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7.安堵
しおりを挟む「額は三針縫ったよ。瞼と頬は殴られたんだろう。口のなかも切れてるし、しばらく腫れているだろうが薬を塗っていればじきに治る。あとは腕と膝、つま先にも別の薬を出しとくから、ちゃんと塗ってやんなさい」
一時間ほどしてようやく開いた扉に、ヴォーレフはそれこそ弾かれたように立ち上がった。押し入るようにして診察室に入ると、医者はやれやれとため息をつきながら、眠っているルーンをかたわらに、怪我の様子を聞かせてくれた。
医者いわく、おそらく顔の右側を思いきり殴られ、そのはずみで転んで額をしたたかに打ち付け、その時に左側から傾いだために、怪我は左側に多く見られるということだった。そのせいもあって、頭から右目にかけてと左の二の腕や膝、つま先には包帯が巻かれ、左の足首には添え木さえあてられていた。
「足首は捻挫だ。しばらくは安静にしとくように。無理に歩き回ると、変に癖がついちまったりするからね。背中と尻のあたりにも傷があったけど、これは一週間もすれば治るだろう。あとは……さっきこの子をひっくり返してから気づいたんだが」
深く瞼を閉ざしたままのルーンの手を取り、脚を指し、丁寧に説明してくれた医者の声がくぐもる。まさか、とヴォーレフは古い傷跡の横切る自分の眉間に、深いしわが寄るのを自覚した。これだけの暴力を受けながら、更に何かあるのかと、怒りがぐらぐらと視界を揺らす。思わず拳をぎりりと握りしめたが、医者が口にしたのは新たな傷の報告ではなかった。
「見たところ、この子は両性のようだが……国への申請は済んでるか?」
「……は…?」
思わぬ問いかけに、力を籠めすぎた手がぶるっと震えた。かろうじて声を出したが、空気が抜けたような音にしかならなかった。
「尻のあたりに打撲傷があると言っただろう。血もついていたから見させてもらったが、この子は両性だった。出血は、まあ擦過傷からのものだったがね。乱暴された様子もない。ところで、ちゃんと申請はしてるんだろうな? 両性は国へ報告しなきゃならんだろう」
「あ、ああ……」
思わず頷いたが、そもそもヴォーレフはルーンを少年だと思っていた。両性だと言われたことはないが、体を洗っているのを見たこともないし、何度か抱えたことのある体つきも全体的に薄くて軽い程度にしか思ったことはない。呆然としていると、医者はそれならいいがとひとりで納得して、薬を種類ごとに紙に包んだ。
「またなにかあったら来るといい。それと、もしかしたら夜に熱が出るかもしれない。解熱剤も入れておくから飲ませるように。薬はこれとこれ。用量を守って飲むこと。塗るやつはべたべたするから、塗ったら当て布をして包帯でも巻いときな。それじゃあ、薬代と治療費、合わせて金貨三枚だ」
「わかった」
薬をコートの懐にしまい、金を払ってルーンを抱き上げる。すっかり包帯だらけになった少年は、今は穏やかに眠っていた。起こさないよう、傷に障らないようにと気をつけながら抱き直して診療所を出ようとした。ところが、ちょっと、と診療室の隅で静かに控えていた医者の妻が声をかけてきた。
「これは捨ててもいいものかしら」
「これ?」
振り返ると、医者の妻の手には分厚い布があった。土まみれのうえ、どす黒くさえも見えるほど血に染まっているそれは、ルーンに貸したままになっていたコートだったが、ぐしゃぐしゃに皺が寄り、片方の袖など取れかけていて、とてもではないが持ち帰るようなものではなくなっていた。
「この子がずっと握ってたの。要らないなら、こちらで処分するけど……」
「悪いが、処分してく……」
これだけボロボロになっていては、繕っても元に戻るかはあやしい。それよりは買った方が早いからとヴォーレフが首を横に振りかけた時だった。眠っていたルーンの、包帯に覆われていない左側の瞼が薄く開いた。端の切れた唇が緩慢に動き、吐息のようなかすかな声がこぼれる。
「だ、め……ぉれふ、さま…の、…こ、と……」
擦過傷だらけの手が、コートに向かってふらふらと伸ばされる。医者の妻がとっさに差し出すと、細い指がコートだったものをつかんだが、そのままがくんと手が落ちて、ヴォーレフは危うく取り落としそうになった体を抱きとめた。見ると、すでに青白い瞼は閉ざされていた。
「……持って帰る。このままでいい」
「そう……お大事にね」
泥も血も付着しているが、ルーンの手は縋るようにコートを握りしめている。仕方がないと、コートごとルーンを抱えて診療所を出ると、すでにあたりは真っ暗だった。雪の積もる道を、今は穏やかに眠るルーンを起こさないようにゆっくりと歩いた。
屋敷に戻ると、ヴォーレフはとりあえず暖炉がある居間のソファに横たわらせた。その傍らに膝をついて、コートを掴んでいる指に降れる。宥めるように一本一本丁寧に細い指をはがして、ようやくぼろぼろのコートはルーンの手から離れた。
寝息すらほとんど聞こえないほど静かなので、生きているかとルーンの呼吸を確認してしまいながら暖炉に炎をともす。冷え切った居間の空気がゆっくりと和らいでいくのを肌で感じながら、ヴォーレフは腕を組んで眉をひそめた。
戦場には十三年いたが、その間、怪我人の世話はほとんどしたことがなかった。衛生兵がいたし、他人に構っている暇があるなら、怒号と喧騒の間隙を縫って戦っていたかった。あの時少しでも、衛生兵任せにしていた怪我の手当てを教わっていれば、今になって悩むことはなかったのかもしれないと考えたが、結局は後の祭りだ。
今できることをしようと、ヴォーレフはキッチンから持ち出した鍋に水を張って暖炉の上に置いた。お湯はこれで沸くだろうが、なにで拭けばいいのか。考えた結果、屋敷にある布でいちばん清潔そうな、ヴォーレフのベッドシーツの予備を裂いた。ルーンが知れば卒倒したかもしれないが、すでに気を失って眠っているので、とやかくも言われない。お湯と布を用意して、ルーンの体を拭くべく袖をまくった。
ぼろきれになったシャツをすっかり剥いでしまうと、はやはり痛々しいほどに細く、傷ついていた。大きな擦過傷や切り傷は手当てされて布が当てられているが、小さな傷や、赤から紫へ色を変えつつある鬱血は体のいたるところに目立った。
ほとんどきれいに拭われてはいたが、ところどころについた土や汚れを拭いても、ルーンはぐったりとしている。とりあえず下着を着せたまま全身を拭いたヴォーレフは、ベッドシーツと一緒にもってきていた自分のシャツを着せた。ぶかぶかのシャツは袖も丈もルーンには大きすぎる。すんなりと裾から伸びた脚に、ふとヴォーレフは医者の言葉を思い出した。
―――この子は両性のようだが……
「本当にいるんだな……」
男女以外に、稀に両性が生まれることはヴォーレフも風のうわさで聞いていた。両性はその珍しさゆえに、生まれたらすぐに国に申請するようにとされていた。真偽は疑わしいが、国に吉兆をもたらすものとされたり、国によっては人ならざるものとして神殿に召し上げられることもある。そのため浚われて好事家に売られたり他国に連れていかれたりすることがあった。だが、国を挙げて規制をしていても、存在自体が稀有だ。聞いたことはあっても、眉唾でしかなかった。
けれど、医者が言ったのだ。ルーンは両性なのだと。
本当かどうかはわからない。けれど、ヴォーレフはその証たる二つの秘めたる性を見ていないのだ。
ついさっき布で拭った体は、単なる少年の体だった。全体的に薄く、柔らかい皮膚の下に折れそうな細い骨がある、細い体。胸など乳房ほども筋肉ほども膨らみはないし、尻に肉があるわけでもない。ただ肩回りや脇腹のあたりが少し柔らかく、それがとても中性的に思えた。
下着を下ろしてしまえば、ルーンの性別はすぐにわかる。
どうすべきかと呆然と立ち尽くしていると、シャツを一枚羽織っただけのルーンがごそりと動いた。震えながらぎこちなく体を縮めようとする姿に、なにを考えているんだと舌打ちが漏れる。今すべきことは、傷つき寒さに震えるルーンの下着の中を覗くことではない。
ヴォーレフは自分の寝室にルーンを運んだ。部屋数は多い家だが、寝具がある部屋はこの一室しかないのだ。
普段ヴォーレフが使っているベッドは、大柄な彼でも余裕で寝転がれる大きさだ。そこへ小柄な体を横たえると、余計にベッドは広く見える。首元まですっぽりと羽毛の布団をかぶせてやると、小さな頭だけがベッドにちょこんと乗っているようだった。
しばらく、ヴォーレフはベッド脇に佇んでいた。やがて視界の端に散る白いものに気付いて窓の外を見ると、また雪が降り始めていた。
眠るルーンの頭をひとつ撫でて、ヴォーレフは一度一階に下りた。一階の暖炉から火種を取り、二階の寝室の暖炉に火を移した。これで少しは部屋の中を温かく保てる。ベッドの傍に椅子を引き寄せて腰かけると、ようやく深く呼吸が出来た。
深く閉ざした瞼の下に青い瞳を隠して、ルーンは静かに眠っている。傷はよくなるだろうか、熱は出ないだろうかという焦燥はあったが、ここ数日ゆっくりと見ることが出来なかった少年の姿が目の届くところにある。それはとても安心することだった。
夜が明けるまで、ヴォーレフはベッドで眠る少年の白い寝顔を見つめていた。
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