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第五章・帝国の王女

444.ある名無しの変化

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 気がつけば、僕は世界でひとりぼっちだった。

 知らない景色に知らない人。
 何より自分自身の事すらも分からない。
 心と頭にぽっかりと大きな穴が出来たのか、僕という存在の全てはその穴からどこかへと落ちてしまったのだろう。

『なあ、少年。行き場が無いってんなら……俺と一緒に来ればいい』

 死にかけていた僕を保護したというお爺さんが、その風体には似つかわしくない口調で僕に提案する。何も無い僕は、それにただ頷く事しか出来なかった。
 そうして、僕とお爺さんの旅路は始まったのだ。

 目的地はこの国の中心地、帝都。
 お爺さんは帝都までの旅路の中で、何も知らない僕に処世術や交渉術や心理術を習得させたかったようで、道中では色んな酒場や食堂、果てには賭博場にも行った。
 お爺さんやたくさんの大人に色々と教わりながら、帝都に向かうこと約二ヶ月。目的地に着くやいなや、お爺さんは僕に銀貨を一枚だけ渡してこう言った。

『いいか、少年。記憶の無いお前さんには人間性ってのがねぇ。俺ぁ未来の・・・部下・・を人形にはしたくない。だからな、お前さんにはこれから一年間──……この街で生きてもらう』
『……僕、一人で?』
『ああ。一年後の今日、今ぐらいの時間に迎えに来る。今日という日とこの場所を忘れないようにしろ、いいな?』

 矢継ぎ早に説明し、お爺さんは僕を置いて人混みへと消えて行った。
 こうして、僕はまたひとりぼっちになった。
 大通りの路地に置いていかれた時は少しは戸惑ったけれど、五分も経てば頭を切り替えてこの先どう立ち回るかを考えていた。
 一年間の生存……その為の手っ取り早い手段はやはり金のある人間に取り入る事。
 まだ扱いに不安が残る魔法を頻繁には使えない。だから僕自身の体と立ち居振る舞いだけが、現在の僕が使える武器だ。

 一案、貴族の屋敷の下働きになる。衣食住に加え継続した収入が保証されるであろう有力手段。
 二案、人の良さそうな夫婦に擦り寄る。浮浪児を装って接触し、涙ながらに身の上話を聞かせれば同情して家に置いてくれるかもしれない。
 三案、帝都を出てサバイバルする。街で人並みに生活する為には金が要るが、僕の手持ちは銀貨一枚なので一年間もの人並みの生活は不可能だからだ。
 四案、手頃な酒場などの手伝いになる。人手が足りてなさそうな酒場に自分を売り込めばいいだけの話。

 この中では……四案が一番現実的かな。
 交渉をより円滑に済ますべく、ターゲットを絞り込んで情報収集をし、手札を増やしておこうか。
 利用出来るものはなんでも利用して、言われた通り一年間生き延びないと。恩を仇で返す訳にはいかない以上、お爺さんの一年後に迎えに来るという言葉を信じて待たなければ。

『…………鳥がたくさん飛んでる。撃ち落とせば、食料には困らないかな』

 とりあえずターゲットを決めて情報収集を……。

『鳥さんをいじめたらだめだぞ』
『……えっと、誰?』

 突然声をかけられ、振り向くとそこには灰色の髪の男の子が立っていた。
 体の大きさが僕とそんなに違わない事から、同年代であると窺える。……まあ、そもそも僕が何歳なのかをまず知らないんだけど。

『俺はシャルルギルだ。鳥さんはしあわせを運んでくれる存在なんだ、いじめたらしあわせを運んでくれなくなるぞ』
『そうなの?』
『昔の絵本にそう書いてあったんだ。まちがいない』

 そうなんだ。でも幸せだなんて不確定な要素よりも、食料という確定的要素を取りに行くべきだよね。

『それはそうと……おまえ、お腹がぺこぺこなのか?』
『ぺこぺこと言うか、これから一人で生きなきゃいけなくて。食料、どうしようかなあって考えただけだよ』

 この男の子は、何が目的で僕と会話を続けるんだろう。意図が分からないな。

『一人で? それは大変だ。おまえのようなちびっ子が一人でなんてとても大変だ』

 ちびっ子……。

『よし。俺の家で一緒に暮らそう、俺の家ではないけど』
『えっ、ちょっと……!』

 シャルルギルは僕の手を掴み、ぐんぐんと進んでいく。止まってと言っても彼は、『大丈夫だ』と意味不明な返事をして足を止めずに進む。
 何度か道に迷いつつ辿り着いたのは、古びた家。この家を含め、この区画は寂れている事から……ここは貧しい人が集まる街なのだろう。
 そこで、僕は彼等と出会った。

『ディオ、お腹がぺこぺこなちびっ子を連れて来たんだ。何か美味しいご飯はあるか?』
『いやそんなモンあったら俺達が食いたいぐらいだっつの。つーかちびっ子ってなんだよ』
『じゃあ俺の分のご飯をあげよう。俺は我慢でき……』

 シャルルギルから、気持ちのいい腹の虫が聞こえてくる。

『出来なさそうじゃねぇか。てかそのちびっ子ってソイツか? ……おいアンタ、名前は? どこから来たんだ? うちのシャルルギルに集ってんじゃないだろうな』

 わあ、随分と怪しまれてるな。

『南の方から帝都に来たばかりだよ。これからどうやって一人で生きていこうかなって考えてたら、その人にここまで連れて来られた。名前は…………』

 ここで答えに詰まると、眼帯の男の子は『なんだよ』と訝しげにこちらを見下ろす。

『……分からない。二ヶ月前までの記憶が無いから』
『──は? 記憶が……無い?』
『それは本当に大変だ。きおくそーしつというやつじゃないのか、それは。大変だ。すごくすごく大変だ』
『ちょっと黙っててくれシャルルギル』

 あのお爺さんも、これまで出会った人達も、皆僕の事を『少年』と呼んでいた。だから僕は僕の名前を知らない。僕という存在を、全く知らないのだ。

『はァ。なんでうちはこういうのばっかり…………』

 眼帯の男の子はそれを覆い隠すように手を当てて、ため息混じりに項垂れた。
 そして。顔を上げたかと思えば決意を帯びた目で僕を見据えて口火を切る。

『うちの馬鹿がここまで無理やり連れて来て悪かったな。コイツは本当に馬鹿なだけで、悪気があったわけじゃねぇんだ』
『む。馬鹿って言う方が馬鹿だってユーキが言ってたぞ』
『お前マジで一旦黙ろうな? ……あー、でだ。これも何かの縁って事で、アンタもここに住まないか? 正直、帝都で子供が一人で生きるなんて不可能だからな。集団での方が何かと便利だぜ』

 一理ある。僕もそれには気づいていたから、誰かに寄生しようとしていたんだけど、向こうからの提案ならこちらの方が手っ取り早いか。
 この街でなら僕のような子供も怪しまれず、闇の魔力を使う事もそうそうないだろうし……結構いい提案かもしれない。

『……うん。それじゃあ、お世話になります』

 その後、彼の家族なかまだと言う人達を紹介され、更に僕は不便だからと名前まで貰ってしまった。
 彼等がつけてくれた名前は──サラ。
 良くも悪くも警戒心の無い彼等は気軽に僕をサラ、と親しみを込めて呼び、色んな事を教えてくれた。お爺さんが教えてくれなかったような常識的な事から、些細な事まで。
 はじめは打算で転がり込んだディオの家だったけど……彼の家で皆と過ごした日々は、空っぽだった僕の空洞を少しずつ埋めてくれた。

 楽しいと感じる日々はあっという間に過ぎ去り、早くも一年が経とうとしていた。──そう、お爺さんとの約束の日が刻一刻と近づいていたのだ。
 彼等と一年程度しか関わっていない僕なんかが別れを惜しむなんて、おかしな話だと分かっている。それでも、約束の日の前夜は眠れなかった。

 ラークとバドールに値切り交渉のコツを教えるって約束、守れなかったな。
 ブラッシングはまたしてあげるって言ったのに、ジェジ、ごめんね。
 クラリスに勝ち越したままいなくなって、文句言われないかなあ。
 ユーキとはあんまり仲良くなれなかったな。残念。
 エリニティと、今度いたずら装置を作ろうって話してたっけ。
 シャルルギルはこれからもあんな調子なのかな、心配だな。
 イリオーデの夢が叶うよう、ずっと祈ってるよ。
 ディオ達がつけてくれたこの名前……もう、誰にも呼んでもらえないのかな。

 胸がきゅっと苦しくなり、その夜は眠れなかった。
 まだ夜も明けぬ頃。闇の魔力を使ってこっそりと起き、僕はメモと借りていた服、そしてあの日にお爺さんから渡された銀貨を置いてディオの家を出た。
 急に居なくなったら彼等の事だしきっと心配する。だから、僕が自分の意思でいなくなったのだと伝える為に、『またね』と書き残した。

 約束の時間までのんびり街を歩き、あの時お爺さんと別れた場所で待っていると、お爺さんは片手をひらひらとさせながら現れた。

『よぉ、少年。無事に生きていたようで何よりだ。どうだった、この一年は?』
『この一年……』

 お爺さんに促され、僕は思い出を振り返った。

『──とても、楽しい……ひ、び……っ』

 すると、目が熱くなって視界が歪み始めた。声は震え、頬を何かが伝う。

『だ、った……!』
『そうか。ちゃんとお前さんに人間性が芽生えたんなら、この一年は無駄ではなかったって事だ』

 お爺さんは満足そうに笑い、力強い手で僕の頭をぽんぽんと叩いた。そのまま手を肩まで落とし、僕の体を引き寄せて、

『好きなだけ泣け。お前さんは、もう虚ろな人形じゃない──……楽しい記憶も、別れを惜しむ心もある立派な人間だ』
『ぅ、わぁああああああああんっ』

 人の往来が激しい通りで僕は思い切り泣いていた。
 はじめて感じた温かさや楽しい日々を手放してしまった事への後悔が、涙となって溢れ出る。
 そんな僕が落ち着くまで、お爺さんは待ってくれた。目の周りが赤く腫れた僕の手を引き、お爺さんは歩いて行く。

『お爺さん、僕、これからどこに行くの?』
『んー? お前さんが輝ける場所だぜ、少年』
『……少年じゃない。今の僕には、サラって名前があるよ』
『へぇ。いい名前貰ってんじゃねぇか。じゃあお前さんの偽名コードネームはそれでいいな』

 コードネーム? と首を傾げると、お爺さんはシワシワの顔に似つかわしくない不敵な笑みを浮かべた。

『もうすぐ分かる事さな。まあ、楽しみにしておけ。帝国でも指折りのやり甲斐ってモンを感じさせてやるよ』

 この時の僕は知らなかった。
 皇帝陛下直属の諜報員集団──……諜報部に所属して、間者スパイとして世界中を飛び回る事になるなんて。
 そして。仕事で訪れた世界中の色んな国で、僕はいつも空を見上げていた。

「……星空って、いつどこで見ても凄く綺麗だね」

 誰かにこの感動を共有したいと思っていたけれど、今までそれが誰かは分からなかった。でも、今なら分かる。

「兄ちゃんも帝都で見てるといいなあ」

 白亜の町で星空を見上げ、僕は遠い昔の記憶を反芻していた。
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