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第一章・救国の王女

108.オレは彼女に恋願う。

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「うぇっ、ぁ………ッ」

 要らない袋に向けて何度も嘔吐を繰り返す。
 何だこれ。気持ち悪い、きもちわるい、キモチワルイ。
 自分が気持ち悪くて仕方ない。自分の醜悪な心が嫌で嫌で、胃が痛いくらいにすべてを吐き出していた。
 暗い暗い自室の中で、口元を汚し床に座り込む。もう吐き出すものは無いのに、それでもこの体は何かを吐き出そうと何度もえずく。

 ………この醜く最悪な心を、この最低な感情を吐き出そうとしているのだろう。

 そんな事が出来る訳も無いのに。それでもオレの体は、頭は……この心を受け入れられず拒否反応を起こす。
 受け入れられる筈もなかった。こんな心、どう受け入れろと言うのだ。

「──オレの、せいなのに………どうしてオレは…」

 散々吐くよりも前からずっと、激しく鼓動している心臓を服越しに強く握る。
 ドクン、ドクン、と高鳴る心臓。この脳裏には絶える事無く一人の顔が映り続けていた。
 その事があまりにも嫌で、辛くて、受け入れられなくて、こうして何度も吐いている。
 この感情を受け入れてしまえば、オレはもう後戻りが出来なくなる。オレはどうしようもない所まで堕ちてしまう。オレは、オレが赦せなくなる。

『──任せて。貴方の帰る家は、私が絶対に守ってみせるから』

 彼女は堂々とした態度でそう言っていた。

『──約束したでしょ。貴方の帰る家は守ってみせるって』

 彼女は眩しい笑顔でそう言っていた。
 オレの所為だった。オレがアミレスに協力を求めたから、オレがアミレスに頼んでしまったから、オレがアミレスにそんな言葉を言わせてしまったから。
 だからアミレスは無茶をした。死ぬ事を何よりも恐れる筈の彼女は、死の危険が隣にあるような場所に一人で行った。
 死ぬかもしれないのに、彼女はオレとの約束を守る為に無茶をした。危険な真似をした。
 オレの所為だ。オレの所為でアミレスは命を懸けるような事をした。
 死ぬ事が怖いと泣くアミレスに命を懸けるような真似をさせたのは、他でもないオレだったんだ。全部、全部オレの所為なんだ。
 オレは許されざる事をした。友人に……何よりも大事な彼女に、彼女が最も恐れる事を強要した。これは何事にも代えられない大罪だ。
 ………それ、なのに。

「…っどうして、オレは………っ! こんなにも、嬉しいだなんて……!!」

 ──嬉しい。彼女がオレとのただの口約束を守った事が。
 ──嬉しい。彼女がそこまでする程、オレが彼女にとって特別な存在になれていた事が。
 ──嬉しい。彼女に名前を呼んで貰える事が。
 ──嬉しい。彼女の笑顔がオレに向けられる事が。
 ──嬉しい。彼女と日々を共有出来る事が。
 ──嬉しい。嬉しい。嬉しい。嬉しい。嬉しい。嬉しい。

 …………あぁ、なんて、最低な人間なんだ。
 彼女が最も嫌う事を強要し、危険に晒したのはオレなのに。それなのにオレは……心の奥底でこんなにも喜んでいた。抱いてはいけないものを抱いていた。
 咲かせてはならない感情つぼみに、馬鹿みたいに醜悪な喜びみずを与えていた。
 そんな自分が受け入れられず、体中の水が枯れて無くなろうがお構い無しに吐いて吐いて吐いた。目から溢れる涙も止めないし拭わない。
 寧ろ、体中から水が無くなってしまえば…この花とて咲かない筈。このまま枯れてしまえばいい。枯れなくてはならないんだ。
 こんなオレにアミレスの為に命を懸ける資格があるのか。でも、そうでもしなければオレは贖う事が出来ない。
 命も未来も何もかも要らない。いくらでも捨てられる。
 でも、これでもまだ足りない。彼女の恐怖や苦しみには、オレ一人の命など到底及ばない。オレが犯した罪は雪がれない。
 彼女への贖罪など叶わない。じゃあ、どうすればいいんだ? どうすればオレは罪を償う事が出来るんだ?

「やっほぅマクベスタ~! お見舞いに来たゾっ☆」

 暗い部屋で四つん這いになり嘔吐を繰り返すオレの側に、突然シュヴァルツが現れた。しゃがみこんで頬杖をついていて、相変わらず掴み所の無い笑顔をしている。
 音も気配も無く突如現れたシュヴァルツに唖然となっていると、シュヴァルツが「派手にやってるねぇ~」と吐瀉物塗れの袋の中を覗き込みながら呟いた。
 慌ててその袋の口を締め、オレ自身も口元を押さえる。そしてシュヴァルツに聞いた。

「………何しに来たんだ」
「だからお見舞いだよぉ? おねぇちゃんがすっごく心配してたから、ぼくが代理で!」
「心配…オレに、あいつに心配して貰う資格なんて……」
「うっわ何この人今ちょーセンチメンタルじゃんメンドクセェー」

 笑顔のシュヴァルツから容赦なく放たれる言葉達。だが痛いぐらい刺さるそれに反論する気力も無い。
 力無く項垂れるオレの頭に手刀を落とし、シュヴァルツは呆れたようにこぼす。

「何でそんなに吐いてるのか知らないけどさぁ、心と頭が乖離し続けてると人間すーぐ壊れるモンだよ? だからさっさと受け入れるか捨てるかした方がいいよ、それ」
「……受け入れられる訳が、ないだろ」
「でも捨てられそうにもないんでしょ?」

 まるでオレの状況を全て見抜いた上での発言のようだった。
 捨てたいのに捨てられない。受け入れられないのに受け入れるしか道がない。確かにそうだった。
 分かってる。本当は分かってるんだ。吐く程受け入れられないこの感情も、咲かせまいとしているこの花も、もう受け入れるしかないって事は。

「じゃあ、どうしたらいいんだ? オレは、こんなオレが赦せない。最低で醜悪なオレが赦せないんだ」

 嬉しくて嬉しくて仕方なかった。初めてアミレスに会った時よりもずっと嬉しくて、胸が締め付けられるようで、うるさいぐらい鼓動していた。
 相手を危険に晒して泣かせてしまったのに。その相手への想いでオレの心はかつてない程に高鳴っていた。
 そんなオレの心が赦せない。赦せないのにも関わらず、これを受け入れるしかないなんて。

「赦せないからこそ受け入れるしかないんだろ? それを罪だと思うのなら全部受け入れて償うべきだよ。罪人が罪を放棄して逃げ出す事は最も許されざる罪だ。だからさっさとその罪だと認識する心を受け入れて命の限り償えよ」

 罪を放棄して逃げ出す事が、最も許されざる罪──確かにそうだ、その通りだ。

「と、偉そうに講釈を垂れたものの。ぼくはお前の事情とか感情とか知らないし。ただそのままセンチメンタル極められるとおねぇちゃんの貴重な時間が無駄になるってゆーか? 身内に甘いおねぇちゃんの事だからメンドーな男のメンドーなセンチメンタルにもとことん付き合っちゃいそうでさぁ、それが個人的に気に食わないから? こうして柄にも無く背中押してやったりしてるんだよねぇ」

 だからさっさと吹っ切れてくんない? とシュヴァルツは作り物のように笑う。
 柄にも無く、か………確かに、シュヴァルツは自分にとって利のある事しかしなさそうだ。
 別にずるいとかそう言う事では無い。ただ、必要な事だけに力を注げる効率的な生き方が出来る人なんだなと、少し羨ましくなる。
 オレはどう足掻いても、そんな賢い生き方は出来ないから。

「……この心を受け入れたとして、オレは、これから先もアミレスの良き友人でいられるのだろうか。もしこの最悪な欲望なんかに負けた日には、もう………」
「重く捉えすぎでしょ……今そんなもしもやたらればの話しても意味無いじゃん。それにおねぇちゃんの良き友人でいられるかどうかもお前の努力次第でしょ? 何で全部決めつけようとするんだよ」

 ケッ、と苛立ちを露わにするシュヴァルツ。だがオレは、オレの努力次第………と彼の言葉を復唱するだけだった。

「だってそうじゃん。お前が欲望に負けて何かやらかしたとして、それはお前の理性が雑魚だったってだけの話。良き友人でいられるかどうかも同じだろ。お前が良き友人であろうと努力すればそのままでいられるし、努力を怠ればマクベスタが思うような最低な人間に成り下がる。つまりぜーんぶお前の努力次第って事」

 シュヴァルツの言葉はやけに簡単に、胸の奥までストンと落ちて来た。
 オレの努力次第で、オレはこの先もアミレスの良き友人でいられる。この醜悪な欲望を抑え込む事も出来る……どうしてその事に気づけなかったのか。
 この心を受け入れてしまえば明かさなければならないと勝手に思い込んでいた。彼女に打ち明けねばならないと。
 そんな義務も必要も何処にも無い。例えこれを受け入れてしまっても、オレが永遠に、死ぬまで心の奥底で封じていればいいんだ。
 そうすればきっと、彼女に汚い欲をぶつける事も愚かな想いをぶつける事も無い。
 そうだ、これが一番いい。赦されざる事をした最低最悪なオレに相応しい生き方だ。

「──永遠に告げる事を許されない想いを抱き続けるなんて、最悪な罰じゃないか」

 口元に自然に浮かぶ嘲笑。この心を受け入れたとして……彼女の側にいたならば、きっとこの想いは日々膨れ上がる事だろう。
 だが、オレにはそれを言葉にする事が許されない。オレに許されるのは、彼女に命を懸けるような真似をさせてしまった、彼女への贖罪だけだ。
 一生を賭けて、この身命を懸けて、贖い続けよう。
 それだけが──最愛の人を泣かせてしまったオレに、許される唯一の生き方だろう。

「…………あぁ…受け入れた途端、こんなにも体が軽くなるなんてな」

 ずっと拒否していたモノを、ずっと許せなかったモノを、ずっと気持ち悪いと忌避していたモノをいざ受け入れてしまうと。
 信じられないぐらいしっくり来てしまった。まるでオレの心が元々こうであったように。
 頭も体もこの心を吐き出そうとする事を止めた為か、先程までとは打って変わってとても軽くなっていた。だがしかし、対照的に心はかつてない程に重くなっていた。
 世界が変わるようだった。ずっとずっと彼女の事を考えてしまう。こんな状況でも、オレは彼女への想いを募らせていた。

「どう? 人が人にかける最高の呪いに侵された気分は」
「………勿論最悪だ。この呪いを解く事も出来ないまま一生を過ごすのかと考えると…何と素晴らしい罰なのかと思うよ」
「あは、解けない呪いなんて大変そー」
「大変でも何でも……彼女に少しでも贖う事が出来るのなら、オレは手段を選ばない。例えそれでオレの心が壊れようと関係ない」
「おおー! すごい、覚悟決まってるね! いやぁ、背中押しに来てやった甲斐があった!」

 シュヴァルツがパチパチパチと大きく拍手する。暫く続いていた拍手がピタリと止むと、こちらを見るシュヴァルツが愉しげに、鋭く笑っていた。

「これからもおねぇちゃんの為に──精一杯その命を尽くしてね、マクベスタ」
「言われなくても、元よりそのつもりだ。オレの身命も未来も、最早オレのものでは無い。オレはアミレスの未来の為に全てを尽くす。それが、オレの贖罪だ」

 汚れていた口元を拭い、足に力を入れて立ち上がる。そして目を丸くするシュヴァルツに向け、覚悟のままにオレは宣言した。
 満足気に笑うシュヴァルツは軽々立ち上がり、

「応援してるよぅ、それじゃあぼくはこの辺りで! ばいばーい」

 と手を振りながら扉の方へと歩いていった。その不思議な背中を見つめていると。

「……最高に重い純愛だなぁ…」

 何と言っているかは聞こえなかったが、シュヴァルツの横顔が歪に笑みを作り上げているように見えた。
 しかしこちらの視線に気づいたシュヴァルツはいつもの笑顔を作り部屋から出る。………まさかオレより幼いシュヴァルツに背中を押されるなんてな。今更だが恥ずかしい。
 ふと壁にある鏡に目が留まる。我ながら酷い顔をしているものだ。

「うん、とりあえず顔を洗おう。汚れたし服も着替えるか…」

 こんな顔でアミレスの元に戻ってみろ、また心配をかけてしまう。オレのような罪人に彼女の心配など、あまりにも恐れ多い事だ。
 ……とは言いつつも、いざ心配されたらされたで喜ぶオレもいる事だろう。

「本当に救いようが無いな、オレと言う男は」

 吐き捨てるように呟きつつ雷の魔力を少し放つ。それは小さな落雷を伴い吐瀉物塗れの袋へと落ちる。
 ドンッ、と師匠が壁を殴った時と同じぐらいの音を立てて袋は雷に貫かれた。そして瞬く間に焦げて灰となる。
 当然だが床が少し汚れたし焦げたし壊れてしまった。だがまぁ、いいかこれぐらい。
 昔から部屋でよく素振りをしてた事もあり、オレの部屋にはいつでも顔や傷口を洗う為の蛇口がある。良かった、昔から部屋で素振りをしていて。
 そこで顔を洗い、服を脱いで着替える。クローゼットの中に一年前によく着ていた服があるのでそれを着た。
 上まできちんと釦を留め、ぐちゃぐちゃになっていた髪を適当にだが整える。これでひとまずは大丈夫か…。

「……とりあえずアミレスの元に戻り、心配をかけた事を謝ろう。これ以上心配かけないように何も無かったように振舞って………」

 ぶつぶつと呟きながら部屋を出る。例え内容が何であれ、アミレスの事を考えているととても心が明るくなる。

「ああそうだ、師匠とシルフに更なる特訓を懇願しよう。父上にも言わないと……後少しだけではなくこれから先もずっと帝国に留まりたいと」

 アミレスが何度も言っていた。オレには才能があると。いつかあの氷結の貴公子──フリードル殿下を超えるぐらい強くなれると。
 正直、本当にそうなればいいなぐらいにしか思っていなかったのだが………今となっては超えなくてはならなくなった。
 絶対に彼を超える。フリードル殿下を超え、彼からアミレスを守らなくては。
 その為にも強くなる必要がある。前々から師匠に言われていた魔法と剣の兼用に挑戦しよう。だからシルフに魔法を教えて貰えないかと頼み込もう。
 別にオセロマイトが嫌いな訳では無い。寧ろ祖国は愛している。
 だが、彼女の為に一生を懸けると決めた以上ここにいては意味が無い。だからこそ帝国にい続ける事を許してもらわなくては。
 問題は帝国側だ。今のオレは滞在時期を定められた親善の使節。どうにかしてこれから先も帝国に滞在出来るようにしないとな。

「アミレス、話があるんだが──」

 パーティー会場の扉を開けて、オレは彼女の元へ向かった。
 突然の事にかなり心配してくれていたらしいアミレスに心配をかけて済まないと謝り、オレは思う。
 ………あぁ、本当に。好きだ。お前の全てが好きだ。愛しいお前の為ならば、オレはいくらでも──この身命を懸けられる。
 お前の為ならば、何処までも堕ちよう。それがきっと、オレにとっての幸せだから。

 もしも、願いが叶うなら……お前を想う事だけは──どうか、赦して欲しい。
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