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第三章・傾国の王女

265.ある皇太子の愛憎

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 遠い、遠いある日の温かな記憶。

『───ねぇ、フリードル。優しいお兄ちゃんになってね。パパみたいな仲の良い兄妹になってね』

 大きく膨らんだ腹部をさすり、その人は僕の頭を撫でた。父上からは与えられた事の無い温かさだった。

『───きっとね、あなた達は仲良くなれると思うの。だってパパの子供だもの……パパは弟の事が大好きだからね、きっとフリードルもアミレスの事を好きになるわ。ううん、きっとじゃあなくても、アミレスの事を好きになってあげてね』

 幼い僕は母上に促されるまま腹部に耳を当てて、妹の存在に思い馳せていた。
 妹……たった一人の僕の妹。僕は君を、兄としてたくさん愛するよ。それが兄妹というものだと母上から何度も言われていたから。
 僕は父上似だから、妹は母上似かな? なんて考えていたかもしれない。
 僕は優しいお兄ちゃんになれるかな、仲の良い兄妹になれるかな。なんて考えていたかもしれない。幼心に、妹の誕生を心待ちにしていたのかもしれない。
 ありきたりな幸せな家庭になると思っていた。仲の良い家族になれると思っていた。
 だけどそれは幻想でしかなかった。妹の誕生と同時に母上が儚くなり、僕達の幸福はいとも容易く崩れ去った。
 待望の妹の誕生。少しうるさいぐらいの産声と共に生を受けた、僕の妹。母上の侍女と共にその場に立ち会っていたけれど……僕もその瞬間には感動していた。
 産婆から布に包まれた赤ん坊を渡され、幸せそうにその赤ん坊を抱き締める母上。しかしその直後──まるで糸の切れた操り人形かのように、母上の体から力という力が抜けた。
 赤ん坊を抱く手だけはそのままで、母上は寝台ベッドに倒れ込み、その場で息を引き取った。

 あまりにも、突然の事だった。
 昨日まで……ほんの数時間前まで病気も無く元気だったのに。母上は、原因不明の急逝を遂げた。
 待望の娘の誕生で仕事を放り出して駆けつけた父上は、この惨状に酷く絶望していた。
 そこで僕は初めて、父上の涙を見た。幸せそうに微笑み、赤ん坊を大事そうに抱き締めて永い眠りについた母上を見て……父上は強く感情を溢れさせていた。
 僕の隣では母上の侍女とケイリオル卿が膝から崩れ落ち、涙を流しているようだった。そんな、誰もが予想外だったこの不幸に、僕も遅れて涙が零れた気がする。
 後にも先にも、これが僕の人生で涙を流した唯一の出来事だったのかもしれない。
 父上は妹を殺そうとした。父上から母上を奪った妹を殺そうとしていた。だが、それはケイリオル卿が命懸けで阻止していた。

『───退け、ケイリオルッ! それは、それは、私からアーシャをッッ!!』
『───絶対に退かない! 例え何があろうとこの子は死なせない! そんな事をして、彼女が喜ぶと本気で思ってるんですか!?』
『───ッ! 私、は……私は…………ッ!!』

 涙を流し修羅のごとき表情でケイリオル卿を睨む父上と、そんな父上から妹を守るように立ちはだかるケイリオル卿。幸福と不幸が重なる場にて、もはや収拾のつかない一触即発の空気が流れる。

『───とにかく今は落ち着きなさい。確かに彼女が死んでしまった事は酷く悲しい事だけど、だからってそれが彼女の忘れ形見を殺す理由にはならないでしょう!』

 あの父上相手に、ケイリオル卿はピシャリと言い放った。悔しげに奥歯を噛み締め、それに怯む父上。
 その隙にとケイリオル卿は母上の侍女に妹を預けてこの場から逃がし、妹は九死に一生を得ていた。
 それからは一ヶ月……いいや半年以上もの間、父上は魂を失った抜け殻のようだった。母上を亡くしたショックが全く抜け切らなかったらしい。
 だからだろうか。雨の日も雪の日も風の日も毎晩かかさずに、父上は母上に会いに行っていた。母上の墓石は二つ……一つは親族の墓の隣に、もう一つは母上が愛していたという皇宮の中庭の真ん中──美しい木の下に作られていた。
 父上は、毎晩母上との思い出の中庭を巡っては、母上の墓の前で酒を飲み眠っていたらしい。
 体調不良なんて関係ないとばかりに行われる虚しい行為に、誰も口を挟める筈も無く。父上関連では頼みの綱のケイリオル卿も、抜け殻となった父上の代わりに全ての仕事を担っていた為、父上の奇行には手が回らなかったようだった。
 母上の一周忌の頃には父上も少し落ち着いた。だが、それと同時に父上は変化した。

『───フリードル。アレはお前の妹などではない。アレは道具だ、私達の覇道の為の道具に過ぎない』

 父上の冷たくて大きな手が、僕の肩を抉る程に掴む。憎悪に濁った父上の視線が鋭く僕を貫いた。
 この時から、父上は僕に『妹は道具だ』と言い聞かせるようになったのだ。
 僕も最初は戸惑った。だって母上は、妹を愛せと……そう言っていたから。でも父上はそんなのお構い無しにと僕に語り掛ける。
 一年近く毎日のように、父上から同じ言葉を言われると……当時まだ二歳とか三歳の僕は父上の言葉を信じ、父上の言葉に従い生きるようになった。
 ぽっかりと空白が出来たかのように、それまでの何もかもを忘れて──。


♢♢♢♢


 ……憎い、憎い、憎い。あの女が憎い。道具の分際で僕の頭に延々と居座り続けるあの女が目障りだ。
 僕は正しい事をしていたのに何故それがさも間違いだったかのような、変化の苦しみに苛まれなければならないんだ? 僕は何も間違っていない。父上は正しいんだ。あの女は道具に過ぎない。いつ殺しても構わない存在の筈なのに。
 どうして僕は、あの女を殺せないんだ?

『兄様がわたくしの事を愛してくれた事が一度たりともありましたか? 無かったでしょう、そんな事。愛されないと分かっていて愛を求めるような愚かな事……わたくしはもう、二度としたくないのです』

 あの女の嫌悪が滲み出る声が繰り返される。

『これはあくまでも俺の仮説なんですが……恐らく、王女殿下はフリードル殿下の事をまだ好きなのだと思います』

 レオナードの適当な言葉が繰り返される。

『お悩みのようですから、私が断言致しましょう。王女殿下はフリードル皇太子殿下と皇帝陛下を心から憎むと同時に、心から愛しているようです』

 ケイリオル卿の諭すような口調が繰り返される。
 分からない。分からないんだ……どうしてあの女はあんな態度なのに、周りの人間から僕を愛しているなどと思われているんだ?
 僕の事が憎いんだろう、嫌いなんだろう。殺意を隠そうともしないんだ……僕がお前に向ける憎悪と同等かそれ以上に僕が憎いのだろう?
 なのに何故…………あんなにも毎年毎年、僕の体を気遣ったプレゼントを寄越すんだ?
 答えの見つからない矛盾。目を逸らす事など出来ないその問題に一年以上直面し続けた結果、僕はようやく、答えを得てしまったのかもしれない。

「……──何故、僕がお前を愛する必要がある。そう告げたら、あの女は泣いて倒れたな…………」

 ある冬の日。愛する必要が分からないと告げたら、あの女は涙を流していた事を思い出した。これと同時に、遠い記憶の中で産声と共に泣きじゃくる赤ん坊の姿が思い出された。
 今思い返せば、あれは全てが壊れ狂ったあの日以来始めて見た妹の涙、だったな。
 あの時は突然現れた謎の子供達に意識を持っていかれ…………いや、今程あいつの事をまともに考えていなかったから、涙にもさほど気が留まらなかった。
 でも今は違う。何故か急に、ある日を境にあいつの事で頭が支配された。僕の意思など関係無いとばかりに、無理やり変化させられた。
 だから今更一年も前の事を思い出して、僕は思い悩んでいた。
 絶対的な父上の言葉が本当に正しいのかと疑うようになり、忘れ去られていた過去が蘇る。感情が、記憶が精神こころの奥底から湧き上がる。
 あの女は……匿名で僕の誕生日に毎年プレゼントを贈り、僕が死ぬ事を恐れているような素振りを見せた。きっとあの女にとっては──僕への愛情も憎悪も同じものなのだろう。
 だからどちらも捨てられず、不格好で醜い生き様をしている。ああ、なんと馬鹿な事か。

「……──フンッ、馬鹿は僕も一緒か。最悪だ、一番思い出したくない事を思い出した…………ずっと目を逸らしていた事に、気づいてしまった」

 どちらも捨てられない馬鹿は、僕も同じらしい。
 あの女の言葉は間違っていた。しかし、レオナードの言葉とケイリオル卿の言葉は間違っていなかったのだ。
 僕は過去、確かに一度あの女を愛していた。認めたくはないが、妹として愛していた事があった。あの女を殺せないなどと思ってしまったのも、きっとこの今更思い出した一欠片の愛情によるものなんだろう。
 ……いや、それに関しては悪魔の影響もあるか。本当にあの女が悪魔召喚をしたのかまだ追及出来ていない…………あの女がディジェル領の件から帰って来たら、東宮に押しかけてみるか。

 父上からの洗脳に等しい言葉で、僕は父の望む『フリードル・ヘル・フォーロイト』という作品に作り上げられた。
 『僕』というキャンバスを覆うように新しくキャンバスを貼り、父上が望むように描かれた僕。それこそが僕自身であり、僕はそれを信じて疑わなかった。
 だが近頃、それを荒々しく上から塗り替えられていくような……キャンバスそのものを破られてしまったかのような、明確な己の変化を知った。
 それによって、僕は一番思い出したくなかった事を思い出した。
 それは、母上との約束と妹への愛情。酷く不快だったが、同時にどこか心地よいものだった。
 …………あいつと兄妹らしく過ごした事など、これまで一度たりともなかったと、当然の事に今更気づく。
 数年前のあの日まで、あいつから僕に歩み寄ろうとはしていたみたいだが……父上があの女を疎むからと、僕もそれに倣いあの女を疎んでいた。
 そんな僕が妹とまともな兄妹らしく過ごした事などある訳がなかったのだ。
 そうやって、母上との約束もあいつへの愛情も全て忘れ……ただただ父上の言う事を聞くだけの滑稽な存在に、僕はなっていた。

 ──だが今この時、父上によって作り上げられた作品『氷結の貴公子フリードル・ヘル・フォーロイト』は解け落ち、自分というものを持たないつまらない本性が露わになってしまった。
 父上からの言葉や指標がなければ何も出来ない、情けない人間。今の僕は、どこぞの野蛮などと謗られている女よりもずっと役立たずな人間だな。
 ……まさか、この僕がこんな風に自嘲する日が来るとは。未だあの女の事を考えると形容し難い感情の渦潮が巻き起こり、それに名をつける事が難しい。
 愛していたから憎いのか、憎いから愛してしまったのか。
 ケイリオル卿の話だと前者が正しいんだと思うが……どうしてか、僕は後者の方が心にスっと入ってくる。この狂い凍てついていた心には、これ程歪んだ考え方の方が合っているのだろう。

「……はぁ、残念だったな、アミレス・ヘル・フォーロイト」

 とある吹雪の夜。窓に僅かに映る自分の顔は、自嘲気味に嗤っていた。

「どうやら僕は──……憎らしい程に、お前を愛しているらしい」

 自覚した途端湧き上がる汚れた激情。
 ──例え今は殺せずとも、いつか必ず、お前をこの手で殺したい。
 それがお前が望んだ、僕からお前にやれる唯一の憎悪あいじょうだ。独り善がりの愛情だと、狂った愛情だと思うのならそれで構わない。
 今の僕がお前に抱ける愛情などと言うものは憎悪これしかないのだから、これ以外をなどと贅沢言われても困る。

 だからどうか……いつか僕に殺されてくれ。
 お前がかつて僕を愛していたように、僕にもお前を、愛させてくれ。
 せめて一度だけで構わない。母上との約束を果たさせてくれ。兄妹らしく、仲良くあいし合おう。

「フリードル殿下、皇太子妃選定の第三次審査についてなのですが……どうかされましたかフリードル殿下?」

 コンコン、と扉を叩いて僕の私室に入って来たのはケイリオル卿だった。

「……何だか色々と吹っ切れたような清々しいお顔をされてますが、何か心境の変化でもありましたか?」

 もう既に全てを把握されてしまってそうな、含みのある口調と声音だな。相変わらず謎が多い人だ、ケイリオル卿は。

「強いて言うなら……妹が可愛さ余って憎さ百倍、と言った所でしょうか。久々にあの女を愛おしく感じてますよ」
「…………これは、また。予想以上に吹っ切れてますね」
「そうみたいです、自分でも驚きですよ。ああ、話の腰を折ってすみません。第三次審査がどうかしましたか?」

 ケイリオル卿が呆気に取られている姿など初めて見た。そんなにも意外なのか、僕が妹に愛憎を抱く事は。

「ごほんっ、第三次審査はいわゆる面接なのですが……何かフリードル殿下から令嬢達に質問したい事柄などはございますか?」

 気を取り直したケイリオル卿が軽い咳払いの後、そう生産性の無い事を問うて来た。
 皇太子妃選定など、僕のような人間の嫁によくもまあ立候補するな……ぐらいにしか考えていなかった。それだけ興味の無い事柄だった。無論、それに参加する者共にも興味は無い。
 だからそのような事を問われても質問など何も出て来ないのだが、ふとある項目を思いついた。どこからどう見ても性格の悪い質問……それを考えた時、僕の口角は自然と弧を描いていた。

「『何か一つ、第一王女に絶対に勝ると自負する事柄を説明せよ』と、聞いて下さい。多分愉快な事になりますから」
「はは、愉快ですか。しかし……ふむ、中々に恐ろしい質問ですね。嘘八百を並べ立てるも一興、大言壮語に突き進むも一興、身の程を弁え口を閉ざすも一興…………これは、皇太子妃に相応しくない者が確実にふるい落とされるであろういい質問ですね」

 やけに肯定的な意見を述べ、ケイリオル卿は「夜分遅くに申し訳ございませんでした」と楽しげな声で言い残して部屋を出た。
 さて……もう来客も無かろう、まだ混乱する頭を落ち着かせる為にも早く眠りにつこう。

 そうして眠った僕の目蓋の裏には──……ある時たまたま見かけた、剣を楽しそうに振る忌々しくも愛する妹の姿があった。
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