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第五章・帝国の王女

♢525.Chapter3 Prologue

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「あっ」

 お気に入りのカップが机から落ち、音を立てて割れる。
 椅子から立ち上がり散らばった破片に手を伸ばすと、

「レオナード様! 危険なので触れないでください!」
「ああ、うん。分かった」

 護衛のモルスが慌てて制止してきた。
 程なくしてバタバタと侍女達が集まってきて、割れたカップの片付けを始める。その様子を眺めながら、俺は絶え間ない悪寒に襲われた。

「──お兄様っ!」
「ローズ? 急にどうしたんだ」

 顔を青くしたローズが、冷や汗を滲ませながら現れる。荒い呼吸を整える間もなく、ローズは声を張り上げる。

「逃げてください! お兄様が狙われているんです!!」

 えっ──と声が漏れた瞬間。背後に、誰かの気配を感じた。

「見ぃつけたぁ」

 振り向くことすら出来なかった。視界の端に見える怪物のような大きな手。それが、俺の顔を覆うように後ろから伸びてくる。

「お兄様っ!!」
「レオナード様!!」

 怪物の手の隙間から、血相を変えてこちらに手を伸ばす二人の姿と、青白い顔でガタガタと震える侍女達の姿が見える。

「──モルス、他の皆も命令だ! 俺のことはいいから、全員でローズを連れて逃げろ!! 王女殿下ならきっと手を差し伸べて下さる筈だ!!」

 この場において最も弱いのは俺だ。人並みの身体能力しかなく、戦闘面においてはまったく役に立たない。
 そんな俺に怪物が狙うような利用価値があるとすれば──……それは、間違いなくこのだろう。
 俺が望むだけで、聞いた人全ての精神を侵す事が出来る声。
 聞いた人の傷病を治すローズの癒しの歌とは違う、音の魔力の中でも指折りの最悪な出力方法。それが、俺の言霊まほうだ。

 だがこれは、喋らないことには発動しない魔法だ。喋らない限り、俺は無力で脆弱な引きこもりに過ぎない。
 ならば──……ディジェル領最高戦力である紅獅子騎士団の面々と、無限の可能性を秘めた愛する妹の安全を優先すべき。
 怪物が俺の声を狙う程の何かがあるというならば、その事態収拾にはローズやモルス達の戦力があった方がいいだろう。
 俺はここでくたばるかもしれないけど、きっと、後のことは王女殿下がなんとかしてくれる。彼女ならきっと、俺の仇だって取ってくれるさ。

「~~~~っ! レオナード様……ッ、ご武運を!!」
「いやっ! モルス離して! お兄様がっ、お兄様がぁあっ!!」

 音の魔力を込めた、命令の言葉。それによりその場にいた人間達は操られるかのように体を突き動かされていく。
 頭では次期大公である俺を守らないと、と思うのに体が言う事を聞かない。そんな状況にモルスは奥歯を噛み締め、ローズを抱えて走り出した。
 そうだ。それでいい。
 それじゃあ、俺がすべきことは──……

「大丈夫だ、俺はやれる。俺だって誇り高きディジェル領の民だから」
「っ!?」

 ローズ達が逃げられるよう時間を稼ぐ事だ!
 腕に力を込めて怪物の大きな手を振り払い、距離を取る。すると、ようやく怪物の姿を捉える事が出来た。
 その姿は──まるで、軍人・・のよう。

「お涙頂戴の寸劇を演じたかと思えば、今度はなに~~? もしかして、オレと戦うつもりぃ?」

 怪物が愉しげに笑う。
 絶対無理だと分かってる。無駄な足掻きだって分かってる。本当は凄く怖いし、今だって足が震えてる。──それでも俺は、ここで戦わなきゃいけない。

『貴方はたとえ強靭な肉体が無くとも、その頭脳とその言葉だけで世界中の人間と渡り合えます』
『私が断言します、貴方は本当に才能に満ちた方ですよ。私の言葉が信じられませんか?』

 彼女がそう言ってくれたから、俺はきっと戦える。
 俺にも才能があるんだって、勇気があるんだって、都合のいい勘違いが出来る。

「……ああそうだよ。俺はレオナード・サー・テンディジェル──腐っても大公子だ。護身術の一つや二つは習得してる。だから、ここでお前を足止めしてやるよ」
「いいじゃんいいじゃん! 最っ高に面白ぇじゃん!」

 怪物の手がこちらに伸びてくる。
 昔、泣きべそをかきながらモルスから教わった、対魔格闘術──これを実際に使う日が来るとは思わなかったな。
 両手で拳を作り、片方だけ前方に出して構える。深呼吸して、俺は魔法の言葉を口にするのだ。

「俺は戦える。だって俺は──……」
『貴方は出来損ないなどではありません。寧ろその逆、天才なのです』
「────天才・・だから・・・!!」

 あの冬の日に見た、高潔なお姫様のように。
 あの秋の日に見た、勇敢な王女様のように。
 ずっと憧れていた、物語の英雄達のように。
 俺だって、無理だと諦めず最後まで戦ってみせる!!


 ♢♢


「──隊長からアンタを見つけて連れて来いって言われた時はさぁ、正直なんで? って思ってたんだよ~~。でも、今ならその意味がよぅくわかる」

 巨大な手を持つ怪物は、眼前にて地に伏せる鈍色の髪の青年を見下ろし、鋭い笑みを浮かべた。

「肉体に宿らなかった祝福がまさか声に宿るなんてねぇ。しかも元々持ってた魔力と呼応して──……覚醒してる間は奇跡まで起こすとか。そりゃあ隊長が欲しがるわけだよなぁ~~」

 レオナードは、たった三十分強の無茶の代償で全身の筋肉が膨張ないし断裂し、血管は破裂し、その異変に耐えられず骨や臓物までもが幅広く損傷していた。

「音の魔力とやらと、奇跡力の二重奏による自己改変規模の自己暗示・・・・。それでこの人間は、一時的に限界を遥かに超えた身体能力を手に入れ、オレと戦った」

 三十七分。それが、レオナードが己の精神をも狂わせ、自己暗示から来る騙し騙しの身体強化で稼いだ時間。
 その代償として、彼は肉体を著しく損傷した。夥しい出血量からして既に死んでいてもなんらおかしくはない状況。しかし、彼は生きていた。

『まだ告白だって出来てないのに……こんな所でくたばる訳にはいかないんだよ!!』

 戦いの最中で彼が叫んだ言葉。自己奮励の為に音魔法──言霊を使い続けていた彼は、それによって奇跡的に一命を取り留めている。
 ただ奇跡を起こしただけではない。なんと彼は──……

「……はぁ。まさかこのオレが、こぉんな人間に腕持ってかれるとか。マジでありえねぇ~~っ! でも楽し~~っ!!」

 怪物の巨大な手を、奪ってみせた。一対の巨大な手を誇っていた怪物は、今や隻腕となっている。そんな怪物の血とレオナードの血が混ざり合い、艶のある深紅のカーペットが出来ようとしていた。
 腕を奪われると同時に相当数の傷を負った怪物は、血溜まりに座り込み大きなため息を零す。

 レオナードは無事に時間稼ぎを成し遂げた。──無力な出来損ないだとただ犠牲になるのではなく……天才としてあらゆる策を弄し、怪物の足をとことん引っ張って。
 その勇姿は誰も知らない。だが、もし誰かが見たならばこう語るだろう。

 まさに、物語の英雄のようであった──……と。
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