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第二章・監国の王女

115.ある過去の結末

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 私は、フォーロイト帝国の中でも名のある家門ランディグランジュ侯爵家の次男として生まれた。
 イリオーデ・ドロシー・ランディグランジュ。それが私の名前。ただかくあるべしと定められた理想像へと進む事しか出来ない、感情らしい感情を持たず生きる意味も持たなかった男の名前だ。
 ………もう、この名を名乗らなくなって十年以上経つ。両親は兄の爵位簒奪により死に、私は名を捨てて隠れて生き延びる道を選んだ。
 私の大望の為には生きてなくてはならない。兄に殺される訳にはいかなかったのだ。…もっとも、兄と剣の勝負になっても負ける事は無かっただろう。ただ、兄の側には簒奪の協力者らしき大人達がいた。
 あれら全てを相手取るのはまだ幼い私ではきっと不可能だった。だからこそ、母の遺言に従い貧民街へと逃げ込んだのだ。
 私はどうしても生きてなくてはならない。我が大望、我が大願、我が生きる意味の為にも生きてなくてはならないのだ。


♢♢♢♢


 初めてあの御方にお会いしたのは、私がまだ七歳の頃だった。
 薄紅の髪に花のように美しい紫紺の瞳を持つ、我等が国母皇后陛下……その人と初めてお会いしたのは、母に連れられて、生まれたばかりの王子殿下に拝謁する喜びに与れた時だった。
 ランディグランジュ家は帝国に忠誠を誓うもの。その為、いずれこの御方を守る騎士となる私と兄も挨拶を…と言う事情だったらしい。………相手は生後間もない赤子なのに、意味は無いのでは? と兄が口を滑らせた際には母から強い拳骨が繰り出されていた。
 兄はそれが恥ずかしかったのか私までもを巻き込み、母に『僕だけ怒られるのはおかしい!』と直談判をした。しかし母はそれに騙される事無く兄を叱る。それを経て更に兄の機嫌が悪くなりまた私が巻き込まれる…そんな悪循環が始まる。
 そんな様子を見て、皇后陛下は微笑ましそうにクスクスと笑う。当時七歳でまだ何も知らない子供だった私は、皇后陛下が何故笑っているのか皆目見当もつかなかったのだ。

 その後……一年程が経った頃だろうか。次期侯爵と言う訳でもない私に、母伝で皇后陛下からお声がかかった。
 何でも私に王子殿下の遊び相手になって欲しいと。一歳になったばかりでようやく歩けるようになった王子殿下を、何故私のような剣を握る事しか知らない人間に?
 そんな疑問がふつふつと沸いて出たものの、皇后陛下直々のお言葉とあれば断れる筈も無く。母と共に皇宮まで馳せ参じ、私は本当に王子殿下の遊び相手を任された。
 王子殿下はとても大人しい御方で、遊ぶと言ってもずっと黄昏れるか絵本を読むかばかりだった。皇后陛下と母が近くでお茶をしながらこちらを見守る中、私は本当に何もしていなかった。
 ………一歳の子供が黄昏たり一人で絵本を読むものなのかと疑問にも思ったが、皇后陛下は『やっぱり旦那様との子供だから天才なのかしら?』と母と楽しげに会話するばかり。
 育児の覚えなど全く無い私にはこれが正しい事なのかどうかさえ分からない。なので深くは考えず、王子殿下に必要とされた時に応えられるようにしておこうと、その日は待機する事にした。
 王子殿下の遊び相手にとお声をかけていただいたにも関わらず、こんな風に何もしない私を皇后陛下はお許しになる筈がない。もう二度とお声がけいただけないだろうと思っていたのだが──気づけば、一年近く王子殿下の遊び相手を続けていた。
 私に特別な用事が無い日の昼はほぼ毎日皇宮に行き、一人で悠々と過ごす王子殿下を見守る。そんな日々が続く。
 剣を握らないランディグランジュの男に意味は無い。だから私は、昼間は鍛錬が出来ない分朝と夜に昼間の分も鍛錬をしていた。それを暫く続けていればいつの間にか睡眠時間が短くても問題無くなっていて、私は世に言うショートスリーパーというものになっていた。
 王子殿下の遊び相手をしていると必然的に皇后陛下と関わる機会も増える。だからこそ、当時の私は誰よりも早く皇后陛下の変化に気づいたのだ。
 皇后陛下がまたもやご懐妊あそばされた。王子殿下に次ぐ二人目の御子であり、国教会から呼び出された大司教の話だと王女殿下…らしい。
 その事を皇后陛下は皇帝陛下と共に喜びあっていた。確かに以前皇后陛下からお聞きした事があった。

『子供は多くなくていいの、あの人に似た男の子と女の子が一人ずついてくれれば……私は十分幸せになれますから』

 皇后陛下と皇帝陛下は王子殿下を一人、王女殿下を一人お望みでいらっしゃった。その為、この念願とも言える吉報に皇宮中が歓喜に溢れた。
 王子殿下の遊び相手をしつつ、私は日々命の重みを増す皇后陛下の御身体を見守っていた。そんな時だった。
 王子殿下が昼の就寝に入られた時に皇后陛下に呼び出された。そして皇后陛下は膨らむ腹部を優しく撫でながら、私に向けてこう言ったのだ。

『イリオーデ。どうか、この子………アミレスが産まれたら、この子だけの騎士になってください。私の可愛い娘を、どうか貴方の剣で守ってください』

 トクン、と……これまで何も感じる事のなかった心が喜びを覚えた気がした。

『あっ、この事は陛下には内緒ですよ? ランディグランジュ家の騎士を独占する約束をしたなんて知られては、陛下に怒られてしまいますから。………フリードルはきっと、陛下と同じくらい強い子になるでしょう。でも、この子は分からない。だから、我が国の誇り高き剣たるランディグランジュ家の貴方に、この子だけの騎士になって欲しいのですわ』

 皇后陛下は慈愛に満ちた御顔で微笑まれた。ランディグランジュの騎士は帝国のもの。皇族である王女殿下に仕えようともなんら問題では無いが……皇后陛下は皇帝陛下に怒られてしまう、と有り得ない事を口にされた。
 あの皇帝陛下が皇后陛下に怒る………そんな事が本当にあるのか……? と幼いながらに私は両陛下の関係図を理解し、内心で異を唱えていた。
 しかし口には出さない。当然の事だ。

『我が身我が剣をいずれお生まれになる王女殿下が為に尽す事、ランディグランジュの名において誓います』

 跪き、深く頭を垂れながら私はこの名において誓った。
 仕えるべき主がいる事は騎士としての何よりの本懐。そう、父から聞いていた私は密かに舞い上がっていた。ようやく生きる意味が出来た、私が生きる必要が出来たと喜んでいた。
 だが、事件が起きた。起こってはならない事が起きた。
 ──皇后陛下が、天に旅立たれてしまった。
 それは王女殿下がお生まれになった日。王女殿下を産んですぐに、皇后陛下は………。
 その報せはすぐさま国中に広まった。王女殿下がお生まれになった事と共に、皇后陛下が天に旅立たれた事が国中に広まり…誰もが戸惑った。国を挙げて祝うべき日になる筈だったのに、国を挙げて嘆くべき日にもなってしまったのだから。
 私が最後に皇后陛下にお会い…したのは、皇后陛下の葬式だった。誰もが涙を流し、皇后陛下の死を嘆く。
 この世界全てに絶望したような暗く凍える瞳の皇帝陛下が会場に現れると、その場にいた誰もが恐怖のあまり涙も言葉も全てを失った。
 皇帝陛下は皇后陛下の眠る棺に皇后陛下の髪によく似た薄紅の花束を入れ、煉獄より這い上がる悪魔のような低い声で私達に告げた。

『疾く失せろ』

 たった一言。その喉を締められ息が止まりそうになる一言で、皇后陛下の葬式に参列していた者達は逃げ出すようにその場を後にした。
 かく言う私も、人の波に押されて外に出た。父と母ともはぐれてしまったと辺りをキョロキョロ見渡していると、私は面識のある人に声をかけられた。
 それはいつもより覇気の無いケイリオル卿だった。彼に『一緒に来てくださいますか』と言われ、事情も分からないまま着いて行った。
 すると着いた場所は東宮の辺鄙な場所にある一室。静かに部屋の扉を開けると……そこには一人の侍女と一つのゆりかごがあった。
 その侍女には見覚えがあった。皇后陛下の専属侍女をしていた方であり、私もこの一年で何度か世話になった。名をクレアと言う。
 ケイリオル卿がクレアと何かを話す。それに彼女がこくりと頷くと、クレアが私の方を見て、

『イリオーデ様、どうか……アミレス様を…お守りください……!!』

 たった齢九歳だかの子供相手に、クレアは懇願するように頭を下げた。
 その言葉と同時に、私の頭の中では以前皇后陛下に言われた言葉が反芻された。
 ──守らなければ。王女殿下を、私の生きる意味である御方を!
 強く決意した私は、その場で二つ返事をして王女殿下のお傍に控える事となった。毎日帝都の邸から皇宮に通っているのでは駄目だ。
 私は父と母を説得し、ランディグランジュである事を最大限生かして、何と皇宮に泊まり込む許可をケイリオル卿から頂いた。
 そして、乳母でもあったクレアと王女殿下と共に東宮の外れの狭い一室で、何かから隠れるように日々生活していた。
 まだ生後間もない王女殿下が、母の優しさや温もりを知らぬまま生きる事になるなんて……と私は過去を嘆いた。しかしそれは意味の無い事。
 とにかく王女殿下のお傍で、王女殿下を危険から守る為に日々を過ごしていた。そうする事およそ一年半。
 王女殿下が無事に初のお誕生日をお迎えになられた時には私も涙が止まらなかった。
 その日は王女殿下のお誕生日でもあるが、同時に皇后陛下の命日でもあった。常識のある大人なら、皇后陛下のご冥福をお祈りするのだろう。
 ……だけど。だからこそ。私達だけは王女殿下のお誕生日をお祝いしなければと思った。
 勿論皇后陛下の命日も忘れていない。だが、それで王女殿下のお誕生日を蔑ろにしてしまってはそれこそ皇后陛下がお怒りになられるであろうと、私とクレアは話し合った。
 そして初めての王女殿下のお誕生日パーティー。ささやかながら私達はめいいっぱい、今日と言う日に思いを込めてお祝いした。
 その時だった。王女殿下が、小さく柔らかい御手で私の指を掴んで──

『いーぉーで!』

 ──私の、名を呼んでくださったのだ。咲き誇る花々のように明るく愛らしい、全てを照らす太陽のごとき眩い笑顔だった。
 少しでも力を入れたら…ただ触れてもあっという間に壊れてしまいそうな、そんな小さくか弱い存在。皇后陛下より託された、尊き御方。

『……っ、はい、はい…! イリオーデでございます、王女殿下…っ!!』

 ぶわっと涙と共に感情が溢れ出す。ずっとずっと、私には無いと思っていたそれが、確かに私の心の中にはあったのだ。
 守りたい。絶対に、この御方だけは守り抜かねばならない。こんなにも尊い御方の命が危ぶまれるなんて、そんな事があっていい筈が無い。だから私が、この命にかえても守り抜かねば──そう、強く心に思った。

『私が、傍におりますから……っ! 私が、貴女様を…絶対、絶対に……お守りします、から…!!』

 滝のように流れ出る涙。初めてだった、こんなにも泣いたのは。私は…それこそ今の王女殿下と変わりない歳の頃から全然泣かず喋らずな子供だったらしく、物心がついてからも泣いた記憶は数える程しかない。
 それなのに、私は今、人生で最も泣いていた。生きる意味を強く認識し、それが願いへと昇華されたからだった。
 王女殿下の騎士となり、王女殿下の剣として一生を懸け王女殿下をお守りする──それが私の生きる意味となり、大願となったのだ。
 王女殿下を強く憎む皇帝陛下より王女殿下をお守りする為にも、更に一秒でも早く強くならねば。
 元より月に一度は邸に帰るようにしていた。しかし王女殿下のお誕生日を経てからというもの、その月に一度の際に私は父より陽が昇るまで休まず剣を教えて貰っていた。
 絶対に強くならないと。早く強くならないと。そうでなければ、王女殿下をお守り出来ない。
 必死に、死にものぐるいで私は日々剣を振っていた。王女殿下がお眠りになった昼下がり、夜、朝、とにかく自由な時間は鍛錬に費やした。
 これから先も王女殿下のお傍で王女殿下をお守りする為に。ただその為だけに私は日々努力していた。……だがここで、最悪の事態に陥ったのだ。
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