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9.震える手
しおりを挟む二日ほど寝込んでようやく、ルーンはベッドの上で体を起こせる程度まで回復した。傷からくる発熱はあったが、医者が処方してくれた薬を服用していればすぐに下がったし、うなされることもなかった。細かな傷も徐々に治ってきて、うっすらとした跡になっているものもあった。けれど、肌を痛々しく彩る痣はまだまだ至る所にあり、足首の添え木があり、とても一人で動き回れるような状態ではなかった。
そんなルーンの看病のため、ヴォーレフは人生で初めて他人の世話をすることに明け暮れていた。
自宅で介抱し始めてから四日目、最近では定位置となったベッドサイドの椅子に腰かけてヴォーレフが読み終えた新聞をたたむと、その向こうで眠っていたはずのルーンが目を覚ましていた。
目元の潤みや頬の上気もない。念のためと額に手のひらを当てても、特に発熱している様子はなかった。
「パンとスープがある。食べられそうか」
「はい」
暖炉には鍋をかけてある。湯も沸いたようだしと立ち上がりながら問うと、ルーンはここ数日でさらに痩せた顎を引いた。薬を飲んでは眠ってばかりなので仕方がないが、あまり食事も摂れていない。もともと細かった手首などは、すっかり骨が浮いていた。
ぼんやりとしているルーンを置いてキッチンへ行く。すでに沸いた湯で二人分の紅茶を淹れ、空になった鍋には手探りで作ったスープを移す。朝に買ってきたパンも添えてトレイに載せて二階の寝室に戻ると、ベッドヘッドに背を預けて起き上がっているルーンが待っていた。
ベッドから少し離れたテーブルにトレイを置き、椅子を移動させていると、ベッドからゆっくりと出たルーンがそろりそろりと歩いてきた。
「ゆっくり歩け」
「ありがとうございます」
左の足首には、まだ添え木が必要だ。ぎこちなく足を引きずるルーンに手を差し出すと、けがの治った指先が、何回りも大きなヴォーレフの手に重なった。
抱き上げたほうが早くはあったが、ルーンの歩みに合わせて椅子まで移動すると、やはり痛みはあったのか、椅子に座るなりルーンがほっと息をつく。それでもヴォーレフが大丈夫かと、もはや癖のように聞くと、痩せた顎を引いた。
「大丈夫です」
「熱っぽいとか、痛みが続くなら必ず言え。それから、あとで医者が来る」
「はい」
殊勝な様子で頷くルーンの前にトレイを引き寄せ、ことことと煮えた鍋の中身をスープボウルに移す。食えと促すと、ルーンは頭を下げ、パンを小さくちぎってスープに浸し、ゆっくりと食べ始めた。
咥内にあった傷が痛んだのか、一昨日までは口にものを入れるたびに顔をゆがめていたが、どうやらそれも治ったらしい。もくもくとパンを食べ、少しだけすくったスープを口に運んだルーンだったが、それでも用意したパンを二切れとスープを半分まで飲み切ると、手元がぐずついてくる。ルーンがどのくらい食べたいかなどヴォーレフにはわからないので、自分ならこの程度という量を持ってくるのだが、ルーンには多いのだ。もう食べないだろうと判断したヴォーレフは、トレイの端に指をひっかけて自分の前に引き寄せた。
「無理して食うな。また腹痛くするぞ」
「は、はい……」
出されたものなのだからと全部無理に平らげようとして、腹痛と吐き気にうめいたのも一昨日のことだ。恥ずかし気にうつむいたルーンが自分の腹のあたりを撫でるのを見ながら、ヴォーレフが残されたパンを食べていると、あの、と細い声があがった。
「あの、コート……なんですが…」
「コート? 寒いのか?」
換気のために窓は少し開けてあるが、暖炉には火がともり、それほど寒くはない。それでも体が薄く、ついさっきまでベッドにいたルーンには冷えがきたかとヴォーレフが腰を浮かすと、慌てたようにルーンはせわしなく首を横に振った。
「ち、違います。あの、ヴォーレフさまからお借りしていたコート……」
「あれなら仕立て屋に出した。直るらしいぞ」
血が付着し、袖はちぎれかけ、よく見るとかぎ裂きもあったが、職人というのはすごいものだ。難しい難しいとうなり、時間がかかるかもしれないがと言いながらも引き受けてくれた。
「……すみません。せっかくお借りしたのに、ぼろぼろにして」
「お前のせいじゃないだろ。直るんだからいつまでも気にすんな」
新しく仕立てたばかりのものではあったが、ヴォーレフにとってはそれだけのものだ。愛着があったわけでなし、ルーンが気にしている様子がなければ、仕立て屋に頼むまでもなく廃棄していた。それでもルーンにとっては主から借りたものには違いがないのだろう。細い肩が目に見えて落ち、うつむいた視線は悲し気に曇っていた。
すっかり消沈しているルーンは、もう一度すみません、と呟いた。
暖炉で薪が爆ぜる音だけが部屋に響く、静かな時間が、ヴォーレフが紅茶を飲み終わるまで続いた。けれど、いつまでもそうしているわけにもいかない。ルーンは体を起こせるようになったし、話もできる。それならばと、ヴォーレフはトレイを手に立ち上がった。
「ルーン。俺からも聞きたいことがある。これを片付けてくるから、お前はベッドに戻っとけ」
「はい」
頷いたルーンを残してキッチンに降り、紅茶をいれるために沸かしていた湯の残りをカップに移す。ルーンに薬を飲ませるためだった。
他人の世話など、ヴォーレフはこれまでしたことはなかった。けれど、やってみると思いのほか面白い。世話をしている相手がルーンなので、暴れたり文句を言ってくることもなく、おとなしく眠っている姿を眺め、時折水を飲ませてやったり体を拭いてやったりしながら過ごすのは、意外にも悪いものではなかった。
部屋に戻るとルーンはベッドに上がっており、手持ち無沙汰そうに指先で布団の端をいじっていた。
「ありがとうございます」
薬包を渡すと、ルーンは苦いそれを口に含む。眉はどうしてもしかめてしまうが、飲みたくないなどとわがままを言ったことはなく、それどころか薬なんて高価なものをと恐縮する始末だった。
悶絶しながらも苦みに耐えるルーンが落ち着いたのを確認して、ヴォーレフはすっかり定位置がベッドサイドになった椅子に座った。けれど、どう切り出せばいいかわからない。膝の上に肘をつき、組んだ手をだらりと足の間に浮かせたまま、ヴォーレフはらしくもなく逡巡していた。
これまでは、思ったことに対して躊躇したり言葉を選んだりすることなどなかった。自分の発する言葉に誰かが怯えようと気分を害しようと、それはそっちの勝手で、ヴォーレフには関係がないと思っていた。けれど、今はどの言葉を選べばいいか、どう言えば目の前の少年が傷つかないかと思うと、なかなか声が出ない。会話の糸口すら見つからない。こんなことは初めてで、戸惑いを隠せないまま、ヴォーレフは組んだ指をぎりぎりと強く締めた。
見つめあうでもなく、互いに視線を別の場所に落としていたが、やがてルーンのほうが静寂に終止符を打った。
「ぼっ……僕の、家、でのことですよねっ?」
俯いているせいでこもって落ちた声は、ひどく緊張してこわばっていた。見ると布団を握りしめた手はぶるぶると震えており、はあ、は、と呼吸も短くなりつつある。とっさに立ち上がり、ベッドに片膝で乗り上げた。俯いたままの小さな頭に手をやると、恐る恐るあげられた視線がヴォーレフを捉え、ほっとしたように細められる。まるで追い詰められた小動物のようだった。
「きついなら無理するな」
体のこわばりは氷のようにわずかずつ溶けているようだが、震えは治まらない。それが寒さから来るものか、それとも生きたまま冷たい土の下に埋められた恐怖がよみがえったからなのか、疑うまでもなく後者であることは明白だ。しくじったと、思わず歯噛みした。
「いい、休め」
なかば押し込めるようにベッドに寝かせ、むりやり首元まで布団をかける。薬はまだ効かないのか、今すぐにでも効けと願いさえしていたヴォーレフだったが、布団から這い出してきた手が指に触れると、はっと顔を上げた。
ベッドの上に小さな頭をのせて、ルーンがヴォーレフを見ていた。
「……あの日」
触れた皮膚はまだ震えている。傷の薄らいだ指を握ると、ルーンは深呼吸をした。
眠りに落ちるまでのわずかな時間を埋めるように、ルーンは五日前に降りかかった惨劇を語りだした。
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