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第二章・監国の王女

158.夢の終わりに餞を

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「ひっく………ぅ…っ!」

 誰かが泣いている。暗い世界の中で、ぽつんと一人、六歳ぐらいの少女が泣いている。
 ──どうして泣いてるの。
 私の口がゆっくりと動いた。するとその女の子は波打つ銀髪を揺らして振り向いた。その泣き顔は悲痛に染まっていて。

「にい、さまが………ぅぐっ、…わたしを、あいっ……して、くれない……って、いった、から…っ」

 一歩ずつ少女に近づき、私は彼女を抱き締めた。
 体を震わせ涙を流す少女を優しく包み込み、語りかける。
 ──ごめんね。私の所為で、あんな事まで言われちゃって……本当にごめんね、アミレス。
 彼女の涙は私の所為だ。こんなにも涙する程にあの二人からの愛を諦められないのに、私が無理やり諦めようとしたから。
 あの二人への反抗心で、余計な事を沢山言ったから。だからアミレスがこんなにも苦しんでいるのだ。

「わたしの、なにがだめなのぉ……っ、どこをなお…して、どう、がんっ…ばれば……おとう、さまと…にいさま、は………わたしを、あいして…くれる、のぉ……っ」

 ──私達がどれだけ頑張っても、あの人達は私達を愛してくれない。フリードルのあの言葉で、分かった事でしょう?

「でもっ、でも……にいさまだって、おおきくなったら…だれかを、すきに…なるんだよ。それなら、もしかしたら、わたしを……っ、あいしてくれるかも、しれない…」

 ──フリードルが誰かを好きになったら、私達は要らなくなっちゃうよ。フリードルに不要とされて、邪魔な道具を捨てるように壊されちゃうの。だから、フリードルの事は諦めよう? 皇帝の事も諦めようよ、アミレス。

「……っ! でも、そうだとしても…わたし、は……っ、にいさまと、おとうさまには…ずっと、げんきで…いてほしいよ…………しんじゃ、やだぁ…!」

 まるで私が彼女になった頃のような小さな体で、アミレスはめいいっぱい訴えかけてくる。
 どれだけ蔑ろにされ疎まれても、それでもずっと愛情を求め続けたアミレスがこんな事で諦められる訳が無かった。死に際に思う事でさえ『愛されたかった』なこの少女が、その人格の根幹たる愛情欲求を捨てられる訳が無かった。
 それなのに、私は………それを捨ててくれと、こんなにも小さな少女に強要して来たのだ。
 ……でも。それでも、私は絶対に幸せにならないといけないんだ。
 何故かは分からないけれど、私は、私だけは幸せにならないといけない。そんな衝動に駆られる。アミレスの想いを見殺しにするとかそういう話ではなく、まるで今ふと思い出したかのように、そんな絶対的な指標が私の中に現れたのだ。
 どうして幸せになる事にこれまでこだわって来たのか、自分でもよく分からないが……もしかするとこれが理由なのかもしれない。
 全く思い出せない、『私』の事。どこの誰なのか、顔は、歳は、夢は………そのどれか一つすらも、私は思い出せなかった。
 他の事──学校で習った事とかゲームや漫画の事はめちゃくちゃ覚えてるのに、どうしてか『私』の事だけは何一つ覚えていない。それなのに、『私』の根底に関わりそうなこの指標だけが突然私の中に現れたなんて。
 何よ、『私だけは絶対に幸せにならないといけない』って……どんな人生送ってたらそんな事考えつくの? そんな意味不明な指標の所為で、私は更にアミレスの望みを踏み躙らなければならなくなったのだ。
 私の幸せの為には、アミレスの渇愛を無視しなければならない。
 アミレスの幸せの為には、私の指標を無視しなければならない。
 真逆の望みを持ってしまったが故の、最悪の衝突だ。私達二人の望みが一致する事は無い。何せ、片や叶う筈のないもの。片や難易度もゴールも分からないもの……そんな望みが一致して叶う訳が無かったのだ。
 何が二人で一緒に幸せになろう、だ。そんな事ハナから不可能じゃないか。
 アミレスの想う幸せには皇帝とフリードルの愛が必要で、私の思う幸せには皇帝とフリードルの存在は不要。最初からこんな風に矛盾してるのに、どうしてそれから目を逸らしていたんだ私は。
 何を無茶な理想論ばかり語ってたのよ、馬鹿じゃないの?
 てかさ、数年後には私の事を殺そうとする人達を、どうやって愛せって言うのよ。要らないわよあんな人達、押し付けられても速攻でクーリングオフするわ。
 愛を求めても求めなくても皇帝とフリードルは殺しに来そうな感じだし……どっちにしろ、あの二人に命を脅かされる事に変わりないのよ、私達は。
 それなのに、それを知っても変わらず愛を求めるとか…はっきり言って正気の沙汰じゃない。
 ──ねぇ、アミレス。本当の本当にあの人達じゃなきゃ駄目なの?
 アミレスと向かい合って座り、私は今一度問いかける。すると、アミレスは目元を擦りながら小さく首を縦に振った。

「……うん。だって、わたしの…たったふたりだけの、かぞく…だから」

 ──家族だったら誰でもいいの? それなら頑張って親族捜すけど…。

「だめ、おとうさまと、にいさまじゃなきゃ………やだ」

 今度は首を横に振る。頑固だなぁ、本当に。あの親と兄のどこがいいのか、私には本当に分からない。
 ──あの二人に愛してもらわないと、アミレスは幸せになれないのね?

「うん。あなたは……ちがうの?」

 質問返しをされるとは思わなかった。しかし特段困る事は無い。何せ私の答えは決まっているから。
 ──ええそうよ。私は…幸せが何かは分からないけれど、少なくとも死にたくない。愛する人に利用されて棄てられるなんて結末は迎えたくない。だから、貴女のそれとは違うわ。
 六年前に見た、成長前の小さなアミレスの綺麗な瞳を真っ直ぐ見つめて、私は口を動かす。
 愛というものも、幸福というものも、この身この記憶に全く覚えがないから詳しくは分からないが……多分、死なないでハッピーエンドを迎える事が私の幸福となるだろう。

「…でもね、私……お父様や、兄様が死んじゃうぐらい、なら………私が、代わりに死にたい」

 アミレスが泣き止んだそばから恐ろしい事を口走る。何を言ってるんだ、この子は。

「お父様に怖い顔をさせて、兄様に冷たい顔をさせる私なんて、本当はいない方がいいの。でも、それでもね……私が少しでも、お父様の役に立てる子になれば、兄様の気を悪くしないいい子になれば、そうしたらきっと…私も愛してもらえるって………そう、思ってたの」

 そう語ったアミレスが、儚く笑う。その微笑みはとても、純粋無垢な少女がするものでは無い。
 どうして『思ってた』って…過去形なんだ? 今は思ってないのか? でもおかしい、アミレスはずっと変わらずあの二人の愛を求めてるのよ。一体どういう──…っ、まさか!?
 その時、私は一つの可能性に行き着いた。
 この空間が何なのか、そして目の前にいるアミレスが何なのか。いつか悪魔から聞いた言葉や、私の心で起きた事を思い出し、答えを見つける。
 ──アミレス、貴女………私の記憶を見てしまったの?
 僅かに口元が震える。その時、アミレスはただ儚い微笑をたたえていた。
 ああそんな、最悪だ。よりにもよってアミレスにあれだけの悲しい結末を見せてしまうなんて。
 ここは悪魔と何度か出会った夢の世界……私の精神世界に酷似している。そして目の前に在るアミレスは、きっとアミレスの残滓そのものだ。
 この世界が私達の知識や記憶を流出させまいとしていようと、完全に心と体が同化したのなら…その限りではない。何せ私は常にアミレスの残滓に苦しめられていた訳だし、稀にだがアミレスの記憶が再演フラッシュバックされる事もあった。
 アミレスの感情が痛い程伝わってくる事もあった。心の奥底から沸き上がるようなそれに、私の心は何度も侵食されていた。
 つまり、アミレスと言う存在は確かにずっと私の心の奥底にいたのだ。言うなれば深層心理にある無意識領域……そこに眠っていたアミレスの記憶や感情が私に伝わるぐらいなのだから、私の記憶や感情がアミレスに伝わらない訳が無い。
 深淵をのぞく時、深淵もまたこちらをのぞいている──…これはまさに、そう言う事だった。だからアミレスは、『思ってた』と過去形で語ったんだ。そう信じて行動した末に、自分がどうなるかと知って。
 ……じゃあ、どうしてあの結末を知っても尚、そんな風にあの二人の愛を求めるの? 死ぬって分かってて、どうして。

「私は誰かに作られた存在で…どれだけ頑張っても、お父様と兄様には愛してもらえないって知った時は、凄く辛かった。私が何度も死んだ事よりも、愛してもらえない事が嫌だったの」

 先程まで小さかったアミレスが、瞬きの間に大きく…ゲームで見た姿へと変貌していた。今の私よりも大きな、未来の姿で彼女は、

「でも……それでも私は、お父様と兄様が大好き。これが絶対に叶わない望みだとしても、これが誰かに与えられた感情なのだとしても、私はずっと──…お父様と兄様を、愛してるわ。それだけが、出来損ないの私に出来る事だから」

 あどけない笑顔を浮かべた。愛されず、利用され、棄てられると分かっていても………彼女は絶対にあの二人を愛すると言った。
 全てを知った上でそんな風に言ってのけるなんて…そんなの、私が勝てる筈がない。彼女の決意を、その強い渇愛を、私ごときが抑えられる訳がなかったのだ。
 私の中にあるのは幸せになりたいという曖昧な欲望と、死にたくないという普通の恐怖だけ。彼女のような強い想いは……何一つ無い。
 そう、暗い気持ちになって項垂れる。すると。

「……あのね。私、貴女の事も好きなの」

 ──えっ?
 アミレスの突拍子もない発言に、私は思わず間抜けな声をあげた。

「こんな出来損ないの私の事を好きになってくれた……憐れんでくれた貴女が、私は好きなの。こんな私に幸せになって欲しいって言ってくれたのは、貴女が初めてだったから」

 十五歳の彼女が私の事を優しく抱き締めた。先程とは逆の構図で、アミレスは私に向けて語りかける。

「だって、いつも私の事を考えてくれたから。私が気づけなかった事に気づかせてくれたから。怖くて聞けなかった兄様が私の事をどう思っていたかとか、ハイラが本当はとっても私の事を愛してくれていた事とか、ケイリオルさんが実は優しい人だった事とか。私じゃあ絶対に知れなかった外の世界の事を………友達って宝物を、沢山教えてくれたから」

 胸が温かくなってゆく。これは私の感情なの? それともアミレスの感情なの? 
 ああ、でも…どちらのものでも構わない。何だかこれは、とても心地いいから。

「だからね、貴女の望みを捨てたりしないで欲しいの。私はお父様と兄様の事を諦められないから、貴女も死にたくないって望みは諦めないで」

 目頭が熱くなってきた。彼女に優しく抱きしめられて、頭を撫でられて、語りかけられるこの時間が…酷く乾いていた私の心を満たしてゆく。

「貴女が私と一緒に幸せになろうって言ってくれた時、本当に凄く嬉しかったの。だからね、私は貴女と一緒に幸せになりたい。貴女が幸せになってくれたら、きっと私も幸せになれるから……だから私の望みは気にしないで? 貴女の望みが叶うよう、今まで通りに好きなように生きてね」

 ああでもね、お父様と兄様が死んじゃうのは流石に耐えられないかも。とアミレスは申し訳なさそうに笑う。
 アミレスの望みは叶わない。それはゲームで決められた事だから。彼女の望みは叶わず、幸せになる事も叶わない。
 だからアミレスは私に幸せになる事を託した。私に、アミレスの幸せな結末ハッピーエンドが懸かってるんだ。ああもう、こうなったら──…絶対に、死ぬ訳にいかなくなったじゃない。
 ──死なない為なら本当になりふり構わず暴れるけど、いいの?
 グス…と鼻をすすりながらそう聞くと、

「貴女の好きなようにしてね。でもハイラにはあんまり迷惑をかけちゃ駄目よ?」

 アミレスはふにゃりと笑った。……もう既にハイラに散々迷惑を掛けまくってる事、ちゃんと知ってるんだろうなぁ。この感じ。多分、私越しに彼女も私の見た世界を見てる感じなんだろうし。
 アハハ…と乾いた笑いをこぼして、私はその言葉を受け流す。
 ──えっと、ありがとう。貴女の分までちゃんと幸せになってみせるからね。
 相変わらず夢の中では私の声は発音されない。しかしアミレスが喋れている事を考えると……後から割り込んだ偽物の私には発言権が無いという事なのだろうか。この体はそもそもアミレスのものなのだから。
 それならば、悪魔と話す時も私が話せない事にも納得がいく。

「よろしくお願いします、優しい貴女。ああでも、出来れば……ハイラも、イリオーデも、ケイリオルさんも、皆も幸せにしてあげてね」

 ──頑張ってみる。やっぱり、何事もハッピーエンドが一番だし…皆が少しでも幸せになれるよう、やれる限りの事はやってみるね。

「ありがとう、もう一人の私。どうか幸せになって。私はこれからもここにいるから、何かあった時は来てね」

 ──こちらこそありがとう、アミレス。私を受け入れてくれて。一緒に幸せになろうね。
 二人で笑い合う。すると、段々視界が霞んでゆく。ああ、きっと…私は目覚めるのだろう。
 無理やり意識を絶ってからどれくらいの時間が過ぎているのか。
 とにかく目が覚めたら、そうだな、きっと迷惑をかけただろうからナトラとシュヴァルツに謝ろう。ハイラにも今までの事を謝って、それから──……。


♢♢


 自分と同じ姿をしたもう一人の自分。異なる世界の知識や記憶を持ち、幸福な未来の為に奮闘するその少女が深く暗い精神世界ゆめのせかいから浮上するのを見送り、悲運の王女は独り呟いた。

「──ありがとう。私の…この世界の運命を、変えてくれて」

 夜空のように美しい寒色の瞳から一筋の光の雫を落として、彼女は微笑む。

「私の所為で、沢山貴女を苦しめてしまったから。ようやく貴女と話せたこの機会が、少しでも貴女の為になるといいのだけど」

 それはかの少女に向けられた餞の言葉。
 彼女自身抑える事の出来ない想いの力で、これまで少女を苦悩させてしまったから。それがこれからは少しでも減るようにと、彼女は『好きなように』と伝えたのだ。
 六年目にして初めて訪れた、少女と話せるこの千載一遇の機会に。

「どうか、貴女が……貴女だけは幸せになれますように」

 悲運の王女は、自分の代わりに艱難辛苦に立ち向かう少女の為に、手を合わせて祈った。
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