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第五章・帝国の王女
654.Episode Angel:La conocí.
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俺は、ある日を境に誰かを完全に忘れてしまった。
毎日念入りに記憶を失い続けるとはいえ、大事なことならば、なんとなくは思い出せるものだった。──だのに。俺の記憶はある日を境に、なんとその誰かをすっぽりと忘れ、誰かの居場所に他のものを据え置いてしまったのだ。
恐ろしいことに、最初はその異変にも気づかなかった。記憶改竄は勿論のこと、俺自身がおかしくなっていることにも。
だが、あの時。ミカリアのところのガキと共に帝都に繰り出していた、あの日。
その女を見て、俺の心臓は強く鼓動した。
『……誰、だったか』
絶対に、その顔もその声もその名前も、全部知っている。なのに誰か分からない。ただ、どうしてだろうか。『殺されたくない』と泣く彼女を見た瞬間、胸がぎゅっと締め付けられたのは覚えている。
そこからほんの少しの間、その胸の痛みが何なのか原因を突き止めようとしていたら、ミカリアのところのガキが穢妖精に襲われていて。
『危ないぞ、ガキ共』
と助けってやったところ、あいつは吐くばかりで礼の一つもなかった。そこで俺は、
『あの女なら、平然とした顔で礼を言うんだがな』
そう、呟いていた。口をついて出た言葉に自分でも少し驚いた。──あの女、って誰のことなんだ? と首を捻ると同時、生意気なガキが喧しくつっかかってきた。
相手をするのも面倒だったが、俺は大人だから相手をしてやったんだ。そこで、
『まあでも、おまえ達は顔見知りだ。だから助けてやった。普段の俺ならばまず見殺しにしただろうが──……』
ふと、俺は己の異変に気づいた。
『……普段? 違う、ちがう。俺の普通はこうではない。たとえ覚えていなくとも、こうではないのは確かだ。じゃあどうして俺は変わった? 俺が普通を失った原因は、いったいなんだ────?』
俺の記憶はひどく朧げだ。だがそれでも分かった。──今思い出せるこの記憶は、何かがおかしいのだと。
居ても立っても居られず、
『日記……そうだ日記を読めば!』
と羽ばたこうとすれば、仏頂面の精霊に阻まれ、俺は地面に叩き落とされた。
何故形ある精霊が人間界まで出張ってくるのか。そもそもどうして俺が精霊に狙われるのか。王の逆鱗って? 姫君を傷つけたって? いったい何の話──、と考え、何かが引っかかった。
──この俺が、出来もしないことに挑戦してもいいと……そこまでしてでもその笑顔を見たいと思った女。そいつは確か、『姫君』と呼ばれていたと。
顔も名前も知ってるはずなのに何故か思い出せない、王女様。何も思い出せないくせに、その笑顔を思い浮かべるだけでこの心臓は騒ぎよる。
……嗚呼。こんなことなら、もっと彼女の名前を呼んでおけばよかった。さすればこんなにも、忘れたことを悔やんだりなどはしなかっただろうから。
♢
『……──ねぇ、アンヘル君。僕、今ね……物凄く、心臓が痛いんだ』
『なんだ、ついに死ぬのか?』
『死の予兆という訳ではないけど……どうしてかな。彼女を見ていると──心が壊れてしまいそうなぐらい、はち切れるような痛みが湧いてくるよ』
『心が壊れそう、ねぇ……』
その日は、俺とミカリアの記憶を改竄した犯人と思しき妖精について調べるべく、穢妖精を捕獲しようと帝都に繰り出していた。
そこで俺は、彼女と出会った。
『僕の記憶が改竄されているのだとすると、彼女こそが僕の胸を満たしていた存在なのかも』
『へー。あの小娘が………………』
そうだ。きっと、ミカリアの言うとおりだ。あの女を見ているだけで、胸が痛い。胸が苦しい。胸が、どうしようもなく高鳴る。ここまで心が騒ぎだすのに、何も無いわけがない。
だが、この口は勝手に動いてしまうのだ。
『でもあいつ、ミシェルを殺すとかなんとか……言ってたような、そんな気がするような』
ミシェルを優先しろ。ミシェルを愛せよ。そんな呪いのような言葉が頭の中で鈍痛のように響き、勝手にこの口を動かす。
それを聞いたミカリア──俺と同じように改竄された記憶に支配されるあいつが、目にも止まらぬ速度で飛び出して彼女に襲いかかったのを見て、俺の胸はまた痛む。
すまん。あんたを傷つけるつもりはないんだ。あんたを苦しめるつもりも、そんな顔をさせるつもりもないんだ。すまない。本当に、ごめんなさい。
この体が、まるで俺のものではないように動く。俺じゃない誰かの記憶を与えられたように、俺の心に反して頭が勝手に思考し動く度。俺は、罪悪感に襲われた。
『アミ──……ッぐぁ!?』
『ちょっとあの女に用があるから、おまえは邪魔するな』
なんでもいい。何も思い出せないが、とにかくあんたと話したい。
その一心で邪魔しようとする変人王子を止めたら、彼女はミカリアから目を離して『カイル!』と叫んだ。
…………どうして、あんたはこいつをそこまで大事にするんだ? あんたにとってこいつはどんな存在なんだ? ──俺は、どうしてこんな感情を抱いているんだ?
苛々する。何も思い出せないことがもどかしく、ただ、目の前に広がる状況がとにかく気に食わない。
『カイル! 無事!?』
『俺は無事だが、それより君は大丈夫なのか?』
苛々する。
『援軍の見込みはあるか?』
『一応、シュヴァルツが近くにいるらしいけど……彼は制約やら契約やらであまり介入出来ないから、時期を見極めるとか』
『なるほど……あまり頼れないんだな』
苛々する。
なんでおまえは今まで通りなんだ。俺は何も思い出せないのに。何一つ、記憶も感情も取り戻せていないのに。
何故、おまえは平然としているんだ。何故、おまえはこの現状に苦しんでいる様子がないんだ。何故、おまえは──彼女を、覚えていられたんだ?
『ごちゃごちゃ喋ってんじゃねぇ。今すぐ殺してやってもいいんだぞ』
怒りのままに言葉を吐き、ふと、気がついた。気づいてしまった。
──俺は、俺以外の全ての人間に嫉妬しているのだと。
当たり前のように昨日のことを覚えていられるおまえ達が羨ましい。記憶と感情が連続しているおまえ達が羨ましい。刹那を生きず、忘却に囚われない永遠を生きられるあいつ等が──……心から、羨ましかったのだ。
毎日念入りに記憶を失い続けるとはいえ、大事なことならば、なんとなくは思い出せるものだった。──だのに。俺の記憶はある日を境に、なんとその誰かをすっぽりと忘れ、誰かの居場所に他のものを据え置いてしまったのだ。
恐ろしいことに、最初はその異変にも気づかなかった。記憶改竄は勿論のこと、俺自身がおかしくなっていることにも。
だが、あの時。ミカリアのところのガキと共に帝都に繰り出していた、あの日。
その女を見て、俺の心臓は強く鼓動した。
『……誰、だったか』
絶対に、その顔もその声もその名前も、全部知っている。なのに誰か分からない。ただ、どうしてだろうか。『殺されたくない』と泣く彼女を見た瞬間、胸がぎゅっと締め付けられたのは覚えている。
そこからほんの少しの間、その胸の痛みが何なのか原因を突き止めようとしていたら、ミカリアのところのガキが穢妖精に襲われていて。
『危ないぞ、ガキ共』
と助けってやったところ、あいつは吐くばかりで礼の一つもなかった。そこで俺は、
『あの女なら、平然とした顔で礼を言うんだがな』
そう、呟いていた。口をついて出た言葉に自分でも少し驚いた。──あの女、って誰のことなんだ? と首を捻ると同時、生意気なガキが喧しくつっかかってきた。
相手をするのも面倒だったが、俺は大人だから相手をしてやったんだ。そこで、
『まあでも、おまえ達は顔見知りだ。だから助けてやった。普段の俺ならばまず見殺しにしただろうが──……』
ふと、俺は己の異変に気づいた。
『……普段? 違う、ちがう。俺の普通はこうではない。たとえ覚えていなくとも、こうではないのは確かだ。じゃあどうして俺は変わった? 俺が普通を失った原因は、いったいなんだ────?』
俺の記憶はひどく朧げだ。だがそれでも分かった。──今思い出せるこの記憶は、何かがおかしいのだと。
居ても立っても居られず、
『日記……そうだ日記を読めば!』
と羽ばたこうとすれば、仏頂面の精霊に阻まれ、俺は地面に叩き落とされた。
何故形ある精霊が人間界まで出張ってくるのか。そもそもどうして俺が精霊に狙われるのか。王の逆鱗って? 姫君を傷つけたって? いったい何の話──、と考え、何かが引っかかった。
──この俺が、出来もしないことに挑戦してもいいと……そこまでしてでもその笑顔を見たいと思った女。そいつは確か、『姫君』と呼ばれていたと。
顔も名前も知ってるはずなのに何故か思い出せない、王女様。何も思い出せないくせに、その笑顔を思い浮かべるだけでこの心臓は騒ぎよる。
……嗚呼。こんなことなら、もっと彼女の名前を呼んでおけばよかった。さすればこんなにも、忘れたことを悔やんだりなどはしなかっただろうから。
♢
『……──ねぇ、アンヘル君。僕、今ね……物凄く、心臓が痛いんだ』
『なんだ、ついに死ぬのか?』
『死の予兆という訳ではないけど……どうしてかな。彼女を見ていると──心が壊れてしまいそうなぐらい、はち切れるような痛みが湧いてくるよ』
『心が壊れそう、ねぇ……』
その日は、俺とミカリアの記憶を改竄した犯人と思しき妖精について調べるべく、穢妖精を捕獲しようと帝都に繰り出していた。
そこで俺は、彼女と出会った。
『僕の記憶が改竄されているのだとすると、彼女こそが僕の胸を満たしていた存在なのかも』
『へー。あの小娘が………………』
そうだ。きっと、ミカリアの言うとおりだ。あの女を見ているだけで、胸が痛い。胸が苦しい。胸が、どうしようもなく高鳴る。ここまで心が騒ぎだすのに、何も無いわけがない。
だが、この口は勝手に動いてしまうのだ。
『でもあいつ、ミシェルを殺すとかなんとか……言ってたような、そんな気がするような』
ミシェルを優先しろ。ミシェルを愛せよ。そんな呪いのような言葉が頭の中で鈍痛のように響き、勝手にこの口を動かす。
それを聞いたミカリア──俺と同じように改竄された記憶に支配されるあいつが、目にも止まらぬ速度で飛び出して彼女に襲いかかったのを見て、俺の胸はまた痛む。
すまん。あんたを傷つけるつもりはないんだ。あんたを苦しめるつもりも、そんな顔をさせるつもりもないんだ。すまない。本当に、ごめんなさい。
この体が、まるで俺のものではないように動く。俺じゃない誰かの記憶を与えられたように、俺の心に反して頭が勝手に思考し動く度。俺は、罪悪感に襲われた。
『アミ──……ッぐぁ!?』
『ちょっとあの女に用があるから、おまえは邪魔するな』
なんでもいい。何も思い出せないが、とにかくあんたと話したい。
その一心で邪魔しようとする変人王子を止めたら、彼女はミカリアから目を離して『カイル!』と叫んだ。
…………どうして、あんたはこいつをそこまで大事にするんだ? あんたにとってこいつはどんな存在なんだ? ──俺は、どうしてこんな感情を抱いているんだ?
苛々する。何も思い出せないことがもどかしく、ただ、目の前に広がる状況がとにかく気に食わない。
『カイル! 無事!?』
『俺は無事だが、それより君は大丈夫なのか?』
苛々する。
『援軍の見込みはあるか?』
『一応、シュヴァルツが近くにいるらしいけど……彼は制約やら契約やらであまり介入出来ないから、時期を見極めるとか』
『なるほど……あまり頼れないんだな』
苛々する。
なんでおまえは今まで通りなんだ。俺は何も思い出せないのに。何一つ、記憶も感情も取り戻せていないのに。
何故、おまえは平然としているんだ。何故、おまえはこの現状に苦しんでいる様子がないんだ。何故、おまえは──彼女を、覚えていられたんだ?
『ごちゃごちゃ喋ってんじゃねぇ。今すぐ殺してやってもいいんだぞ』
怒りのままに言葉を吐き、ふと、気がついた。気づいてしまった。
──俺は、俺以外の全ての人間に嫉妬しているのだと。
当たり前のように昨日のことを覚えていられるおまえ達が羨ましい。記憶と感情が連続しているおまえ達が羨ましい。刹那を生きず、忘却に囚われない永遠を生きられるあいつ等が──……心から、羨ましかったのだ。
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