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しおりを挟む鼻にくるというほどではないものの、新築の家やリフォームしたての建物は独特な匂いがする。
毎度のことではあるが、開店までには壁紙の接着剤の匂いが消えるだろうかと思いながら、阿賀野は昨日取り付けられたばかりの白色の照明に照らされた店内を見渡した。
三十坪に満たない程度の店舗は、つい先日建物が建ったばかりの新規店舗だ。昨日壁紙が貼られたばかりの室内には、シェードのかかっていないむき出しのライトだけが揺れており、家具やインテリアはまだ運び込まれていない。床にはまだ接着剤の入ったバケツや畳まれた脚立、これから装飾として壁面に貼られていくレンガタイルの小山がいくつも積みあがっていた。
「大型の熱機器を入れてから厨房の床タイルを貼るから、乾き次第、業務用冷蔵庫を運び入れます」
「設置は二機だったか。小型はいつ届く」
「小型は手配済み。ディスプレイ用の冷蔵ケースと製氷機、スチームマシンはカウンターを設置してから配置する予定ね」
「テーブルとイスはチップランド社製だったな」
「そちらも手配済み。ただ、ラタン脚のテーブルが特注品になるから、届くのは一か月弱かかるらしくて…大丈夫かしら」
「開店まで三ヶ月近くある。それより、副島はどこに行った」
阿賀野は都内を拠点に店舗を構える居酒屋とパティスリー、ダイニングバーをそれぞれ数店舗ずつ経営する、飲食チェーン店のオーナーを生業としている。既にどの店舗も人気店として雑誌に取り上げられたり、SNS上で話題になったりと成功を収めており、まだ接着剤の匂いが漂うここも、新しい店舗に生まれ変わる予定だった。
まだ装飾のない真っ白な室内を歩き回り、厨房の広さやトイレの配置などを見て回りながら阿賀野が問うと、仕事モードでてきぱきと敬語を操りながら、タブレットの画面に指を滑らせつつ問いかけに応じて図面や参考資料を引き出していた須藤が、あら、と声をあげた。
「そういえばいないわね。さっきまでいたはずだけど」
業者も休憩中のため室内には須藤と阿賀野しかいないが、今日は三人でここに来ている。どこへ行ったのかと視線を巡らせると、まだ扉のつけられていない枠の向こうから、ひょいと学生のような幼い顔立ちの青年が顔を出した。
「副島。なにしてるの?」
「すみません、電話があったので…あっ、……あー…」
がしゃんとせわしない音を立てて、スーツのポケットに入れ損ねたスマートフォンが床に落ちる。情けない声をあげる様子はまるで新入社員だが、これでも阿賀野の秘書だ。
性徴差別をなくそうという社会の動きはあるものの、オメガは定期的に発情する体質があるため、どうしても社会的に上位に昇ることが難しい。
そんな中でも阿賀野や須藤といったアルファに混じって働いている彼、副島郁哉はオメガだ。とは言っても、既につがいのいる身であり、定期的な発情期はあるものの無差別にフェロモンを撒き散らすこともない。人好きのする柔和な顔立ちと、そそっかしいながらも細やかで優しい性格を気に入って阿賀野の経営する居酒屋でバイトをしていたところを引き抜いてから数年経つが、話し上手であることを武器に、主に交渉面を任せていた。
「店舗か?」
新しく構える店舗に集中してはいるものの、阿賀野はいくつものチェーン店のオーナーでもある。よく阿賀野への窓口にもなる副島には店舗からの電話も多く、何かあったかと拾い上げられたスマホを見ると、副島は二十代も半ばを過ぎたとは思えない童顔を横に振った。
「いえ、諏訪園シェフからの連絡でした。それがその……諏訪園シェフと契約している農家さんを何件か引き継ぎで使わせていただくじゃないですか、今回」
「そうだな。あー……しおの農園と、網田農園、キャベツ農家の田野上さん、やさいや増岡だったか」
「はい。そちらの方々とは諏訪園シェフが話をしてくださったそうで、後は価格調整の打ち合わせと契約書の提出だけなんですが、他に一か所、どうしても諏訪園シェフが使いたい農家さんがいらっしゃるらしいんです」
「どこだ?」
「ええっと……あっ、あっ、電話……あっ、はい、副島で…あ、はい…はい、ただいま引き継ぎいたします」
書類やタブレットを小脇に抱えてもたもたと資料を取り出そうとしていた副島は、不意に鳴りだしたスマートフォンをまたもや落としそうになりながら取って応対すると、保留にしたスマートフォンを差し出した。
「社長、諏訪園さんです」
「ちょうどよかった。……替わったぞ、俺だ」
受け取ったスマートフォンの保留を切って、少し耳から離してから阿賀野が出ると、案の定、それほどボリュームを上げているわけでもないはずの受話口から大音声が飛び出した。
『あっ、阿賀野? あたしよ。郁ちゃんから聞いた?』
「概要は聞いてない。それより祥太、声を落とせ。耳が痛い」
『えーっ、普通よお! どうしていっつもうるさいって言うの! ひどくない?』
「うるさいからうるさいって言うんだ」
ぎゃんぎゃんと甲高い男の声を響かせる電話の相手は、特徴のある女性的な言葉でしゃべるが、れっきとした男であり、阿賀野のビジネスパートナーかつ友人でもある諏訪園祥太だ。生業をシェフとしており、阿賀野が出資した『マノン』という小さなレストランで腕を振るっている。人物像はさておき、その腕は外国へ渡って研鑽しただけあり、阿賀野も認める一流のものだ。
ひどいひどいとひとしきり喚いた後、もう、と一呼吸おいた諏訪園は、打って変わってそれでねえ、と落ち込みを隠せない声を零した。
『あたしが契約してた農家さんたちからは、みんな良い返事をもらったの。……もらったんだけど、一軒、あたしが個人的に好きな農家さんがいてね。真柴ファームさんって言うんだけど』
「なにを作ってるんだ?」
『色々作ってるんだけど、特に絶品なのがわさびとミニトマト。あんたも散々いいご飯食べてるけど、本わさび、しっかり味わったことある? ツーンと来るだけの安物と違うのよ、ほのかな苦みと爽やかで清涼感のある味わいが最高なの。フィレ肉にあわせたら最高よ』
「本わさびのレビューは後で聞くし、それほど美味いなら今度御馳走してくれ。で、その真柴ファームをどうしても使いたいのか?」
話好きの女性もかくやという勢いで早口でまくしたてながら早々に話がずれるのは諏訪園の癖だが、今更驚く阿賀野でもない。すっぱりと軌道修正すると、諏訪園はそうなのと沈んだ声を受話器の向こうで零した。
『マノンでも契約が取れなくて、個人的に買いに行くだけにしてたんだけど、今回を足掛かりにしたいのよ』
「連絡先はわかるか?」
『それが、ごめんなさい。タグとかも捨てちゃって…。通販とかもしてなくて、現状、多馬村の農協でしか取り扱いがないの』
「多馬村……」
思わずどこだったかと、まだのっぺりとした塗装だけしか塗られていない天井を見上げる。すると隣で話を聞いていたらしい須藤が、タブレットに表示した地図で現在地と多馬村を示して見せてくれた。
「……お前、多馬って言ったら、もうほとんど山だぞ」
地図に表示された多馬村は、県境にもなっている山の裾にぽつんとある小さな村だ。都心からは遠く離れており、須藤の綺麗に爪が整えられた指が車のマークを押すと、最寄駅からでさえ百キロの距離にあった。
『そうよ、大自然の中。あのあたりは水も美味しくてね、名水百選に選ばれた湧き水もあるの。その名水で育った野菜がもう瑞々しくって』
「わかった、多馬村の農協に問い合わせればいいな。三日以内には話を付ける。また連絡する」
『えっ、もー、聞いてよ!』
話が長くなると察して、用件だけを言い渡すと不満げな声がわんわんと耳に響いたが、容赦なく通話を切った。
「多馬村のわさび農家とも新規契約だ。副島。多馬村の農協に確認を取れ。本わさびとミニトマトを作っている真柴ファームだ。明日、行けるか」
「はいっ」
「須藤、あちらさんに持っていく手土産の手配を。あと副島とスケジュールの擦りあわせしておけ。俺はこのまま本社に戻る。お前たちは各自で動け」
「はい」
副島にスマートフォンを返しながら須藤にも指示をし、様子見も終わった店内を突っ切って、裏口へと向かう。
諏訪園は許可がもらえないと嘆いていたが、阿賀野にとっては難件ですらない。有能な秘書二人に任せておけば難なく解決するだろう。
(もし手間取っても、俺ならどうとでも片付けられる)
それは人の上に立つ者として育てられたアルファである阿賀野の本心であり、親から譲り受けた子会社や、自ら立ち上げた飲食店グループを人気店に押し上げた実績に基づいた事実だ。
慢心でも驕りでもなくただ当たり前のこととして、この件は済んだも同然と自分の中で区切りをつけて、一人で通りに出た阿賀野は、やってきたタクシーに乗り込んだ。他に経営しているレストランの経営者会議に出るべく目まぐるしく動き出した思考の中には、既に頑ななわさび農家のことなど含まれていなかった。
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