひらを開いた。
小さな鍵。
これはきっと、首輪の鍵なのだろう。喉元にそっと触れて、恐る恐る鍵を通してみる。回すと、カチンと硬質な音がして首輪はあっけなく外れた。
たったこれだけの守り。けれど、それをしていることで守られるのは真柴の身の安全だけではない。
解除したばかりのそれを再度はめて、真柴ははあと発情期のせいだけではないため息を吐いた。
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