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第二章・監国の王女
116.ある未来の悪夢
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──兄が、両親を手にかけ爵位を簒奪した。
秋の頃、私が月に一度の帰省をすると…夜中に兄が父を殺している姿を扉の隙間から目撃してしまった。それに戸惑っていると、私を探していたらしい母が脂汗を顔中に滲ませ、慌てて私を遠くの部屋まで連れて行った。
そして、母は血塗れの腹部を押さえながら私に言った。西部地区に逃げろ………と。兄は確かに潔癖症だった。こう言っては失礼かと思うが、確かに貧民街と呼ばれる西部地区ならば兄も追ってこれまい。
母の遺言に従い、私は僅かな荷物だけを持ち、兄から逃げるように西部地区へ向かった。どうしても生き延びねばならなかった、死ぬ訳にはいかなかった。
名を捨て、恥を捨て、尊厳を捨てても…この願いだけは捨てたくなかった。
こんなにも急に王女殿下のお傍にいられなくなってしまうなんて、誰が予想出来ただろうか。いや、出来なかった。出来なかったからこそ、私は我が身の不甲斐なさに憤慨しながら真夜中の帝都をただ走り続けていた。
西部地区に着き、これからどうしたものかと途方に暮れていた時…幸いにもディオ達と出会い、私は住まいと新たな家族を得た。装飾品や服は適当に売って金に変えた。
私にとって重要なのは王女殿下の騎士となる事、ただそれだけだったから……ディオ達の所で世話になる以上、それ相応の恩を返すべきと思ったのだ。
兄の所為で王女殿下のお傍を離れる事になり、騎士となる道も遠ざかった。だがしかし、かなりの回り道となるが完全にそれが塞がれた訳ではない。
ならば私はどれ程回り道でも着実に一歩ずつ進み、やがて必ずや王女殿下の騎士となってみせる。そう、この命に誓ったのだ。
帝国騎士団は、実力のある者ならば身分を問わず毎年十二月に行われる入団試験を受けられる。しかし条件として満十九歳である必要があった。
ただの兵士志望であれば満十三歳で入団試験を受けられる帝国兵団に行けばいい。
騎士団は国に仕え皇族に仕える言わば皇族の財産に近いもの。故に訓練内容も厳しく条件も厳しいのだ。だが、私がランディグランジュの人間であった以上騎士以外の選択肢は初めから存在し無い。
十九歳になった年には騎士団の入団試験を受けると決めていた。
しかしそこで問題が発生した。受験料がいる。その時私達の貯金は直前に訪れた大寒波の影響で底を着いていて………身分を証明出来るものが無い以上、金を借りる事も出来ない。
ただでさえひもじい生活をしているのに、私の我儘でディオ達に迷惑はかけられまい。苦汁の決断ではあったが、その年は入団試験を見送る事にした。
だがまだ大丈夫。王女殿下はまだご健在だ。来年こそ騎士団に入りいつか王女殿下の騎士に、と考えていたのだが。
翌年、私が二十になった年は入団試験の審査員に兄がいると風の噂で聞いてしまった。
私が野垂れ死んだと思っているであろう兄と顔を合わせる訳にはいかない。私が生きていると知った兄が何をしでかすか分からない。実の父に毒を盛って殺すような兄だ、きっとディオ達をも巻き込むに違いない。
しかし。かと言ってこの機会を逃す訳にも……と悩みに悩んだ結果、この年も泣く泣く入団試験は見送ったのだ。
私にとって大事な生きる意味である王女殿下。必ずや、貴女様のお傍に。まだ御歳十一の貴女様のお傍に馳せ参じる機会は、まだこれから沢山ある。
だからいつか、必ずや。それまでどうか、お待ち下さい──。
そう願い、やがて四年の月日が経った。私はもう二十三歳になっていた。
結局私が騎士団入団試験を受けられたのはニ年前、それまでの二年間はずっと兄が審査員をしていたり、突然受験料が引き上げられたりと様々な理由があり受験出来なかった。
それもこれも兄の所為だ。兄が爵位簒奪などしたから…私は家を追い出され、王女殿下のお傍にいられなくなった。
もう、最後に王女殿下にお会いしてから十三年だ。王女殿下はどれ程成長されただろうか。きっと皇后陛下によく似てお美しくなられている事だろう。しかし、あの咲き誇る花のような笑顔は変わらないだろう。
……などと思い馳せ、その度に私は、見習い騎士として王城に行く事となってからよく耳にするとある噂を思い出す。王女殿下が皇帝陛下と皇太子殿下に疎まれていると言う噂。
確かに、皇帝陛下は王女殿下への殺意が異常であらせられた。しかしそれは皇后陛下の事があったからで…まさかそれが十年以上も続いているのか? 皇太子殿下をも巻き込み王女殿下へと八つ当たりをしているのか? そう、見習い騎士として訓練に励む私は日々考えていた。
騎士団に入団した者はまず初めに見習い騎士として訓練や実戦任務に励み、各騎士小隊の隊長の推薦を経て、ようやく正規の騎士となるべく昇進試験を受けられる。
私は髪の色が目立つ上、名前も騎士団にいる者には知られている可能性があった。その為、わざわざ染料を使い髪を黒く染め、名前はシャルルギルから借りた。
念には念をとラークやユーキに言われた結果の、正体がバレない為の対策だった。
幸いにも私は兄と全然似ていない。兄が父に似て、私が母に似たからだ。だから髪の色さえ変えていれば…この顔を見ても私がイリオーデだと周りが気づく事は無かったのだ。
二年間、なんとか見習い騎士として次々に成果を残し、エリニティやディオやシアンの助言に従い、元々私に目をかけてくれていた隊長により気に入られるよう振舞った。
そして。私は入団二年目にして正規の騎士になる快挙を成し遂げた。なんでも、早くても四年はかかるとか言われていたらしい。
だが私としてはこれでも遅いぐらいだった。ここから更に私はもっと上の位まで上り詰め、王女殿下の…王女殿下だけの騎士となる。もっと早く、一秒でも早く。
もう既に違えてしまったあの時の誓いを、今一度やり直す為に。
──ある夏の日の事だった。騎士としての巡回任務中、号外! と声を張り上げて新聞を高く掲げる男達を見た。
何故だか妙な胸騒ぎがして…普段はわざわざ新聞を買ったりしないのに、その号外を私は手にしていた。
そして、その紙面を見て言葉を失った。
【祖国を裏切った大罪人アミレス・ヘル・フォーロイト、ついに断罪! 我等が皇帝陛下自ら首を断つ!!】
心臓が、止まったような気さえした。その言葉を認識した脳が、爆ぜる程に心臓を動かし始める。
周りの音が聞こえなくなる。目が、口が、手が、全身が恐怖のあまり震え出す。
全身から力が抜けてゆく。視界が青く、紫に、そして白くなってゆく。新聞を強く握っている筈なのに、その感覚が無い。自分が今ちゃんと立てているのかすら分からない。
フラフラと、僅かに見える景色の中を感覚も無いまま歩く。そして人のいない路地裏に入り、私は膝から崩れ落ちた。この現実から目を逸らす事を許さないとばかりに、私の視界は徐々に色を取り戻し、それをまた認識させる。
裏切り者? 大罪人? 何故、何故その御名前がそのような言葉と共に並ぶ?
皇帝陛下自ら首を断つだなんて、そんな、そんな……!
『っ、ぅ………ぁ…なん、で……っ!!』
ポタリポタリと、新聞が水に侵されてゆく。視界が水中にいるかのように揺らぎ、どんどん強く激しくなる嗚咽。
間に合わなかった。私は遅すぎたんだ。絶対に守ると誓ったのに。守り抜くと誓ったのに。私は、私は……ッ!!
ずっと、ずっと私という存在を支えて来た生きる意味が、あの誓いが──最悪の形で永遠に失われた。
この願いは二度と叶わない。叶う事無く失せるのだ。たった一瞬。たった一枚の号外で私の人生全てが否定され、破壊され、無意味となった。
その日、私は無断で騎士団の業務を休んだ。泣き疲れ枯れた喉、酷く陰鬱な顔、力の抜けた体。家にも帰らず、失意の中行くはランディグランジュ侯爵家…帝都にあるその邸。
兄から逃げるように家を飛び出たあの夜に似た夜空の下で、私はその兄に会おうとして家に舞い戻った。十年ぶりに邸に現れた私を、まるで死霊を見たかのような目で見てくる邸の者達。だがそれも仕方の無い事だ。
私は十年も前にこの家を出てから一度も帰って来る事のなかった人間……そして今の私は酷い顔をしている事だろう。それこそ、死霊のように見えても仕方の無いような、そんな顔。
もう、この世界に意味は無くなった。私の生きる意味は無くなり、もう死んでしまおうかと思った。
でも………ただ死ぬ事は出来ない。ランディグランジュの騎士は騎士として死ななければならない。父が非業の死を遂げた以上、せめて私だけでも騎士として死ななければならなかった。
誰かの制止も聞かず、ただ真っ直ぐ、迷う事無く私は兄がいるであろう場所…当主の執務室を目指した。
誇り高き騎士であった父を欺き殺害し、優しくも強かであった母を苦しめ殺害し、いずれ手に入る筈だったその座を欲したあまり己が欲の為に大事件を起こした我が兄。
『なんだ、一体誰……だ…………っ!?』
扉を蹴破ると、そこでは私と同じ青い髪を持つ、父に似た顔立ちの男…我が兄、アランバルト・ドロシー・ランディグランジュが目を丸くして驚愕を露わにしていた。
これはただの腹いせだ。力無く、遅すぎて間に合わなかった私の理不尽で意味不明な八つ当たり。
もしあの時、兄が爵位簒奪など企む事がなければ…私はあれからもずっと王女殿下のお傍にいられたのかもしれない。そもそも何故兄が爵位簒奪など企んだのか……元より時期侯爵の座は兄のものだったのに。
それなのに何故……貴方の所為で私はランディグランジュではなくなった。私は王女殿下のお傍を離れる事となった。
王女殿下のお傍に馳せ参じる事が遅れ間に合わなかった事は私自身の責任なのに………私はそうやって、兄にその責任を押し付ける形でここに戻って来た。
『──アランバルト・ドロシー・ランディグランジュ。私が騎士として死ぬ為に死んでくれ』
『イリ、オーデ? お前、なんで……っ?!』
兄は慌てて立ち上がり、傍に置かれていた剣を構えた。かなり動揺しているのかその構えは少し不安定であった。私も剣を構え、そして兄に斬りかかる。
──騎士とは。弱きを助け強きをくじくもの。人の営みを守護し、人の成す悪を滅するもの。その剣は誇りそのもの、誉れ高き正義であるもの。剣を捧げし相手の為に命を尽くすもの。
強くあれ。聡明であれ。正義であれ。慈悲深くあれ。冷徹であれ。謙虚であれ。強欲であれ──。
いつか父から聞いた言葉が次々と私の脳を侵す。兄との剣戟の最中、私は私を形作った騎士道と誓いの事のみを考えていた。
兄の事など考えずとも、彼に勝つ事は容易であったから。それ程に………ランディグランジュの当主として恥ずかしい程に、兄は弱かった。
キィンッ、と兄の剣を弾き飛ばして、私は彼を壁際まで追いやった。その時多くの衛兵や騎士が私を捕らえようと飛びかかってきたが、私はそれに構わず兄の首目掛けて剣を振った。
『ま──ッ』
『私は私にとっての悪を滅する。それが、私の最後の騎士道だ』
赤き鮮血を撒き散らし、断頭台で断たれた首のように地に落ちる兄の首。それを無感情な瞳で見下ろしながら、私は更に剣を構え、
『……申し訳、ございませんでした。王女殿下』
自らの心臓に突き立てた。
私という何も無い人間に、この人生を捧げるだけの意味を与えてくださりありがとうございました。
叶うなら、きちんと貴女に誓いたかった。騎士の誓いを、この身この命この生全てを捧げる誓いを貴女に受け取って欲しかった。私の名を、もう一度呼んで欲しかった。
愚かな私は選択を誤ったのです。先があるなどと考え、結局間に合わなかった。原因とも言える男に八つ当たりをした所でその事実は変わらない。
ああ、私の色の無い人生が思い返される。
貴女が健やかに生きている事をずっと祈っておりました。貴女の幸福をただ願っておりました。
かつての皇后陛下のように、どこかの地で幸福になった貴女の傍で貴女の騎士として貴女をお守りする……そんな大それた夢を見ておりました。
『……せめ、て…さいごに………も、う…いちど…あなたの、えがおが……みた、かった──』
命が消えてゆく感覚。邸の者達が、首を斬られた兄と心臓を刺した私を見て、周りでぎゃあぎゃあと騒いでいる。
薄れゆく意識の中、私は誰にも聞こえないような小声で願望を口にしていた。
貴女の成長なされた姿が見たかった。それはきっと、きっと…………この世の何よりも、美しいのでしょう───。
秋の頃、私が月に一度の帰省をすると…夜中に兄が父を殺している姿を扉の隙間から目撃してしまった。それに戸惑っていると、私を探していたらしい母が脂汗を顔中に滲ませ、慌てて私を遠くの部屋まで連れて行った。
そして、母は血塗れの腹部を押さえながら私に言った。西部地区に逃げろ………と。兄は確かに潔癖症だった。こう言っては失礼かと思うが、確かに貧民街と呼ばれる西部地区ならば兄も追ってこれまい。
母の遺言に従い、私は僅かな荷物だけを持ち、兄から逃げるように西部地区へ向かった。どうしても生き延びねばならなかった、死ぬ訳にはいかなかった。
名を捨て、恥を捨て、尊厳を捨てても…この願いだけは捨てたくなかった。
こんなにも急に王女殿下のお傍にいられなくなってしまうなんて、誰が予想出来ただろうか。いや、出来なかった。出来なかったからこそ、私は我が身の不甲斐なさに憤慨しながら真夜中の帝都をただ走り続けていた。
西部地区に着き、これからどうしたものかと途方に暮れていた時…幸いにもディオ達と出会い、私は住まいと新たな家族を得た。装飾品や服は適当に売って金に変えた。
私にとって重要なのは王女殿下の騎士となる事、ただそれだけだったから……ディオ達の所で世話になる以上、それ相応の恩を返すべきと思ったのだ。
兄の所為で王女殿下のお傍を離れる事になり、騎士となる道も遠ざかった。だがしかし、かなりの回り道となるが完全にそれが塞がれた訳ではない。
ならば私はどれ程回り道でも着実に一歩ずつ進み、やがて必ずや王女殿下の騎士となってみせる。そう、この命に誓ったのだ。
帝国騎士団は、実力のある者ならば身分を問わず毎年十二月に行われる入団試験を受けられる。しかし条件として満十九歳である必要があった。
ただの兵士志望であれば満十三歳で入団試験を受けられる帝国兵団に行けばいい。
騎士団は国に仕え皇族に仕える言わば皇族の財産に近いもの。故に訓練内容も厳しく条件も厳しいのだ。だが、私がランディグランジュの人間であった以上騎士以外の選択肢は初めから存在し無い。
十九歳になった年には騎士団の入団試験を受けると決めていた。
しかしそこで問題が発生した。受験料がいる。その時私達の貯金は直前に訪れた大寒波の影響で底を着いていて………身分を証明出来るものが無い以上、金を借りる事も出来ない。
ただでさえひもじい生活をしているのに、私の我儘でディオ達に迷惑はかけられまい。苦汁の決断ではあったが、その年は入団試験を見送る事にした。
だがまだ大丈夫。王女殿下はまだご健在だ。来年こそ騎士団に入りいつか王女殿下の騎士に、と考えていたのだが。
翌年、私が二十になった年は入団試験の審査員に兄がいると風の噂で聞いてしまった。
私が野垂れ死んだと思っているであろう兄と顔を合わせる訳にはいかない。私が生きていると知った兄が何をしでかすか分からない。実の父に毒を盛って殺すような兄だ、きっとディオ達をも巻き込むに違いない。
しかし。かと言ってこの機会を逃す訳にも……と悩みに悩んだ結果、この年も泣く泣く入団試験は見送ったのだ。
私にとって大事な生きる意味である王女殿下。必ずや、貴女様のお傍に。まだ御歳十一の貴女様のお傍に馳せ参じる機会は、まだこれから沢山ある。
だからいつか、必ずや。それまでどうか、お待ち下さい──。
そう願い、やがて四年の月日が経った。私はもう二十三歳になっていた。
結局私が騎士団入団試験を受けられたのはニ年前、それまでの二年間はずっと兄が審査員をしていたり、突然受験料が引き上げられたりと様々な理由があり受験出来なかった。
それもこれも兄の所為だ。兄が爵位簒奪などしたから…私は家を追い出され、王女殿下のお傍にいられなくなった。
もう、最後に王女殿下にお会いしてから十三年だ。王女殿下はどれ程成長されただろうか。きっと皇后陛下によく似てお美しくなられている事だろう。しかし、あの咲き誇る花のような笑顔は変わらないだろう。
……などと思い馳せ、その度に私は、見習い騎士として王城に行く事となってからよく耳にするとある噂を思い出す。王女殿下が皇帝陛下と皇太子殿下に疎まれていると言う噂。
確かに、皇帝陛下は王女殿下への殺意が異常であらせられた。しかしそれは皇后陛下の事があったからで…まさかそれが十年以上も続いているのか? 皇太子殿下をも巻き込み王女殿下へと八つ当たりをしているのか? そう、見習い騎士として訓練に励む私は日々考えていた。
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私は髪の色が目立つ上、名前も騎士団にいる者には知られている可能性があった。その為、わざわざ染料を使い髪を黒く染め、名前はシャルルギルから借りた。
念には念をとラークやユーキに言われた結果の、正体がバレない為の対策だった。
幸いにも私は兄と全然似ていない。兄が父に似て、私が母に似たからだ。だから髪の色さえ変えていれば…この顔を見ても私がイリオーデだと周りが気づく事は無かったのだ。
二年間、なんとか見習い騎士として次々に成果を残し、エリニティやディオやシアンの助言に従い、元々私に目をかけてくれていた隊長により気に入られるよう振舞った。
そして。私は入団二年目にして正規の騎士になる快挙を成し遂げた。なんでも、早くても四年はかかるとか言われていたらしい。
だが私としてはこれでも遅いぐらいだった。ここから更に私はもっと上の位まで上り詰め、王女殿下の…王女殿下だけの騎士となる。もっと早く、一秒でも早く。
もう既に違えてしまったあの時の誓いを、今一度やり直す為に。
──ある夏の日の事だった。騎士としての巡回任務中、号外! と声を張り上げて新聞を高く掲げる男達を見た。
何故だか妙な胸騒ぎがして…普段はわざわざ新聞を買ったりしないのに、その号外を私は手にしていた。
そして、その紙面を見て言葉を失った。
【祖国を裏切った大罪人アミレス・ヘル・フォーロイト、ついに断罪! 我等が皇帝陛下自ら首を断つ!!】
心臓が、止まったような気さえした。その言葉を認識した脳が、爆ぜる程に心臓を動かし始める。
周りの音が聞こえなくなる。目が、口が、手が、全身が恐怖のあまり震え出す。
全身から力が抜けてゆく。視界が青く、紫に、そして白くなってゆく。新聞を強く握っている筈なのに、その感覚が無い。自分が今ちゃんと立てているのかすら分からない。
フラフラと、僅かに見える景色の中を感覚も無いまま歩く。そして人のいない路地裏に入り、私は膝から崩れ落ちた。この現実から目を逸らす事を許さないとばかりに、私の視界は徐々に色を取り戻し、それをまた認識させる。
裏切り者? 大罪人? 何故、何故その御名前がそのような言葉と共に並ぶ?
皇帝陛下自ら首を断つだなんて、そんな、そんな……!
『っ、ぅ………ぁ…なん、で……っ!!』
ポタリポタリと、新聞が水に侵されてゆく。視界が水中にいるかのように揺らぎ、どんどん強く激しくなる嗚咽。
間に合わなかった。私は遅すぎたんだ。絶対に守ると誓ったのに。守り抜くと誓ったのに。私は、私は……ッ!!
ずっと、ずっと私という存在を支えて来た生きる意味が、あの誓いが──最悪の形で永遠に失われた。
この願いは二度と叶わない。叶う事無く失せるのだ。たった一瞬。たった一枚の号外で私の人生全てが否定され、破壊され、無意味となった。
その日、私は無断で騎士団の業務を休んだ。泣き疲れ枯れた喉、酷く陰鬱な顔、力の抜けた体。家にも帰らず、失意の中行くはランディグランジュ侯爵家…帝都にあるその邸。
兄から逃げるように家を飛び出たあの夜に似た夜空の下で、私はその兄に会おうとして家に舞い戻った。十年ぶりに邸に現れた私を、まるで死霊を見たかのような目で見てくる邸の者達。だがそれも仕方の無い事だ。
私は十年も前にこの家を出てから一度も帰って来る事のなかった人間……そして今の私は酷い顔をしている事だろう。それこそ、死霊のように見えても仕方の無いような、そんな顔。
もう、この世界に意味は無くなった。私の生きる意味は無くなり、もう死んでしまおうかと思った。
でも………ただ死ぬ事は出来ない。ランディグランジュの騎士は騎士として死ななければならない。父が非業の死を遂げた以上、せめて私だけでも騎士として死ななければならなかった。
誰かの制止も聞かず、ただ真っ直ぐ、迷う事無く私は兄がいるであろう場所…当主の執務室を目指した。
誇り高き騎士であった父を欺き殺害し、優しくも強かであった母を苦しめ殺害し、いずれ手に入る筈だったその座を欲したあまり己が欲の為に大事件を起こした我が兄。
『なんだ、一体誰……だ…………っ!?』
扉を蹴破ると、そこでは私と同じ青い髪を持つ、父に似た顔立ちの男…我が兄、アランバルト・ドロシー・ランディグランジュが目を丸くして驚愕を露わにしていた。
これはただの腹いせだ。力無く、遅すぎて間に合わなかった私の理不尽で意味不明な八つ当たり。
もしあの時、兄が爵位簒奪など企む事がなければ…私はあれからもずっと王女殿下のお傍にいられたのかもしれない。そもそも何故兄が爵位簒奪など企んだのか……元より時期侯爵の座は兄のものだったのに。
それなのに何故……貴方の所為で私はランディグランジュではなくなった。私は王女殿下のお傍を離れる事となった。
王女殿下のお傍に馳せ参じる事が遅れ間に合わなかった事は私自身の責任なのに………私はそうやって、兄にその責任を押し付ける形でここに戻って来た。
『──アランバルト・ドロシー・ランディグランジュ。私が騎士として死ぬ為に死んでくれ』
『イリ、オーデ? お前、なんで……っ?!』
兄は慌てて立ち上がり、傍に置かれていた剣を構えた。かなり動揺しているのかその構えは少し不安定であった。私も剣を構え、そして兄に斬りかかる。
──騎士とは。弱きを助け強きをくじくもの。人の営みを守護し、人の成す悪を滅するもの。その剣は誇りそのもの、誉れ高き正義であるもの。剣を捧げし相手の為に命を尽くすもの。
強くあれ。聡明であれ。正義であれ。慈悲深くあれ。冷徹であれ。謙虚であれ。強欲であれ──。
いつか父から聞いた言葉が次々と私の脳を侵す。兄との剣戟の最中、私は私を形作った騎士道と誓いの事のみを考えていた。
兄の事など考えずとも、彼に勝つ事は容易であったから。それ程に………ランディグランジュの当主として恥ずかしい程に、兄は弱かった。
キィンッ、と兄の剣を弾き飛ばして、私は彼を壁際まで追いやった。その時多くの衛兵や騎士が私を捕らえようと飛びかかってきたが、私はそれに構わず兄の首目掛けて剣を振った。
『ま──ッ』
『私は私にとっての悪を滅する。それが、私の最後の騎士道だ』
赤き鮮血を撒き散らし、断頭台で断たれた首のように地に落ちる兄の首。それを無感情な瞳で見下ろしながら、私は更に剣を構え、
『……申し訳、ございませんでした。王女殿下』
自らの心臓に突き立てた。
私という何も無い人間に、この人生を捧げるだけの意味を与えてくださりありがとうございました。
叶うなら、きちんと貴女に誓いたかった。騎士の誓いを、この身この命この生全てを捧げる誓いを貴女に受け取って欲しかった。私の名を、もう一度呼んで欲しかった。
愚かな私は選択を誤ったのです。先があるなどと考え、結局間に合わなかった。原因とも言える男に八つ当たりをした所でその事実は変わらない。
ああ、私の色の無い人生が思い返される。
貴女が健やかに生きている事をずっと祈っておりました。貴女の幸福をただ願っておりました。
かつての皇后陛下のように、どこかの地で幸福になった貴女の傍で貴女の騎士として貴女をお守りする……そんな大それた夢を見ておりました。
『……せめ、て…さいごに………も、う…いちど…あなたの、えがおが……みた、かった──』
命が消えてゆく感覚。邸の者達が、首を斬られた兄と心臓を刺した私を見て、周りでぎゃあぎゃあと騒いでいる。
薄れゆく意識の中、私は誰にも聞こえないような小声で願望を口にしていた。
貴女の成長なされた姿が見たかった。それはきっと、きっと…………この世の何よりも、美しいのでしょう───。
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