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4.与えられない温もり
しおりを挟む「早めに?」
あっという間に春が過ぎ、うだるような夏が訪れて秋に移り変わり、空気がしんと冷たくなりはじめた冬のある日の朝だった。いつも通り十時よりも早く屋敷にやってきたルーンの言葉を、ヴォーレフは新聞を畳みながらおうむ返しに聞いた。
「はい……。一昨日の夜から、父が体調を崩してしまって。昨夜からは熱も高いんです。父は大丈夫だと言ってくれたんですが、心配で……」
出会って一年経っていた。賃金が安定し、昼は一緒にしっかりと食事を摂っているいるせいか、ルーンは身長が伸びた。ヴォーレフがそもそもなかなかないほどの巨躯ではあるのだが、それでも胸に届くか届かないかというほど小柄だった体は、ようやく肉もつきはじめて上にも伸び、今は胸に届くほどになった。座ってようやく目線がひとしくなるが、今はすっかり消沈したルーンのうなだれた頭しか見えなかった。
「医者へは」
「お医者さんにかかるほどではないと、父が」
うなだれたルーンは、落ち着かなくマフラーを揉んでいる。去年ヴォーレフがルーンを雇った時に買わせたマフラーだった。
あまりにしょぼくれた様子に、仕方ないとヴォーレフは冷めたコーヒーをあおった。
家事や食事はすべてルーンに任せているが、掃除は行き届いているし、食事も外で摂れば済む話だ。それより、そんな心配事を抱えていては仕事にも身が入らないだろうと踏んで、ヴォーレフはわかったと頷いた。
「今日は帰れ。明日も、来れそうになかったら来なくていい」
無理をさせて、ルーンまで病にかかってしまったら大事だ。出会った頃より幾分かふっくらして身長も伸びたとはいえ、彼の体躯はまだかなり細く小柄で、いかにも病に弱そうだった。
しかし、ヴォーレフの言葉を聞くなりルーンははっと顔をあげ、頬を青ざめさせた。
「そ……それは、あの、…あの、僕はか、解雇……なのですか……」
来た時から顔色が悪いとは思っていたが、今の比ではない。マフラーを揉む手さえ震わせるルーンに、どうしてそういうことになるのかとヴォーレフは眉間に深くしわを寄せた。
「お前の親父が治るまで休ませるだけだ」
広い屋敷には、相変わらずルーン以外の使用人はいない。辞めさせるつもりなど毛頭ないと強めに言うと、ルーンは目のふちに涙さえ溜めて安堵の息をついた。
「すみません、早とちりしてしまって……」
「明後日になっても治らないようなら一度うちに来い。医者に行く金ぐらい都合してやる。いいな」
「でもそんな、お医者さんなんて」
「いいな?」
「は……はい。ありがとうございます。あの、スープは作っていくので、それが済んだら……」
「いい、外食するから、お前はもう帰れ」
「でも、パンもまだ買って来てないんです」
そわそわしながらもまだ主人の食事の心配をするルーンにため息をつき、ソファを軋ませながら立ち上がると、ヴォーレフは暖炉傍に置いてあった薪を一束持ち上げた。
「いいから帰れ。ついでにこれも持っていけ」
「せ、せめてスープを」
「お前も、体冷やすなよ」
ルーンはまだ、でも、あの、と繰り返したが、薪を持たせて家から追い出した。扉が閉まる瞬間まで、せめてパンを買ってきますと言い募っていたが、養生させろよと言って扉を閉めてしまうと、その声も聞こえなくなった。
さっさと帰れと追い出したものの、すっかり食生活を任せていたので、ルーンがいなければヴォーレフの食生活はままならない。結局のところ、昼はキッチンにあった林檎をかじり、夜は近くの大衆食堂で適当に食事を済ませた。
翌日は、起きると雪が降り始めていた。ルーンは時間になっても来ず、父親の容態が悪いのだなと、ヴォーレフは庭の枯れ葉の上に雪が積もっていくのをガラス越しに眺めながら思った。
しんしんと降る雪を窓の外に、チェスと鍛錬で一日を過ごしたヴォーレフは、外が暗くなってきたことに気付いて、今夜はバーに出かけることにした。一緒にグラスを傾けるような相手はいないが、ぼんやりとした時間を過ごすには最適だ。
屋敷から歩いて十分程度の場所にあるこじんまりとしたバーで、ヴォーレフは時間をつぶした。いつもならば隅の方でワインをのんびりと傾け、クラッカーや炙った肉などで腹を満たすのだが、今日は口うるさい商売女につかまってしまった。質の悪い香水を頭から振りまいた女の体は豊満で柔らかかったが、どうにも気分がのらない。銀貨五枚でいいからと言い募るのを押しのけて帰宅したのは、それでも家を出て三時間が過ぎた頃だった。
門番どころか執事も雇っていないので、家主が留守にしている屋敷は真っ暗だ。重い鉄の門を開け、玄関までぼすぼすと雪を踏みながら歩いたヴォーレフは、だいぶ近くに寄るまで玄関のポーチに誰かいることに気づかなかった。
明かりもない暗がりで、侵入者は座り込んでいるようだった。決して大きくはなく、むしろ子どもとしか思えない小ささだ。そうなると、心当たりは一人しかいない。
「ルーン。お前、なにしてんだ」
声をかけると、影はのそりと顔をあげた。月明かりを頼りに夜の暗がりに、小さな顔が浮かび上がる。去年買ったコートに身を包み、玄関前に座り込んでいたのは昨日姿を見たきりのルーンだった。
「ヴォーレフさま……」
いつから座り込んでいたのか、頭や肩には雪が薄く積もっている。声も震え、かちかち、と小さな歯がこごえてかじかむ音も聞こえた。とっさにガチャガチャとせわしなく鍵を開けたヴォーレフは、扉を開けるなりルーンを抱えて家の中に連れ込んだ。
細く薄い体は、永遠に体温を取り戻さないのではと思うほど冷えている。雪で濡れたコートを乱暴に脱がせて玄関ポーチに放り、廊下を半ば駆けるようにして居間に転がり込むと、されるがままになっているルーンをソファに座らせ、自分の着ていたコートを上からかぶせた。
「クソッ……早く点けっ」
熾火があればよかったが、ヴォーレフは外出していたので暖炉はすっかり冷え切っている。舌打ちしながら荒れる手つきで乾燥茸にどうにか火をともしたものの、焦る気持ちとは裏腹にじんわりとしか火が起たない。それにさえ腹を立てて、追加で乾燥茸を二個、三個と放るとようやく火が盛んに燃えだした。パチパチと音を立てて室内を暖めだした暖炉に思わず息をつくと、背後で小さくくしゃみがあがった。
振り返ると、ヴォーレフのコートで首から下をすっぽりと覆ったルーンがソファに座ったまま、ぼんやりとした視線を暖炉に投げていた。よく見ると、青白い頬には幾筋もの涙のあとがある。なにがあったのかと、戦場を退いたここ一年では感じることもなかった焦燥に舌打ちしてしまいながらルーンの前に立つと、水の膜をたたえた双眸が一度ゆっくりとまたたきをしてからヴォーレフを見上げた。
「……ヴォーレフさま。あの」
「なんだ」
「あの、あの、ヴォ、ぼく」
もぞもぞとルーンが動く。かぶせただけだったコートがずり落ちて、ルーンがいつも着ている薄いシャツに包まれた体があらわになる。そうするとすがるように、細い腕がコートを抱きしめた。
「あの……あ、あ……」
こごえた頬を、涙がいくつもこぼれていく。ヴォーレフのコートを抱きしめたまま、ルーンはおもむろに泣き出した。きつく閉じた瞼の隙間から、透明な雫が次から次へと粒を結んで落ちていく。頬を伝い、顎を離れた涙がコートに染みこんでいくのを見ながら、ヴォーレフはおそるおそるルーンの隣に腰を下ろした。
泣きじゃくるルーンの、痛々しいほど細い背が震えている。
毎日見ているはずの背中なのに、ひどく壊れやすく脆いものに見えて、ヴォーレフは自分の武骨な手で触れても大丈夫かと不安にさえなりながら、その背中に手を当ててみた。痩せた背中には薄い肉しかついておらず、華奢な骨の感触が、数枚の布越しに伝わった。
「ヴォーレフさま……ヴォーレフさま…っ」
背中に添えられた大きな手のひらを感じたのか、ルーンが泣きながら胸に飛び込んでくる。胸元から響く悲痛な声を止めてやりたいが、ヴォーレフにはそのすべがわからない。自分の不甲斐なさに歯噛みしながらも、表面にその苛立ちを出してしまわないように、ヴォーレフは一つ呼吸をして、努めて落ち着いた声をかけた。
「……なにがあった」
ひっくと声が上がるたびに、その高さと鋭さに喉が傷ついたりしないか心配になる。それほど痛々しく泣くルーンは、それでもヴォーレフの言葉に応えようとして顔をあげ、濡れそぼった頬をさらした。
「お、おとっ、おとう、さん、う……うごかなく、なっちゃって。し、し…しんじゃ……っ」
喘ぐようにままならない呼吸の合間を縫うが、最後までは言い切れず、ルーンはヴォーレフに胸に顔をうずめた。しかし、それでも十分に事態は理解できた。
ルーンの言葉に、ヴォーレフは強く歯を食いしばった。一昨日会った時、無理にでも医者にかからせておくべきだった。金がないというなら出すことに躊躇いなどなかったし、必要があるのなら余っている部屋の一室を貸してもよかった。
なんにせよ、今になっては全てが遅い。
咽び泣く体に、ヴォーレフはソファに置きっぱなしになっていたブランケットを巻き付けた。そのまま抱いて立ち上がる。暖炉の前にいたというのに、華奢な体は軽く冷たい。このまま暖炉前に置いて行くべきなのだろうが、ルーンの指は離れるのを怖がるように、ヴォーレフの胸元をつかんで離さなかった。
まるで布のかたまりのようになったルーンを抱いて外に出ると、まだ雪は降っていた。積雪を踏みながら大通りに出る。さすがに道行く人は少なく、少年を抱えて歩いていくヴォーレフに怪訝な視線を向ける者はいなかった。
「ルーン。家はどこだ」
「す、スラムに、あります……」
ブランケットでくるんでいるのに、抱えたルーンの頬は青白いままだ。家を出るときに無造作に自分の首に巻いてたマフラーをほどき、か細い首に巻いてやると泣き濡れた瞳がヴォーレフを映し、また潤んだ。
「すみませ……っ。ほ、ほんとうは……本当は、こんな、ヴォーレフさまに言うことじゃないって……わかって、いたんです」
「いい。案内しろよ」
謝るルーンを抱えたまま、ヴォーレフは細い路地をいくつも抜けてスラム街に入った。大通りには人気がなかったが、スラムには軒先で寝起きしたり、家がないのでひたすら身を寄せ合っているだけの集団がいたりする。彼らは見上げるほどの巨躯なうえ、ここいらではなかなか見ることのない仕立てのいい服を着たヴォーレフを見ると目を丸くして、逃げるように影の中に消えた。
「ここです」
ヴォーレフも元々はスラムの出身だ。荒れ果てた街の様子を懐かしいと思いながら、案内するルーンに従って歩いて行くと、やがてひっそりとした小屋にたどり着いた。
古びて、今にも崩れそうなほどガタがきている家だ。錆びた蝶番が今にも外れそうな扉を開けると、中は暗かった。周りも灯りなどない家ばかりなので、暗闇にほど近い。強く押せば抜けてしまいそうな窓を開けると、かろうじて月明かりが入った。
床に降ろしたルーンは、ブランケットにぐるぐる巻きにされたままふらふらとおぼつかない足取りで部屋の奥にある扉へと消えていく。あとをついて行くと、ベッドが二台置いてあり、片方には横たわる人影があった。ベッド脇で座り込んだルーンは、大人と思われる人影の手を取り、二度三度とさすった。
「ごめんね、お父さん……ひとりにしてごめんね」
声をかけても、手をさすっても、人影は動かない。それでもルーンは何度も何度も手を撫で、こごえて白い息を吹きかけさえした。
「ルーン。……夜が明けたら、弔おう」
「……っふ、う、あああっ…」
戦場で幾度も目にした光景だった。すでに冷たくなった体を少しでも温めようとしているルーンの肩に手をかけて引き寄せると、白い頬にまた涙が伝った。血を吐くような嗚咽が、夜の静けさを震わせる。
隙間風のような、頼りなく今にも途絶えてしまいそうな泣き声をこぼすルーンを、ヴォーレフは一晩中抱きしめていた。
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