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第二章・監国の王女
134.敵に回してはならない人
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明朝、ハイラは一束の報告書を手にここの所行き慣れている部屋へと向かった。
そこはフォーロイト帝国現皇帝唯一の側近であり、この国で最も忙しいと称される程に様々な役職を担う圧倒的社畜の執務室。
城勤めの者達が一部を除き比較的ホワイトな環境で働けているのはひとえに彼の尽力あっての事と言っても過言では無い程、一人で膨大な仕事を抱え込み全て捌き切る圧倒的超人の本拠地。
彼の仕事振りを見たものは口を揃えてこう語る──。
『いや、あんなの最早人間業じゃないって』
『あの人確実に人間辞めてる。絶対生まれた時から人智を超越してる』
『同じ人間と思った事は一度も無い。というかそんな風に考える事すら烏滸がましい』
『皇帝陛下から信頼されてるだけはある優秀さ』
『神出鬼没過ぎて人じゃない何かだと思ってる』
『めちゃくちゃ偉い人なのに意外と気さくで部下思いで本当に最高の人………一生ついてきます…!』
皇帝の次に権力を持つ相手に対して、割と随分な言いぶりだが…どこで話を聞いてもこういった意見が九割を占めるのである。残りの一割は──彼の冷酷な一面に地獄を見た者達の意見だろう。
そんな誰もが『人間を辞めている』と語る男、ケイリオルの執務室にハイラは今、向かっていた。
理由は簡単──……殺人鬼・アルベルトに隷従の首輪を嵌め、様々な悪事を強要した例の男爵を法的に裁く為である。
本来裁判にはそれなりの準備期間と費用、そして司法機関への申請が必要なのだが…今はそのような事を言っている場合ではない。
今すぐにでも裁判を起こし、男爵を引きずり出して法の裁きを下す必要がある。
というか、少しでも早く大元を潰さなければ、アミレスが余計な無茶をしかねない。そんな本音の元、ハイラは最終手段とも言える存在の元を目指しているのだ。
その道中であった。ハイラがピタリ、と足を止めるとそこには軽食の置かれたトレイを持つケイリオルがいた。
「おや、おはようございます。ハイラさん」
「…おはようございます、ケイリオル卿。そちらは?」
「これですか? 手作りの朝食ですよ、私の。私も人間ですから、食べなければやっていけませんので」
「……それもそうですね」
この時ハイラは当たり障りのない笑みを浮かべ、思った。そう言えばこの人普通の人間だったな、と。
そして二人は並んで歩き出した。ハイラの用事がケイリオルへの報告である事を知ったケイリオルは、「では少し急ぎましょうか」と共に彼の執務室を目指す事にしたのだ。
「時にハイラさん、爵位簒奪計画の方はいかがですか?」
「……順調かと。それなりに社交界へと被害を拡散する一件になると思います」
「ふふ、それは楽しみですねぇ。今まで見逃して来てやった悪事の数々が白日の元に晒される様はきっと痛快な事でしょう」
「やはり。卿は気付いてらしたのですね」
道中の世間話、そこで楽しげに笑い声をあげるケイリオルに、ハイラは納得したような小さな息をはぁ…と吐いた。
(……あれ程に稚拙な横領や着服に彼が気付かぬ筈も無いと思っておりましたが…罪が更に重なるまで泳がせておいたなんて。何とも良い性格をしていらっしゃる方ですね)
ちらりと横目でケイリオルを見上げると、金色のふんわりとした後頭部の毛先が少し脱色しているのか、銀色のようにも見えた。
アミレスの持つ美しい銀髪とも似たそれに目を奪われ、ハイラが暫く眺めていると、
「──私に、何かご興味がおありですか? そんなに見つめて………私、ミステリアスな人間ですので秘密は秘密のままで維持していたいのですが」
背を曲げて、ケイリオルが布を付けたその顔をハイラの目と鼻の先まで近づけた。
今、二人を妨げるものは布一枚のみ。突然の事にハイラが玉のような冷や汗を一粒浮かべて目を点にしていると、ケイリオルが「ふふっ」と上品な笑いをこぼしながら姿勢を正した。
「すみません、この通り詮索されるのはあまり好きでは無くて。美人な方に見つめられる事もあまり得意では無いので」
「…………そうですか、こちらこそ不躾にじろじろと見てしまってすみません。不快でしたでしょう」
「決してそのような事は。ハイラさんのような美人な方に見つめられる等、男冥利に尽きると言うものです」
(発言が二転三転してますね)
ハイラは冷静に心の中でツッコんだ。まるで何も考えていないかのように発言がコロコロと変わるケイリオルに、つい、「ふっ」とハイラは失笑が漏れてしまった。
それにぽかんとしつつも、特に咎めたり気を悪くはしないケイリオル。存外にも穏やかな道中となっていた。
「時にケイリオル卿、以前からお聞きしたい事があったのですが」
「はい、何ですか?」
「卿は何故、常に顔を隠していらっしゃるのでしょうか」
サラリと、ハイラはこれまで誰も聞く事の出来なかった疑問をケイリオルにぶつけた。それにケイリオルは特に迷う素振りを見せる事無く、返事をした。
「顔を隠したかったから、としか。細かい理由については語れませんので、代わりに私の年齢をお教えしますね」
「いえ、結構です」
「私は今年で三十八になりました」
「………以外とお年を召していらしたのですね、お若い声でしたので二十代かと思っておりました」
「ははは、私はこれでも陛下が即位なされる以前より仕えておりますから。それなりに歳はとってますよ」
聞いてもいない事の答えを教えられたハイラであったが、実際にそれを聞くと、予想外の数字につい反応してしまった。
(……三十八と言うと、皇帝陛下と同じ年齢…皇帝陛下とケイリオル卿が昔馴染みと言う噂は信憑性が高いですね)
ここでハイラは、憎きエリドル・ヘル・フォーロイト皇帝と目前の男が気の置けない昔馴染みである、と言う噂を思い出し逡巡する。
(本当に、このまま彼を頼り続けても良いのでしょうか。事ある毎にケイリオル卿を頼って来ましたが、彼は紛うことなき皇帝陛下側の人間…いつか、我々──姫様にとっての障害になる事は確実でしょう)
しかし、とハイラは思い悩む。
(これまでケイリオル卿が姫様に良くして下さった事も事実です。このまま、私の主観で敵と判断してもいいものなのでしょうか…)
視線を報告書へと落とすハイラを、ケイリオルは静かに見つめていた。
(──どうかそのまま、私を疑い続けて下さい。私は王女殿下の味方になる事は出来ませんので………私を信じないで下さい、ハイラさん。私は、どうしても陛下を裏切る事は出来ませんから)
その胸中には、まるでハイラの心を見透かしたかのような彼なりの葛藤があった。
そうして、静かなまま二人は歩いていた。やがてケイリオルの執務室に辿り着くと、流れるような彼のエスコートでハイラは入室した。
「では、報告の方をさせていただいても宜しいでしょうか?」
「報告ですね、分かりました。失礼かとは思いますが、朝食を食べながら聞いても?」
時間があまり無くて、とケイリオルが申し訳なさそうに言うと、ハイラは「お忙しいご身分ですもの、勿論それで構いません」とこくりと頷いて話し始めた。
「こちらには後で目を通していただけたら。ある程度は口頭で説明しますので………」
「ふむ、連続殺人事件の報告書ですか」
(サンドを片手で食べながら報告書を見ている。意外とお行儀が悪い…)
朝食を食べているのだから報告書は後で見てくれとハイラが言った傍から、ケイリオルはサンドを頬張りつつペラペラと報告書を捲っていた。
「では改めて説明します。先日の申請にあった通り、今回の殺人事件では赤髪の人が狙われる傾向にありました」
「シャンパージュ伯爵夫人や王女殿下の私兵のうちの一人も狙われる可能性があると、皇宮で匿う事になった件ですね」
ハイラの話にケイリオルはうんうんと相槌を打つ。その口ではもぐもぐと咀嚼をしているにも関わらず、何故か咀嚼音は全くしない。一体どういう事だ。
「はい。いち早い事件解決の為、昨晩姫様が張り込み捜査をした所──」
(自ら張り込み捜査をしたんですか、王女殿下…?!)
「──犯人の捕縛に成功しました」
「成功したんですか」
「成功しました」
ケイリオルが驚いたように呟くと、ハイラは小さく頷いてもう一度言葉を繰り返した。
これには流石のケイリオルも驚愕を禁じえなかった。此度の連続殺人事件の犯人は警備隊や騎士団だけでなく諜報部の力をもってしても、捕縛する事はおろか正体を突き止める事も出来なかった厄介な存在。
それをたった一度の張り込みで捕縛する事まで成功するなんて、と彼も目を丸くしていた。
「しかしその犯人に重大な問題がありまして」
「重大な問題…ですか」
ゴクリ、とケイリオルが固唾を飲むと、ハイラは神妙な面持ちを作り、
「犯人が隷従の首輪を嵌められていたのです」
ケイリオルにそれを告げた。
「──隷従の首輪が、まだ現存していたと?」
(っ、何ですかこの殺気は…! 全身の毛が逆立つような、強い怒り……まるで、皇帝陛下のような…!!)
部屋の空気が変わる。ケイリオルの唸るような低い声に、ハイラは何処か覚えのある恐怖を肌で感じた。
いつでもどこでもヘラヘラとしている掴み所の無い男、それがケイリオルだ。そんな彼がここまで明確に怒りを露わにするのはかなり珍しい事。
(あの負の遺産が、まだ現存していたなど………あの時確かに全て廃棄したと思ったんだが…忌々しい犯罪者共め、いくつ隠し持っていたんだ…!)
怒り心頭に達したケイリオルは奥歯を噛み締めた。
ケイリオルは奴隷制度とそれに関する魔導具や人身売買を酷く嫌っていた。いや、正確には──エリドル・ヘル・フォーロイトがそれを嫌っていた。
故に、ケイリオルもそれを嫌い完全に廃絶しようと数十年前に動いたのだが……少し前に、数十年前に皇帝主導の一斉断罪から奇跡的に逃れ、これまでコソコソ隠れて人身売買を行っていた犯罪者達を捕え、今度こそ廃絶が叶ったかと思えた。
主犯たるケビソン子爵の屋敷から忌まわしき魔導具が幾つか押収された日には、ケイリオルが怒りのあまり、その場でケビソン子爵の四肢をもいでしまった程。
今度こそ、とケイリオルが責任を持ってケビソン子爵の屋敷にあった全ての魔導具を廃棄したのだが………何と、まだ残っていたのだと言う。
(あの時、子爵は確かに誰にも横流しはしていないと言っていた。それは嘘では無かった……と言う事は、何らかの方法で記憶を消したか! 万が一の場合に備えて…っ、本当に悪知恵だけは働くなあの屑共は)
この国に──この街に、まだあの負の遺産が残っている。
その事実とあの時それを見抜けなかった自身に、ケイリオルは憤慨していた。報告書の端をぐしゃりと握り潰し、拳を震わせる。
「……報告の続きなのですが」
「あぁ、どうぞ」
ハイラが報告を再開しようと口を切ると、ケイリオルはパッと顔を上げ、取ってつけたような声音でそれを促した。
「…犯人の名はアルベルト。歳は現在二十一、性別は男で特定の職には就いていない模様。一年前に地方から帝都に生き別れの弟を捜しにやって来たようです。その際、黒幕に騙され隷従の首輪を嵌められ、一年に及び様々な悪事を強要されていたとの事。闇の魔力を所持しており、どうやら視覚に問題があるようです」
「闇の魔力ですか、成程。それで諜報部でも追跡が叶わなかったのですね」
「それに加え、犯人は身寄りが無かったようで…これまで八年程地方の砦で騎士達と共に暮らしていたらしく、剣術にもかなり秀でていたようです。姫様が仰っていたので間違い無いかと」
「剣術に秀でた闇の魔力所持者…それは確かに厄介ですね。よく、王女殿下も捕縛出来ましたね……そのような存在を」
「姫様は、とても、優秀ですので」
ハイラがあからさまに強調して喋ると、ケイリオルは小さく笑いをこぼした。
(王女殿下一人でと考えるのは少々現実的では無い。十中八九協力者がいると思うのですが──…まぁ、今回は気にしないでおきましょう。王女殿下が犯人を捕縛した方法よりも、隷従の首輪と黒幕の確保が最優先事項なのだから)
確かにアミレスはフォーロイトの血筋の人間らしく、それなりには強いが………それでもまだたった十二歳の少女だ。闇の魔力を持つ剣術に秀でた大人の男を一人で捕縛するのは無理だろうと、ケイリオルは結論づけたのだ。
しかし、今のケイリオルはそれを問題としていない。それよりもずっと、重要な問題があるからだ。
「して、視覚の問題とは?」
「は、どうやら犯人は現在赤色以外の色を認識出来ないようでして。それ以外全ての色が白か黒…及び灰色に見えているとの事です」
「……だから赤髪の人間が狙われていたのですね」
「黒幕がわざわざ帝都にいる赤髪の人間を探しては犯人に指示していたようです」
「はぁ、想像以上にくだらない真相ですね……」
ため息をつきながら、ケイリオルは布越しで額に手を当て項垂れた。何か意味があるに思えた連続殺人に実は大した意味が無いと分かってしまい、肩透かしを食らったようなものだからだ。
「黒幕の名は──マルコ・シルヴァスタ男爵。表向きには慈善事業や教会への寄付を行う善性の貴族ですが、裏では己の特殊嗜好を満たす為に悪逆の限りを尽くしているそうです」
「シルヴァスタ男爵……ああ、あの小物ですか。あれが黒幕と…」
ついに明かされた黒幕の名を聞いて、ケイリオルの口端がニヤリと鋭く弧を描いた。
「その事を私に報告したと言う事はつまり──私の方で強硬手段に出ろ、という訳ですね?」
「はい。正式な手順に則り裁判を起こすとなると時間がかかります。その間に黒幕は雲隠れするでしょう。ですので、卿の権限で強硬手段に出て欲しいのです。黒幕が逃げ出す暇など無い内に」
「──承りました。あくまでも越権行為とならぬよう細心の注意を払い、私の持てる全権限を駆使して黒幕を裁きましょう」
ケイリオルがそう宣言すると、ハイラは役目を終えたとばかりにホッと小さく肩を撫で下ろした。
そのすぐ後に、「では私はまだ仕事が残ってますので」とハイラが退室しようとした所で、
「まだ幾らか報告書を持っているようですが、どちらへ?」
とケイリオルが引き止める。ハイラは少しだけ振り向いて、
「…時間稼ぎのようなものです。シャンパージュ伯爵に、偽の号外を出していただこうかと」
「もしや、連続殺人事件の?」
「えぇ、まさにそれです。存在しない八人目の被害者の情報を号外として出すのです」
その概要を聞いてすぐ、ケイリオルはほぅ…と感嘆した。
(黒幕にこちらが全て気づいていると勘繰られないようにする為の作戦でしょうか。それにしても中々に大胆な作戦だ…まさか、帝都全域に配られるシャンパー商会の新聞が偽物だとはさしもの黒幕も考えないでしょうし。考案者は王女殿下だろうか………)
と感心するケイリオルではあるが、実際にはカイルが適当に提案しただけの骨組みに、シャンパー商会を巻き込むと言う彼女等ならではの特殊な方法で肉付けした作戦がこれである。
「では、今度こそ私はこの辺りで」
「引き止めてしまいすみません。朝は冷えますしお気をつけて」
「……卿も、少しは体調に気を使って下さいね。朝早くから失礼致しました」
ぺこりと一礼し、ハイラは退室した。その後早朝で人もほとんどいない事をいい事に、ハイラは思い切り廊下を走り抜けた。そして上着を着て厩舎より馬を一頭拝借し、それに跨り朝の寒空の下を疾走する。
行先はシャンパージュ伯爵邸。仕事人の伯爵はこのような早朝でも既に目を覚ましており、突然訪ねて来たハイラに驚きつつも彼女を邸に招き入れた。
そして事の経緯を聞き、伯爵は二つ返事で首を縦に振った。ハイラから偽の八人目の被害者についての原稿を預かり、その日の昼過ぎには号外として街に配ると確約した。
伯爵との取引を終えたハイラは急いで皇宮に戻り、そしてアミレスの朝食作り等の通常の仕事に取り掛かった。その傍らには、見慣れぬ男女が一人ずつ。
男はゼル、女はマーナ。ハイラの小間使い──もといお手伝いとして近頃東宮にいたりいなかったりする、ララルス家秘蔵の諜報部隊カラスのメンバーである。
ちなみに私兵団に剣や戦い方を師事しているキールもまた、カラスのメンバーなのだ。信の置ける者しかアミレスに近づけたくないハイラが考え出した苦肉の策、それが手下の諜報部隊の者達に副業をさせる事だったのだ。
「ゼル、それが終わり次第鍋の方を見ておいてください。マーナは食器を今一度洗っておくように」
「イェッサー」
「は、はぁーい…」
テキパキと指示を飛ばしつつ一人で十人分近い働きをするハイラを見て、ゼルとマーナは心底思う。
(お嬢、頼むからそろそろ新しく人雇ってくれないかな…副業のが本業より忙しいとかある?)
(料理が終わったら東宮全体の掃除でそれが終わったら庭の手入れでそれが終わったら──…ってもう無理~! 侍女の仕事が諜報活動より大変なんて聞いてないって~!! お嬢様は何でこんなの好きでやってるんだろ……)
心の中でこっそり恨み言をこぼしつつ、二人は指示通りに働く。
八年程前の皇宮侍女の腐敗っぷりを体感したハイラだからこそ、アミレスの為に超少数精鋭で働く事を選んだのだ。それで幾度となく裏で過労で倒れそうになっても、ハイラはアミレスの安全の為に、有象無象が東宮を闊歩する事が無いよう尽力して来た。
それを影ながら支えて来たカラス達は、主がまた無理をして倒れそうになるのではと心配なのだ。
(さて、今日の朝食も腕によりをかけて仕上げましょう。姫様の朝がより良いものとなり彩られますように)
しかし部下の心、上司知らず。ハイラは過労気味である事は最早度外視でこの仕事を楽しんでいた。
そう、言うなれば──アミレスの侍女とは、彼女にとって天職そのものなのだ。
そこはフォーロイト帝国現皇帝唯一の側近であり、この国で最も忙しいと称される程に様々な役職を担う圧倒的社畜の執務室。
城勤めの者達が一部を除き比較的ホワイトな環境で働けているのはひとえに彼の尽力あっての事と言っても過言では無い程、一人で膨大な仕事を抱え込み全て捌き切る圧倒的超人の本拠地。
彼の仕事振りを見たものは口を揃えてこう語る──。
『いや、あんなの最早人間業じゃないって』
『あの人確実に人間辞めてる。絶対生まれた時から人智を超越してる』
『同じ人間と思った事は一度も無い。というかそんな風に考える事すら烏滸がましい』
『皇帝陛下から信頼されてるだけはある優秀さ』
『神出鬼没過ぎて人じゃない何かだと思ってる』
『めちゃくちゃ偉い人なのに意外と気さくで部下思いで本当に最高の人………一生ついてきます…!』
皇帝の次に権力を持つ相手に対して、割と随分な言いぶりだが…どこで話を聞いてもこういった意見が九割を占めるのである。残りの一割は──彼の冷酷な一面に地獄を見た者達の意見だろう。
そんな誰もが『人間を辞めている』と語る男、ケイリオルの執務室にハイラは今、向かっていた。
理由は簡単──……殺人鬼・アルベルトに隷従の首輪を嵌め、様々な悪事を強要した例の男爵を法的に裁く為である。
本来裁判にはそれなりの準備期間と費用、そして司法機関への申請が必要なのだが…今はそのような事を言っている場合ではない。
今すぐにでも裁判を起こし、男爵を引きずり出して法の裁きを下す必要がある。
というか、少しでも早く大元を潰さなければ、アミレスが余計な無茶をしかねない。そんな本音の元、ハイラは最終手段とも言える存在の元を目指しているのだ。
その道中であった。ハイラがピタリ、と足を止めるとそこには軽食の置かれたトレイを持つケイリオルがいた。
「おや、おはようございます。ハイラさん」
「…おはようございます、ケイリオル卿。そちらは?」
「これですか? 手作りの朝食ですよ、私の。私も人間ですから、食べなければやっていけませんので」
「……それもそうですね」
この時ハイラは当たり障りのない笑みを浮かべ、思った。そう言えばこの人普通の人間だったな、と。
そして二人は並んで歩き出した。ハイラの用事がケイリオルへの報告である事を知ったケイリオルは、「では少し急ぎましょうか」と共に彼の執務室を目指す事にしたのだ。
「時にハイラさん、爵位簒奪計画の方はいかがですか?」
「……順調かと。それなりに社交界へと被害を拡散する一件になると思います」
「ふふ、それは楽しみですねぇ。今まで見逃して来てやった悪事の数々が白日の元に晒される様はきっと痛快な事でしょう」
「やはり。卿は気付いてらしたのですね」
道中の世間話、そこで楽しげに笑い声をあげるケイリオルに、ハイラは納得したような小さな息をはぁ…と吐いた。
(……あれ程に稚拙な横領や着服に彼が気付かぬ筈も無いと思っておりましたが…罪が更に重なるまで泳がせておいたなんて。何とも良い性格をしていらっしゃる方ですね)
ちらりと横目でケイリオルを見上げると、金色のふんわりとした後頭部の毛先が少し脱色しているのか、銀色のようにも見えた。
アミレスの持つ美しい銀髪とも似たそれに目を奪われ、ハイラが暫く眺めていると、
「──私に、何かご興味がおありですか? そんなに見つめて………私、ミステリアスな人間ですので秘密は秘密のままで維持していたいのですが」
背を曲げて、ケイリオルが布を付けたその顔をハイラの目と鼻の先まで近づけた。
今、二人を妨げるものは布一枚のみ。突然の事にハイラが玉のような冷や汗を一粒浮かべて目を点にしていると、ケイリオルが「ふふっ」と上品な笑いをこぼしながら姿勢を正した。
「すみません、この通り詮索されるのはあまり好きでは無くて。美人な方に見つめられる事もあまり得意では無いので」
「…………そうですか、こちらこそ不躾にじろじろと見てしまってすみません。不快でしたでしょう」
「決してそのような事は。ハイラさんのような美人な方に見つめられる等、男冥利に尽きると言うものです」
(発言が二転三転してますね)
ハイラは冷静に心の中でツッコんだ。まるで何も考えていないかのように発言がコロコロと変わるケイリオルに、つい、「ふっ」とハイラは失笑が漏れてしまった。
それにぽかんとしつつも、特に咎めたり気を悪くはしないケイリオル。存外にも穏やかな道中となっていた。
「時にケイリオル卿、以前からお聞きしたい事があったのですが」
「はい、何ですか?」
「卿は何故、常に顔を隠していらっしゃるのでしょうか」
サラリと、ハイラはこれまで誰も聞く事の出来なかった疑問をケイリオルにぶつけた。それにケイリオルは特に迷う素振りを見せる事無く、返事をした。
「顔を隠したかったから、としか。細かい理由については語れませんので、代わりに私の年齢をお教えしますね」
「いえ、結構です」
「私は今年で三十八になりました」
「………以外とお年を召していらしたのですね、お若い声でしたので二十代かと思っておりました」
「ははは、私はこれでも陛下が即位なされる以前より仕えておりますから。それなりに歳はとってますよ」
聞いてもいない事の答えを教えられたハイラであったが、実際にそれを聞くと、予想外の数字につい反応してしまった。
(……三十八と言うと、皇帝陛下と同じ年齢…皇帝陛下とケイリオル卿が昔馴染みと言う噂は信憑性が高いですね)
ここでハイラは、憎きエリドル・ヘル・フォーロイト皇帝と目前の男が気の置けない昔馴染みである、と言う噂を思い出し逡巡する。
(本当に、このまま彼を頼り続けても良いのでしょうか。事ある毎にケイリオル卿を頼って来ましたが、彼は紛うことなき皇帝陛下側の人間…いつか、我々──姫様にとっての障害になる事は確実でしょう)
しかし、とハイラは思い悩む。
(これまでケイリオル卿が姫様に良くして下さった事も事実です。このまま、私の主観で敵と判断してもいいものなのでしょうか…)
視線を報告書へと落とすハイラを、ケイリオルは静かに見つめていた。
(──どうかそのまま、私を疑い続けて下さい。私は王女殿下の味方になる事は出来ませんので………私を信じないで下さい、ハイラさん。私は、どうしても陛下を裏切る事は出来ませんから)
その胸中には、まるでハイラの心を見透かしたかのような彼なりの葛藤があった。
そうして、静かなまま二人は歩いていた。やがてケイリオルの執務室に辿り着くと、流れるような彼のエスコートでハイラは入室した。
「では、報告の方をさせていただいても宜しいでしょうか?」
「報告ですね、分かりました。失礼かとは思いますが、朝食を食べながら聞いても?」
時間があまり無くて、とケイリオルが申し訳なさそうに言うと、ハイラは「お忙しいご身分ですもの、勿論それで構いません」とこくりと頷いて話し始めた。
「こちらには後で目を通していただけたら。ある程度は口頭で説明しますので………」
「ふむ、連続殺人事件の報告書ですか」
(サンドを片手で食べながら報告書を見ている。意外とお行儀が悪い…)
朝食を食べているのだから報告書は後で見てくれとハイラが言った傍から、ケイリオルはサンドを頬張りつつペラペラと報告書を捲っていた。
「では改めて説明します。先日の申請にあった通り、今回の殺人事件では赤髪の人が狙われる傾向にありました」
「シャンパージュ伯爵夫人や王女殿下の私兵のうちの一人も狙われる可能性があると、皇宮で匿う事になった件ですね」
ハイラの話にケイリオルはうんうんと相槌を打つ。その口ではもぐもぐと咀嚼をしているにも関わらず、何故か咀嚼音は全くしない。一体どういう事だ。
「はい。いち早い事件解決の為、昨晩姫様が張り込み捜査をした所──」
(自ら張り込み捜査をしたんですか、王女殿下…?!)
「──犯人の捕縛に成功しました」
「成功したんですか」
「成功しました」
ケイリオルが驚いたように呟くと、ハイラは小さく頷いてもう一度言葉を繰り返した。
これには流石のケイリオルも驚愕を禁じえなかった。此度の連続殺人事件の犯人は警備隊や騎士団だけでなく諜報部の力をもってしても、捕縛する事はおろか正体を突き止める事も出来なかった厄介な存在。
それをたった一度の張り込みで捕縛する事まで成功するなんて、と彼も目を丸くしていた。
「しかしその犯人に重大な問題がありまして」
「重大な問題…ですか」
ゴクリ、とケイリオルが固唾を飲むと、ハイラは神妙な面持ちを作り、
「犯人が隷従の首輪を嵌められていたのです」
ケイリオルにそれを告げた。
「──隷従の首輪が、まだ現存していたと?」
(っ、何ですかこの殺気は…! 全身の毛が逆立つような、強い怒り……まるで、皇帝陛下のような…!!)
部屋の空気が変わる。ケイリオルの唸るような低い声に、ハイラは何処か覚えのある恐怖を肌で感じた。
いつでもどこでもヘラヘラとしている掴み所の無い男、それがケイリオルだ。そんな彼がここまで明確に怒りを露わにするのはかなり珍しい事。
(あの負の遺産が、まだ現存していたなど………あの時確かに全て廃棄したと思ったんだが…忌々しい犯罪者共め、いくつ隠し持っていたんだ…!)
怒り心頭に達したケイリオルは奥歯を噛み締めた。
ケイリオルは奴隷制度とそれに関する魔導具や人身売買を酷く嫌っていた。いや、正確には──エリドル・ヘル・フォーロイトがそれを嫌っていた。
故に、ケイリオルもそれを嫌い完全に廃絶しようと数十年前に動いたのだが……少し前に、数十年前に皇帝主導の一斉断罪から奇跡的に逃れ、これまでコソコソ隠れて人身売買を行っていた犯罪者達を捕え、今度こそ廃絶が叶ったかと思えた。
主犯たるケビソン子爵の屋敷から忌まわしき魔導具が幾つか押収された日には、ケイリオルが怒りのあまり、その場でケビソン子爵の四肢をもいでしまった程。
今度こそ、とケイリオルが責任を持ってケビソン子爵の屋敷にあった全ての魔導具を廃棄したのだが………何と、まだ残っていたのだと言う。
(あの時、子爵は確かに誰にも横流しはしていないと言っていた。それは嘘では無かった……と言う事は、何らかの方法で記憶を消したか! 万が一の場合に備えて…っ、本当に悪知恵だけは働くなあの屑共は)
この国に──この街に、まだあの負の遺産が残っている。
その事実とあの時それを見抜けなかった自身に、ケイリオルは憤慨していた。報告書の端をぐしゃりと握り潰し、拳を震わせる。
「……報告の続きなのですが」
「あぁ、どうぞ」
ハイラが報告を再開しようと口を切ると、ケイリオルはパッと顔を上げ、取ってつけたような声音でそれを促した。
「…犯人の名はアルベルト。歳は現在二十一、性別は男で特定の職には就いていない模様。一年前に地方から帝都に生き別れの弟を捜しにやって来たようです。その際、黒幕に騙され隷従の首輪を嵌められ、一年に及び様々な悪事を強要されていたとの事。闇の魔力を所持しており、どうやら視覚に問題があるようです」
「闇の魔力ですか、成程。それで諜報部でも追跡が叶わなかったのですね」
「それに加え、犯人は身寄りが無かったようで…これまで八年程地方の砦で騎士達と共に暮らしていたらしく、剣術にもかなり秀でていたようです。姫様が仰っていたので間違い無いかと」
「剣術に秀でた闇の魔力所持者…それは確かに厄介ですね。よく、王女殿下も捕縛出来ましたね……そのような存在を」
「姫様は、とても、優秀ですので」
ハイラがあからさまに強調して喋ると、ケイリオルは小さく笑いをこぼした。
(王女殿下一人でと考えるのは少々現実的では無い。十中八九協力者がいると思うのですが──…まぁ、今回は気にしないでおきましょう。王女殿下が犯人を捕縛した方法よりも、隷従の首輪と黒幕の確保が最優先事項なのだから)
確かにアミレスはフォーロイトの血筋の人間らしく、それなりには強いが………それでもまだたった十二歳の少女だ。闇の魔力を持つ剣術に秀でた大人の男を一人で捕縛するのは無理だろうと、ケイリオルは結論づけたのだ。
しかし、今のケイリオルはそれを問題としていない。それよりもずっと、重要な問題があるからだ。
「して、視覚の問題とは?」
「は、どうやら犯人は現在赤色以外の色を認識出来ないようでして。それ以外全ての色が白か黒…及び灰色に見えているとの事です」
「……だから赤髪の人間が狙われていたのですね」
「黒幕がわざわざ帝都にいる赤髪の人間を探しては犯人に指示していたようです」
「はぁ、想像以上にくだらない真相ですね……」
ため息をつきながら、ケイリオルは布越しで額に手を当て項垂れた。何か意味があるに思えた連続殺人に実は大した意味が無いと分かってしまい、肩透かしを食らったようなものだからだ。
「黒幕の名は──マルコ・シルヴァスタ男爵。表向きには慈善事業や教会への寄付を行う善性の貴族ですが、裏では己の特殊嗜好を満たす為に悪逆の限りを尽くしているそうです」
「シルヴァスタ男爵……ああ、あの小物ですか。あれが黒幕と…」
ついに明かされた黒幕の名を聞いて、ケイリオルの口端がニヤリと鋭く弧を描いた。
「その事を私に報告したと言う事はつまり──私の方で強硬手段に出ろ、という訳ですね?」
「はい。正式な手順に則り裁判を起こすとなると時間がかかります。その間に黒幕は雲隠れするでしょう。ですので、卿の権限で強硬手段に出て欲しいのです。黒幕が逃げ出す暇など無い内に」
「──承りました。あくまでも越権行為とならぬよう細心の注意を払い、私の持てる全権限を駆使して黒幕を裁きましょう」
ケイリオルがそう宣言すると、ハイラは役目を終えたとばかりにホッと小さく肩を撫で下ろした。
そのすぐ後に、「では私はまだ仕事が残ってますので」とハイラが退室しようとした所で、
「まだ幾らか報告書を持っているようですが、どちらへ?」
とケイリオルが引き止める。ハイラは少しだけ振り向いて、
「…時間稼ぎのようなものです。シャンパージュ伯爵に、偽の号外を出していただこうかと」
「もしや、連続殺人事件の?」
「えぇ、まさにそれです。存在しない八人目の被害者の情報を号外として出すのです」
その概要を聞いてすぐ、ケイリオルはほぅ…と感嘆した。
(黒幕にこちらが全て気づいていると勘繰られないようにする為の作戦でしょうか。それにしても中々に大胆な作戦だ…まさか、帝都全域に配られるシャンパー商会の新聞が偽物だとはさしもの黒幕も考えないでしょうし。考案者は王女殿下だろうか………)
と感心するケイリオルではあるが、実際にはカイルが適当に提案しただけの骨組みに、シャンパー商会を巻き込むと言う彼女等ならではの特殊な方法で肉付けした作戦がこれである。
「では、今度こそ私はこの辺りで」
「引き止めてしまいすみません。朝は冷えますしお気をつけて」
「……卿も、少しは体調に気を使って下さいね。朝早くから失礼致しました」
ぺこりと一礼し、ハイラは退室した。その後早朝で人もほとんどいない事をいい事に、ハイラは思い切り廊下を走り抜けた。そして上着を着て厩舎より馬を一頭拝借し、それに跨り朝の寒空の下を疾走する。
行先はシャンパージュ伯爵邸。仕事人の伯爵はこのような早朝でも既に目を覚ましており、突然訪ねて来たハイラに驚きつつも彼女を邸に招き入れた。
そして事の経緯を聞き、伯爵は二つ返事で首を縦に振った。ハイラから偽の八人目の被害者についての原稿を預かり、その日の昼過ぎには号外として街に配ると確約した。
伯爵との取引を終えたハイラは急いで皇宮に戻り、そしてアミレスの朝食作り等の通常の仕事に取り掛かった。その傍らには、見慣れぬ男女が一人ずつ。
男はゼル、女はマーナ。ハイラの小間使い──もといお手伝いとして近頃東宮にいたりいなかったりする、ララルス家秘蔵の諜報部隊カラスのメンバーである。
ちなみに私兵団に剣や戦い方を師事しているキールもまた、カラスのメンバーなのだ。信の置ける者しかアミレスに近づけたくないハイラが考え出した苦肉の策、それが手下の諜報部隊の者達に副業をさせる事だったのだ。
「ゼル、それが終わり次第鍋の方を見ておいてください。マーナは食器を今一度洗っておくように」
「イェッサー」
「は、はぁーい…」
テキパキと指示を飛ばしつつ一人で十人分近い働きをするハイラを見て、ゼルとマーナは心底思う。
(お嬢、頼むからそろそろ新しく人雇ってくれないかな…副業のが本業より忙しいとかある?)
(料理が終わったら東宮全体の掃除でそれが終わったら庭の手入れでそれが終わったら──…ってもう無理~! 侍女の仕事が諜報活動より大変なんて聞いてないって~!! お嬢様は何でこんなの好きでやってるんだろ……)
心の中でこっそり恨み言をこぼしつつ、二人は指示通りに働く。
八年程前の皇宮侍女の腐敗っぷりを体感したハイラだからこそ、アミレスの為に超少数精鋭で働く事を選んだのだ。それで幾度となく裏で過労で倒れそうになっても、ハイラはアミレスの安全の為に、有象無象が東宮を闊歩する事が無いよう尽力して来た。
それを影ながら支えて来たカラス達は、主がまた無理をして倒れそうになるのではと心配なのだ。
(さて、今日の朝食も腕によりをかけて仕上げましょう。姫様の朝がより良いものとなり彩られますように)
しかし部下の心、上司知らず。ハイラは過労気味である事は最早度外視でこの仕事を楽しんでいた。
そう、言うなれば──アミレスの侍女とは、彼女にとって天職そのものなのだ。
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