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第二章・監国の王女
144.俺の全てを捧げさせて。
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「──はぁ……俺に、あの御方の為に何か出来る事があるのか? だって俺だよ。頭を使う事が苦手で、本当に人を傷つける事にばかり秀でた俺が? 心優しいあの御方の為に何を出来るって言うんだ………?」
待機室で長椅子に座り、頭を抱え込む。俺に生きる事を赦してくれたあの御方の為に何か恩返しをしたいと思う反面、果たして俺なんかに一体何が出来るのかとも思ってしまう。
俺なんかがいた所で寧ろ完全に邪魔になってしまうぐらい、あの御方の周りには優秀な人達…人じゃない人もいたが、とても信じられないような人材が揃い踏みだった。
あれ、俺……どう考えても要らないよね? あっ…駄目だ、自分で言っていて辛くなって来た。役に立ちたいと思う相手の役に立つ方法が全く思い浮かばないなんて。
………あの御方はこの国の王女殿下だ。確か、そう…皇帝陛下と皇太子殿下に疎まれていると噂の。その事もあって王女殿下は皇太子殿下の派閥の人間に狙われている、って前に男爵が言っていた気もする。もし、それが本当なら。
「俺が、あの御方に仇なす者を全て始末すれば……」
きっとあの御方の役に立てるだろう。俺の心がどうなろうと最早知った事ではない。重要なのはエルに会う事とあの御方の役に立つ事だ。あ、でも。
「…………あの御方と、約束しちゃったからな。『もうこれ以上誰も殺さない』って…」
ぶつぶつと呟きながら俺は思い悩む。そう、あの御方と約束したんだ。もうこれ以上は誰も殺さないと。つまりだ、俺は誰も殺せない。あの御方との約束を反故にする訳にはいかないから……困ったな。これではあの御方の政敵を始末出来ないじゃないか。
ぐぬぬぬ、と悩んでいる時。突然部屋の扉が開かれて誰かが勢いよく入室、そして鍵をかけていた。その人を見て俺は驚愕する。何故、あの御方がここに? というか凄い騒ぎだな。
ずっと考え事に耽っていた俺は気づかなかったが、どうやら少し前から部屋の前でかなりの騒ぎが起きていたらしい。そしてその中心にはあの御方がいたようだ。と、状況把握に務めていた所で、あの御方が突然俺の隣に腰を下ろした。
何色かはわからないものの、ふわりと膨らむフリルのついた明るめのドレスや透き通るような白…透明? に近いふわふわの長髪。それらからほのかに香る甘く爽やかな香りがとても似合──じゃなくて! どうして、向かいにも長椅子があるのにどうして彼女は俺の隣に座ったんだ?! と俺は分かりやすく戸惑っていた。
「アルベルト」
「はっ、はい」
しかしその途中で彼女が俺の名を呼んだので、俺は慌てて返事をした。そんな俺の顔を見ながら、彼女は重々しく口を開いた。
「ごめんなさい。私がもっと早くこの事件に関心を抱いていれば、貴方は無駄な殺しをしなくて済んだのに。色々と……遅れてしまって本当にごめんなさい」
驚き、言葉を失う。
「七人も殺させてしまってごめんなさい、これまで一年間貴方を救えなくてごめんなさい、黒幕を今まで捕まえられなくてごめんなさい、貴方の心の叫びに気づけなくてごめんなさい、もっと早く止められなくてごめんなさい」
まるで我が事のように傷ついた面持ちを作る彼女に、俺は気の利いた言葉一つ送れなかった。ただ、ただ……俺の為に彼女が傷ついてくれた事が嬉しくて、申し訳なかった。
「…──それと、お疲れ様。よく頑張ったね。もう大丈夫だから……貴方を苦しめる物も、人も、もうどこにも無い。貴方は何だって出来るの。貴方は何だってしていいの。貴方はもう自由よ。きっと、望みだってすぐに叶うわ」
汚れきった俺の手を優しく握って、彼女は柔らかく微笑んだ。全てを慈しみ全てを愛するかのような美しく愛らしい笑みで、俺の全てが浄化されるかのようだった。
彼女は俺の苦しみを初めて理解してくれた。理解した上で、全て受け入れ包み込んでくれた。最初から俺自身と向き合って、俺なんかの言葉を信じてその名にかけて約束してくれた。
あんなにも殺意の籠った瞳で剣を向けてきた少女が、今やこんなにも慈愛に満ちた微笑みを向けてくる。俺なんかには過分すぎる優しさを与えてくる。
何も出来ない約立たずで出来損ないの俺に、彼女は何でも出来ると言ってくれた。殺しなんてもうしなくていい、お前はもう他の事をやればいい……そう、言って貰えたような気がした。
初めて出会えた、俺の理解者。どこか腫れ物のように扱われる事ばかりで、心の奥底から俺の事を気にかけて信じてくれる人なんてこれまでいなかった。
それに……彼女は俺の能力や容姿を求めていない。俺に何も求めていないんだ。見返りを一切求めず、寧ろ自分にとって危険な橋を渡る事をした。そんな有り得ない優しさをくれた彼女に、俺はどうやって報いればいいんだ。
何も見返りを求められず、同情とかでも無くただ無償の優しさを与えられた事が初めてだったから…俺はどうすればいいか分からなくなった。何も分からなくて、頭も心もぐちゃぐちゃになった。
「…………俺、もう…苦しまなくて、いい……んだ…っ! あり、がとう……っ、ございま、す…! 本当、に……俺、貴女…に、どう……報いれ、ば………っ!!」
目頭が熱くなる。もう何度目かも分からないが、俺は彼女の前でボロボロと涙を流していた。あの夜と同じように、彼女はハンカチを使って俺の涙を拭ってくれた。そして、
「そんな事気にしなくていいのよ」
困ったように微笑んだ。ああ、どうしてそんなに見返りを求めないんだ。どうして一方的に優しさを与えようとするんだ。
ぐちゃぐちゃになった頭で考える。俺には何が出来るのか。ぐちゃぐちゃになった心で思う。俺は今この時間をとても心地よいと思っている。
今まで出会った誰よりも誠実で優しい女神のような御方。エルを捜し続ける俺に、『きっと見つかる』『そのうち見つかる』と諦めきった言葉や嘘ばかりを口にしていた人達と違って……初めてきっぱりと『会わせてみせる』と言い放った変わった御方。
貴女は知らないだろう。その口約束が…その誓いが、どれだけ俺の心を救ってくれたのかを。もう壊れる寸前であった俺の心をそっと癒し、そして救いの手を差し伸べてくれた貴女に、俺はとても感謝している。エル以外の心の支えは初めて出来たんだ。それぐらい、俺にとって貴女の存在はとても大きい。
言うなれば精神的支柱、貴女の存在無くして俺の心は存続出来なかった。
貴女に出会わなければ……俺は確実に、壊れ果て意思も持たぬ男爵の傀儡となっていた事だろう。エルと会う事も叶わず死んでいるかもしれない。
だから俺は、俺という人間を救ってくれた女神のごとき貴女に報いたい。優しさも愛情も慈悲も全て与えるだけで、自分は何も受け取ろうとしない貴女に、俺は一体何を返せるんだ?
この先エルを見つけられて、本当に再会する事が叶った日には…俺は貴女にどれだけの恩を抱えなければならないんだ。返せもしない恩ばかりが積み重なって、俺はまた壊れてしまうんじゃないか?
どうすれば……俺は一体どうすればいいんだ。そう長々と考えているうちに俺の涙はようやく止まって、俺も少しは落ち着いた。そしてそこで、彼女の上質なハンカチをめちゃくちゃに汚してしまった事に気づいた。
俺みたいな愚かで弱い人間が醜く号泣している間、ただ静かに優しく寄り添ってくれただけでなく…俺のような人間が触れる事すら烏滸がましい、小さくて剣のマメのある手で撫でるように優しく背中を摩ってくれたりもして……聖女というのはきっと、彼女のような人の事を指すのだろう。
というか。一国の王女が使うような上質なハンカチを俺が汚した? そんな馬鹿な、何をやってるんだ俺は?!
「またどこかで会いましょう、アルベルト」
困惑する俺を置いて、彼女はふわりとドレスと髪を舞わせて立ち上がった。そして、昔エルと一緒に読んだ物語のお姫様はきっとこんな風に笑っていたのだろう、とふと思い出すぐらい眩しい笑顔で彼女は別れを告げた。
──行かないで。そんな身勝手な言葉がポツン、と心の中に生まれる。こちらに背を向け歩き出す彼女に向け、俺は少しだけ手を伸ばしてしまった。勿論それは彼女に届く筈もないし、届いてはいけないものだ。
彼女はこの国唯一の王女殿下で、俺はたまたま死刑を免れた大罪人なのだから。
……どんどん遠ざかる真っ白な彼女の長髪を目に焼き付けようと見つめ続ける。行かないで欲しい、俺を一人にしないで欲しい。そう思うけど…でも、うん。俺はきっと一人でも大丈夫。だって今俺の心の中にはあの御方が分け与えてくれた優しさがまだ残ってるから。だから俺は独りじゃない。
ああ、何も色の見えない自分の眼をここまで恨めしいと思った事はこの九年で初めてだ。街で聞いた王女殿下のお姿──…月明かりのように綺麗な銀色の髪に夜空のような寒色の瞳…それはきっと、この世で一番美しいものなのだろう。
月は白く、夜空は黒く。もうその本当の色が何色だったかも記憶に残らない俺には分からないから……だからこそ、この眼で見たかった。もう二度と、彼女に会えない可能性だってあるんだ。だからせめて、真正面から彼女と向き合えたうちに…この眼に、焼き付けておきたかった。
俺を救ってくれた女神のような少女の美しい姿を。……まぁ、残念な事に俺の眼では無理だった訳だけど。
その後、役人に連れられて俺は諜報部と言う場所に向かった。どうやら俺の終身奉仕の場所はその諜報部なる部署らしい。
………しかし、部署というと何か凄い難しい試験を受けなければ所属出来ない場所、と前にどこかで聞いたような。罪人が下働きをする分には問題無いのだろうか。
隠し通路を通り、着いた場所はごくごく普通の通路。そこでは只者ではない老人が待っていた。
「儂はヌル、諜報部の部署長をしておる者だ。これからは少年の上司となる。ああ、だが顔と名前は覚えなくて良い。この顔もいつまで使うか分からんのでな」
顎に蓄えられた髭を撫でつつ、老人は軽快に自己紹介をした。想像よりも気さくに話しかけてくる相手に困惑しつつ、返事をする。そして、ようやく諜報部と言う部屋に足を踏み入れた。そこもやはりごく普通の部屋。ただ、不自然と人のいない空間だった。
何でも、諜報部に所属している人達は今そのほとんどが任務で出払っているとか。その為、これから俺も世話になる人達については顔を合わせ次第紹介して貰えるらしい。
「だが誰も先輩を知らないというのは些かどうかと思ってな。少年と同じように闇の魔力を持つ者がうちにも丁度いたので、それを少年の教育係とする事にしたのだ。おい、出番だぞ」
「──はい」
老人…ヌルさんが奥の扉に向けて声を投げかけると、そこから若い男の声が聞こえて来た。俺以外の闇の魔力所持者……凄いな。そんな偶然、が──……。
あるなんて、と思った時。俺の眼は見開かれた。心臓が高鳴るのが分かる。言葉が出るよりも早く、俺の足は動いていた。
そんな、そんな! 嘘だ、まさかこんな所で! その髪も、瞳も、顔も、何もかもがずっと捜し求めていたたった一人の弟のものだ。ああ、そんな──……ずっと、ずっと会いたかったんだ。
「僕は諜報部所属、偽名サ──っ!?」
「エルッ!!」
エルには記憶が無いと分かっているのに。俺は何も考えずに抱き着いていた。九年経っても俺より少し小さいエルの体をぎゅっと抱き締めて、俺はまた涙を流して嗚咽を漏らした。
「エル、エル……っ! まさ、か…こんな所で、会える……なんっ、て…!!」
奇跡だ。まさかこんなにも早く、エルに会えるなんて。
言葉が出てこない。ただ俺の脳裏にはあの御方の言葉がよぎっていた──『きっと、望みだってすぐに叶うわ』……そう、あの御方は言っていた。だけどまさか、本当に…こんなにもすぐ叶うなんて思わないじゃないか。こんなにも、貴女の言う通りになると思わなかったんだ。
心の準備が全く出来ていなかった。拒まれるとか、嫌われるとか、後の事は何も考えずにエルを抱きしめていた。
「にい、ちゃん」
耳元に聞こえる、懐かしい響き。記憶の無い筈のエルの口からそんな言葉が聞こえてしまえば……そんなの、期待してしまうだろ。
「エル? エル、そうだよ。兄ちゃんだよ。ごめん、ごめん……! 今までずっと、捜し出せなくて…っ、こんな弱くて愚かな兄ちゃんで、ごめんなぁ……!!」
「…………ああ、そうか。貴方は、僕の兄ちゃん…なのか」
意味が無いのに、それでもなお謝る俺に向けてエルは困惑していた。やっぱり記憶が無い…でも、こうしてエルと会えただけで、俺は……っ、俺は………幸せだよ。エル。ずっと…ずっと、会いたかったんだ。
こんな兄ちゃんでごめん、弱くて馬鹿な兄ちゃんでごめん、あの日お前の事を守れなくてごめん、怪我させちゃったよな、一人ぼっちにしちゃったよな、本当に…本当にごめんな、エル。
優しいエルは、記憶を喪っているにも関わらず俺の事を抱き締めてくれた。優しくて思いやりのある自慢の、大好きなたった一人の弟。
九年間、お前を思わなかった日は無かったよ。ただずっと、エルに会いたい一心で兄ちゃんはここまで頑張れたんだ。兄ちゃんの事なんか何も覚えてないだろうけど……エルさえ良ければ、兄ちゃんの事や母さんや父さんの話をさせてくれないか?
ああでも、兄ちゃんは先にエルの話が聞きたいよ。記憶が無くなって大変だっただろう、苦労もしただろう。これまでの九年間をどう過ごしていたのか、良かったら兄ちゃんにも聞かせて欲しい。
辛い事は無かったか? 痛い事は無かったか? 苦しい事は無かったか? 悲しい事は無かったか? 嬉しい事はあった? 楽しい事はあった? これまでの九年は、エルにとってどんなものだった?
これまでの九年を一緒に取り戻して行こう、エル。あの御方のお陰で、俺にはまだ時間がある。エルがここの人間なら、俺はこれからもエルと一緒にいられるから。
「エル…っ、これからは、ずっと…ずっと一緒にいような……!」
ああそうだ、いつかこれも話したいな。弱くて馬鹿で愚かな俺を救ってくれた女神様みたいな御方の話。信じられない奇跡を起こして俺とエルを再会させてくれた………俺の全てを捧げたい、たった一人の女性の事。
本当に凄い御方なんだ。目が覚めるような可愛らしさの人で、きっとエルもすぐに彼女の素晴らしさが分かるよ。こんな言葉一つでは言い表せないぐらい凄い御方なんだよ。この事をちゃんと話すとなると時間がかかるな…でも大丈夫か。
だってこれからは──……ずっと一緒にいられるんだから。
待機室で長椅子に座り、頭を抱え込む。俺に生きる事を赦してくれたあの御方の為に何か恩返しをしたいと思う反面、果たして俺なんかに一体何が出来るのかとも思ってしまう。
俺なんかがいた所で寧ろ完全に邪魔になってしまうぐらい、あの御方の周りには優秀な人達…人じゃない人もいたが、とても信じられないような人材が揃い踏みだった。
あれ、俺……どう考えても要らないよね? あっ…駄目だ、自分で言っていて辛くなって来た。役に立ちたいと思う相手の役に立つ方法が全く思い浮かばないなんて。
………あの御方はこの国の王女殿下だ。確か、そう…皇帝陛下と皇太子殿下に疎まれていると噂の。その事もあって王女殿下は皇太子殿下の派閥の人間に狙われている、って前に男爵が言っていた気もする。もし、それが本当なら。
「俺が、あの御方に仇なす者を全て始末すれば……」
きっとあの御方の役に立てるだろう。俺の心がどうなろうと最早知った事ではない。重要なのはエルに会う事とあの御方の役に立つ事だ。あ、でも。
「…………あの御方と、約束しちゃったからな。『もうこれ以上誰も殺さない』って…」
ぶつぶつと呟きながら俺は思い悩む。そう、あの御方と約束したんだ。もうこれ以上は誰も殺さないと。つまりだ、俺は誰も殺せない。あの御方との約束を反故にする訳にはいかないから……困ったな。これではあの御方の政敵を始末出来ないじゃないか。
ぐぬぬぬ、と悩んでいる時。突然部屋の扉が開かれて誰かが勢いよく入室、そして鍵をかけていた。その人を見て俺は驚愕する。何故、あの御方がここに? というか凄い騒ぎだな。
ずっと考え事に耽っていた俺は気づかなかったが、どうやら少し前から部屋の前でかなりの騒ぎが起きていたらしい。そしてその中心にはあの御方がいたようだ。と、状況把握に務めていた所で、あの御方が突然俺の隣に腰を下ろした。
何色かはわからないものの、ふわりと膨らむフリルのついた明るめのドレスや透き通るような白…透明? に近いふわふわの長髪。それらからほのかに香る甘く爽やかな香りがとても似合──じゃなくて! どうして、向かいにも長椅子があるのにどうして彼女は俺の隣に座ったんだ?! と俺は分かりやすく戸惑っていた。
「アルベルト」
「はっ、はい」
しかしその途中で彼女が俺の名を呼んだので、俺は慌てて返事をした。そんな俺の顔を見ながら、彼女は重々しく口を開いた。
「ごめんなさい。私がもっと早くこの事件に関心を抱いていれば、貴方は無駄な殺しをしなくて済んだのに。色々と……遅れてしまって本当にごめんなさい」
驚き、言葉を失う。
「七人も殺させてしまってごめんなさい、これまで一年間貴方を救えなくてごめんなさい、黒幕を今まで捕まえられなくてごめんなさい、貴方の心の叫びに気づけなくてごめんなさい、もっと早く止められなくてごめんなさい」
まるで我が事のように傷ついた面持ちを作る彼女に、俺は気の利いた言葉一つ送れなかった。ただ、ただ……俺の為に彼女が傷ついてくれた事が嬉しくて、申し訳なかった。
「…──それと、お疲れ様。よく頑張ったね。もう大丈夫だから……貴方を苦しめる物も、人も、もうどこにも無い。貴方は何だって出来るの。貴方は何だってしていいの。貴方はもう自由よ。きっと、望みだってすぐに叶うわ」
汚れきった俺の手を優しく握って、彼女は柔らかく微笑んだ。全てを慈しみ全てを愛するかのような美しく愛らしい笑みで、俺の全てが浄化されるかのようだった。
彼女は俺の苦しみを初めて理解してくれた。理解した上で、全て受け入れ包み込んでくれた。最初から俺自身と向き合って、俺なんかの言葉を信じてその名にかけて約束してくれた。
あんなにも殺意の籠った瞳で剣を向けてきた少女が、今やこんなにも慈愛に満ちた微笑みを向けてくる。俺なんかには過分すぎる優しさを与えてくる。
何も出来ない約立たずで出来損ないの俺に、彼女は何でも出来ると言ってくれた。殺しなんてもうしなくていい、お前はもう他の事をやればいい……そう、言って貰えたような気がした。
初めて出会えた、俺の理解者。どこか腫れ物のように扱われる事ばかりで、心の奥底から俺の事を気にかけて信じてくれる人なんてこれまでいなかった。
それに……彼女は俺の能力や容姿を求めていない。俺に何も求めていないんだ。見返りを一切求めず、寧ろ自分にとって危険な橋を渡る事をした。そんな有り得ない優しさをくれた彼女に、俺はどうやって報いればいいんだ。
何も見返りを求められず、同情とかでも無くただ無償の優しさを与えられた事が初めてだったから…俺はどうすればいいか分からなくなった。何も分からなくて、頭も心もぐちゃぐちゃになった。
「…………俺、もう…苦しまなくて、いい……んだ…っ! あり、がとう……っ、ございま、す…! 本当、に……俺、貴女…に、どう……報いれ、ば………っ!!」
目頭が熱くなる。もう何度目かも分からないが、俺は彼女の前でボロボロと涙を流していた。あの夜と同じように、彼女はハンカチを使って俺の涙を拭ってくれた。そして、
「そんな事気にしなくていいのよ」
困ったように微笑んだ。ああ、どうしてそんなに見返りを求めないんだ。どうして一方的に優しさを与えようとするんだ。
ぐちゃぐちゃになった頭で考える。俺には何が出来るのか。ぐちゃぐちゃになった心で思う。俺は今この時間をとても心地よいと思っている。
今まで出会った誰よりも誠実で優しい女神のような御方。エルを捜し続ける俺に、『きっと見つかる』『そのうち見つかる』と諦めきった言葉や嘘ばかりを口にしていた人達と違って……初めてきっぱりと『会わせてみせる』と言い放った変わった御方。
貴女は知らないだろう。その口約束が…その誓いが、どれだけ俺の心を救ってくれたのかを。もう壊れる寸前であった俺の心をそっと癒し、そして救いの手を差し伸べてくれた貴女に、俺はとても感謝している。エル以外の心の支えは初めて出来たんだ。それぐらい、俺にとって貴女の存在はとても大きい。
言うなれば精神的支柱、貴女の存在無くして俺の心は存続出来なかった。
貴女に出会わなければ……俺は確実に、壊れ果て意思も持たぬ男爵の傀儡となっていた事だろう。エルと会う事も叶わず死んでいるかもしれない。
だから俺は、俺という人間を救ってくれた女神のごとき貴女に報いたい。優しさも愛情も慈悲も全て与えるだけで、自分は何も受け取ろうとしない貴女に、俺は一体何を返せるんだ?
この先エルを見つけられて、本当に再会する事が叶った日には…俺は貴女にどれだけの恩を抱えなければならないんだ。返せもしない恩ばかりが積み重なって、俺はまた壊れてしまうんじゃないか?
どうすれば……俺は一体どうすればいいんだ。そう長々と考えているうちに俺の涙はようやく止まって、俺も少しは落ち着いた。そしてそこで、彼女の上質なハンカチをめちゃくちゃに汚してしまった事に気づいた。
俺みたいな愚かで弱い人間が醜く号泣している間、ただ静かに優しく寄り添ってくれただけでなく…俺のような人間が触れる事すら烏滸がましい、小さくて剣のマメのある手で撫でるように優しく背中を摩ってくれたりもして……聖女というのはきっと、彼女のような人の事を指すのだろう。
というか。一国の王女が使うような上質なハンカチを俺が汚した? そんな馬鹿な、何をやってるんだ俺は?!
「またどこかで会いましょう、アルベルト」
困惑する俺を置いて、彼女はふわりとドレスと髪を舞わせて立ち上がった。そして、昔エルと一緒に読んだ物語のお姫様はきっとこんな風に笑っていたのだろう、とふと思い出すぐらい眩しい笑顔で彼女は別れを告げた。
──行かないで。そんな身勝手な言葉がポツン、と心の中に生まれる。こちらに背を向け歩き出す彼女に向け、俺は少しだけ手を伸ばしてしまった。勿論それは彼女に届く筈もないし、届いてはいけないものだ。
彼女はこの国唯一の王女殿下で、俺はたまたま死刑を免れた大罪人なのだから。
……どんどん遠ざかる真っ白な彼女の長髪を目に焼き付けようと見つめ続ける。行かないで欲しい、俺を一人にしないで欲しい。そう思うけど…でも、うん。俺はきっと一人でも大丈夫。だって今俺の心の中にはあの御方が分け与えてくれた優しさがまだ残ってるから。だから俺は独りじゃない。
ああ、何も色の見えない自分の眼をここまで恨めしいと思った事はこの九年で初めてだ。街で聞いた王女殿下のお姿──…月明かりのように綺麗な銀色の髪に夜空のような寒色の瞳…それはきっと、この世で一番美しいものなのだろう。
月は白く、夜空は黒く。もうその本当の色が何色だったかも記憶に残らない俺には分からないから……だからこそ、この眼で見たかった。もう二度と、彼女に会えない可能性だってあるんだ。だからせめて、真正面から彼女と向き合えたうちに…この眼に、焼き付けておきたかった。
俺を救ってくれた女神のような少女の美しい姿を。……まぁ、残念な事に俺の眼では無理だった訳だけど。
その後、役人に連れられて俺は諜報部と言う場所に向かった。どうやら俺の終身奉仕の場所はその諜報部なる部署らしい。
………しかし、部署というと何か凄い難しい試験を受けなければ所属出来ない場所、と前にどこかで聞いたような。罪人が下働きをする分には問題無いのだろうか。
隠し通路を通り、着いた場所はごくごく普通の通路。そこでは只者ではない老人が待っていた。
「儂はヌル、諜報部の部署長をしておる者だ。これからは少年の上司となる。ああ、だが顔と名前は覚えなくて良い。この顔もいつまで使うか分からんのでな」
顎に蓄えられた髭を撫でつつ、老人は軽快に自己紹介をした。想像よりも気さくに話しかけてくる相手に困惑しつつ、返事をする。そして、ようやく諜報部と言う部屋に足を踏み入れた。そこもやはりごく普通の部屋。ただ、不自然と人のいない空間だった。
何でも、諜報部に所属している人達は今そのほとんどが任務で出払っているとか。その為、これから俺も世話になる人達については顔を合わせ次第紹介して貰えるらしい。
「だが誰も先輩を知らないというのは些かどうかと思ってな。少年と同じように闇の魔力を持つ者がうちにも丁度いたので、それを少年の教育係とする事にしたのだ。おい、出番だぞ」
「──はい」
老人…ヌルさんが奥の扉に向けて声を投げかけると、そこから若い男の声が聞こえて来た。俺以外の闇の魔力所持者……凄いな。そんな偶然、が──……。
あるなんて、と思った時。俺の眼は見開かれた。心臓が高鳴るのが分かる。言葉が出るよりも早く、俺の足は動いていた。
そんな、そんな! 嘘だ、まさかこんな所で! その髪も、瞳も、顔も、何もかもがずっと捜し求めていたたった一人の弟のものだ。ああ、そんな──……ずっと、ずっと会いたかったんだ。
「僕は諜報部所属、偽名サ──っ!?」
「エルッ!!」
エルには記憶が無いと分かっているのに。俺は何も考えずに抱き着いていた。九年経っても俺より少し小さいエルの体をぎゅっと抱き締めて、俺はまた涙を流して嗚咽を漏らした。
「エル、エル……っ! まさ、か…こんな所で、会える……なんっ、て…!!」
奇跡だ。まさかこんなにも早く、エルに会えるなんて。
言葉が出てこない。ただ俺の脳裏にはあの御方の言葉がよぎっていた──『きっと、望みだってすぐに叶うわ』……そう、あの御方は言っていた。だけどまさか、本当に…こんなにもすぐ叶うなんて思わないじゃないか。こんなにも、貴女の言う通りになると思わなかったんだ。
心の準備が全く出来ていなかった。拒まれるとか、嫌われるとか、後の事は何も考えずにエルを抱きしめていた。
「にい、ちゃん」
耳元に聞こえる、懐かしい響き。記憶の無い筈のエルの口からそんな言葉が聞こえてしまえば……そんなの、期待してしまうだろ。
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「…………ああ、そうか。貴方は、僕の兄ちゃん…なのか」
意味が無いのに、それでもなお謝る俺に向けてエルは困惑していた。やっぱり記憶が無い…でも、こうしてエルと会えただけで、俺は……っ、俺は………幸せだよ。エル。ずっと…ずっと、会いたかったんだ。
こんな兄ちゃんでごめん、弱くて馬鹿な兄ちゃんでごめん、あの日お前の事を守れなくてごめん、怪我させちゃったよな、一人ぼっちにしちゃったよな、本当に…本当にごめんな、エル。
優しいエルは、記憶を喪っているにも関わらず俺の事を抱き締めてくれた。優しくて思いやりのある自慢の、大好きなたった一人の弟。
九年間、お前を思わなかった日は無かったよ。ただずっと、エルに会いたい一心で兄ちゃんはここまで頑張れたんだ。兄ちゃんの事なんか何も覚えてないだろうけど……エルさえ良ければ、兄ちゃんの事や母さんや父さんの話をさせてくれないか?
ああでも、兄ちゃんは先にエルの話が聞きたいよ。記憶が無くなって大変だっただろう、苦労もしただろう。これまでの九年間をどう過ごしていたのか、良かったら兄ちゃんにも聞かせて欲しい。
辛い事は無かったか? 痛い事は無かったか? 苦しい事は無かったか? 悲しい事は無かったか? 嬉しい事はあった? 楽しい事はあった? これまでの九年は、エルにとってどんなものだった?
これまでの九年を一緒に取り戻して行こう、エル。あの御方のお陰で、俺にはまだ時間がある。エルがここの人間なら、俺はこれからもエルと一緒にいられるから。
「エル…っ、これからは、ずっと…ずっと一緒にいような……!」
ああそうだ、いつかこれも話したいな。弱くて馬鹿で愚かな俺を救ってくれた女神様みたいな御方の話。信じられない奇跡を起こして俺とエルを再会させてくれた………俺の全てを捧げたい、たった一人の女性の事。
本当に凄い御方なんだ。目が覚めるような可愛らしさの人で、きっとエルもすぐに彼女の素晴らしさが分かるよ。こんな言葉一つでは言い表せないぐらい凄い御方なんだよ。この事をちゃんと話すとなると時間がかかるな…でも大丈夫か。
だってこれからは──……ずっと一緒にいられるんだから。
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