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第一章・救国の王女

73.ある側近の欺瞞

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 ──どうして、彼女はあのような顔をするのでしょうか。
 私が悪いのですか? 陛下の言う通りにしてきたからですか? フリードル殿下を諌めなかったからでしょうか?

 ──どうして、少女にあのような言葉を口にさせたのか。
 私が何もしてこなかったから? 私がほんの少しの力添えしかしてこなかったから? もっと、歩み寄っておかなかったから?

 ──どうして、私は………こんなにも苦しんでいるんだ。
 分からない。解らない。わかりたくない…だってそれを理解してしまえば、きっと私はもう戻れなくなる。
 尊き陛下の忠実な駒として生きる事が、出来なくなる。
 私はただの人間に戻ってしまう。私は、私はまだ…ただの人間に戻る事は出来ないのです。
 それなのに。私の心は酷く、こんな最低な私を嘲笑うように痛む。
 まるでこれまでの人生の代償とばかりに…私の心は痛むのです。

「………あのような言葉、聞きたくなかった…」

 柄にも無く執務室で机に突っ伏し、私は心臓の辺りを強く握り声を絞り出した。
 いつの間にここまで情が湧いたというのか。いや…あるいは、最初かそれ以前からあった情が今になって騙し切れなくなってきたのか。
 きっかけは単純だった。偶然、王女殿下が城に来ていると聞いて案内して差し上げようと彼女の元に向かった時。彼女の細腕を捻りあげるように掴む文官の姿が目に入った。
 更にはその男に謂れのない罪で糾弾されているようで……気がつけば、私はそこに首を突っ込んでおりました。
 彼女が糾弾されるような行いをしていないのは紛れもない事実。彼女の性格からして、侍女に手を上げるなど有り得ない。そんな事、彼女を知る者なら誰でもわかる事です。
 しかし誰も彼もが王女殿下の事を下らない噂と言う前提フィルターを通して判断している為か、些細な行動でさえも疑われる要素となってしまうらしい。

 なんとくだらない。なんと恥ずべき事か。
 何故私はこれまで彼女に関する噂について何も対処をして来なかったのでしょうか。その所為で彼女が苦労してしまっていると言うのに。
 何もするなと言う陛下からのご命令だったからと言えど、どうして……いや、どうすれば良かったんだ。
 陛下を変える事など私には出来ない。それはもう、十二年前には分かっていた事だ。
 陛下を変える事が出来るのは…良くも悪くもたった一人──あの人だけなのだから。

『もし私に死刑が下された場合、私自らの手で自決出来るよう便宜を図ってください』

 あの人の忘れ形見。まさに生き写し。
 成長を重ねるごとにどんどんあの人に似てゆく少女が……あの人と同じような事を宣った。

『──私はね、どうせ死ぬなら自分で命を終わらせたいわ。だってこれは私だけの物語だもの……私の物語を終わらせる事が出来るのは、私だけだと思うの』

 柔らかな薄紅色の長髪を揺らし、宝石のような紫紺の瞳を細めてあの人は笑っていた。その笑顔はまるで太陽のように暖かく、花々のように美しくて、私はそれに目と心を奪われていた。
 髪の色も瞳の色もフォーロイトの血筋の影響を濃く受けたものの、彼女の容姿はその全てがあの人譲りのもの。
 そんな彼女の口から自決という単語が出て来た時は……あの時よりもずっと、酷い胸の痛みに襲われた。
 ……全く。無責任な言い方だな。彼女にあのような言葉を言わせたのは他ならぬ私達だ。それなのに何を被害者面をしているのか。

「…ならば。どうすれば良かったと言うのですか。やれる限りの事はやって来たにも関わらず、それでも足りなかったのに?」

 布越しに自身の額に手を当てて考え込む。私は少し、過去を思い出していた。
 まず初めに…産まれたばかりの幼い彼女が、あの人を失った悲しみで我を忘れた陛下によって衝動的に殺されぬよう必死に庇った。あの人の忘れ形見だからと、私自身悲しみと悔しさから奥歯を噛み締めながら。
 その次は……あの手この手で陛下へと彼女には使い道があるから殺さないでおきましょう、と進言した。何かしらの利用価値を示さねば、彼女を生かす事が出来ないと判断したからだ。
 彼女の存在そのものを疎ましく思う陛下の目に彼女が留まらぬよう、あまり彼女の存在が世間に知られぬよう、彼女の行動をかなり制限した。
 それでも彼女が陛下との邂逅を避けられない六歳時の建国祭。その際に彼女が熱に魘され休んだ事は、正直に言って私としては都合のいい事だった。
 しかし問題が起きた…この日をきっかけに彼女は変わったのだ。
 今までとは違い、陛下とフリードル殿下に対して愛を求めなくなった。
 そして何よりの変化が──何も、視えなくなった。
 今までは当たり前に視えていた彼女の幼気な心が、何も視えなくなった。何を考えているのかも分からず、何を思っているのかも分からない。…そんな状況になってしまった。

 理由はさておき、私はこれを好機とした。
 幸いにも陛下より彼女に関する生殺以外の全権を預かっていたので、私は陛下の琴線に触れない程度に彼女の支援をしていた。
 剣が学びたいと言われた時も魔法を並びたいと言われた時も、彼女が己を守る手段を得られるのならと、私はその場で二つ返事したかった。しかしそれは出来なかった。
 立場上、陛下に掛け合ってみるとでも言わなければならなかった。そうでなければ私の正体を疑われる。私という存在を疑われる。
 なればこそ、私は彼女の前では常に『皇帝の側近のケイリオル』で在り続けていた………いや、今の私に、それ以外の生き方など出来やしない。
 時が許す限り彼女の味方でありたかった。陛下に逆らう事など出来ぬ私に可能なのは、来たる終わりの時まで彼女の敵にならないように振る舞う事。
 ただ、それだけだった。

「──卿。…ル卿。ケイリオル卿、聞こえてますか?」
「っ!! あぁ、貴女でしたか……申し訳ございません。少々考え事をしていて」

 勢い良く顔を上げた先には、彼女の専属侍女たるハイラが訝しげに眉を顰めて立っていた。いくら考え事をしていたとはいえ、私に気取られずにここまで侵入出来るのは中々……やはり侮れない…。
 そんな彼女の手には幾枚もの紙が握られていて、それを私の前に置いて彼女は言った。

「こちらの申請書を受理しては頂けませんか」
「これは…爵位の簒奪許可? 何故このようなものを?」

 渡された申請書に目を通し、私は自身の目を疑った。
 名のある名家に産まれながらもその名を名乗る事を酷く嫌った彼女より、爵位を簒奪するなどと言う言葉が出てくる事に驚いた。
 私にそう問われたハイラは少し間を空けて答えた。

「………庶子である私が当主になるには簒奪するしか方法が無いので」
「何故、当主になろうと? 貴女はあの家を嫌っていたのでは」
「…私は姫様の為に生き、姫様の為に死ぬつもりです。姫様がこの先醜悪な権謀術数に巻き込まれ苦痛を感じる可能性が生じた以上、何もしない訳にはいかなくなったからですわ」

 …あぁ。何と羨ましい事か。何と眩い事か。
 彼女の為に全てを賭す覚悟があり、それを実現する行動力がある。
 陛下の側近と彼女の味方…その狭間でどっちつかずに宙ぶらりんな私には無い、覚悟だ。
 ただそれが羨ましくて、妬ましくて……気がつけば私は少し意地の悪い事を口にしていた。

「歴史ある家門と一族全てを犠牲にしてでも、王女殿下をお守りしたいと?」

 しかし彼女は、間髪入れずにそれに答えた。

「勿論。歴史も血縁もどうでもいい……姫様の幸せをお守り出来るのであれば、そのようなもの、いつ捨ててしまっても構いません」

 そもそも私には、もう要らないものなので。と彼女は凛々しい顔付きで語った。
 不覚にも、格好いい。と思ってしまった。それと同時に自分の愚かさと女々しさに嘲笑が漏れてしまった。

「ははっ。ランディグランジュ家の爵位簒奪でも当時は大騒ぎだったと言うのに、また騒ぎが起きてしまうのですね」
「…では、簒奪しても宜しいのですね?」
「くふっ…」

 大真面目な顔で爵位を簒奪しても良いかと聞いてくる侍女に、誰が笑わずにいられるだろうか。少なくとも私は無理だった。
 突然笑った為かハイラはこちらをキッと睨んで来た。それを受けてごほん、とわざとらしく咳払いをし、私は彼女に告げた。

「えぇ、構いませんよ。そしてどうか……王女殿下を守って下さい。権謀術数だけでなく、外敵からも権力からも。どうか、どうか──我等が皇帝陛下より、守り抜いて下さいませ」

 ゆっくりと、深く、深く、祈るように頭を下げる。
 私には不可能ですが……きっと貴女達ならば可能でしょう。何故なら私には陛下の気を逸らす事しか出来ないから。
 陛下を変える事も、止める事も、彼女を守る事も、救う事も、私には絶対に不可能だ。
 だからどうか貴女達が。私よりもずっと自由の効く立場にある貴女達が、私達の可愛らしいお姫様を守って下さい。
 無責任で自分勝手だとは分かっております。重々承知の上です。
 ですがどうか…この願いを叶えて下さい。

「………元よりそのつもりです。姫様をお守りし姫様の幸福を支える為に、私は今もこうして生きているのですから」
(──例え相手が皇帝陛下だろうが皇太子殿下だろうが関係ありません。姫様の為ならば、私は何だってしてみせる)

 ハイラが放った言葉は私を安心させた。
 ハイラが思った決意は私に勇気を与えた。
 本当に……王女殿下の傍に彼女がいて良かった。あの日彼女が皇宮の侍女となってくれて良かった。何があっても王女殿下を裏切らない強い味方がいて良かった。
 本当に、良かった。

「そうですか、それは良かった。簒奪に関しては私の方で責任をもって処理しますので、お好きなようになさって下さい」
「有難うございます。では私はこの辺りで」

 簒奪許可申請書に印を捺し手渡す。それを受け取った彼女は慎ましく一礼し、部屋を出ようと扉に手をかけた所で立ち止まる。
 少しこちらを振り返って、彼女は最後に言った。

「……体調が芳しくないようであれば素直に休むべきかと。卿の場合、体調と言うより精神的な負荷に見受けられますが…忠告はしましたからね」

 それを聞いて私はあんぐりとした。
 まさか見抜かれるなんて。王女殿下の自決と言う言葉を皮切りに、今まで押し込めて無理やり塗り替えて来た様々な感情が押し寄せて…正直なところ、自分でも自分がとても弱っている自覚はあったのですよ。
 こんなにも女々しく感傷的な事ばかり考えている時点で黒ですね。
 これまでずっと、飄々としていて掴み所の無いミステリアスな探偵気取りの謎のお兄さんを必死に演じていたのですが…最早それも無理そうですねぇ。
 推理小説が好きなのは事実ですし幼い頃探偵に憧れていたのも事実ですが、我ながら無茶な設定をしたものですね……いくら王女殿下への様々な感情を抑え込み消し去ろうとしていたとは言え。
 無茶な処置だったからこそ、たったの十年程で化けの皮が剥がれてしまったのでしょう。我ながらなんと不甲斐ない。
 まさかここまで私の精神が脆弱だったとは…私もそれなりに氷のように冷徹な精神を持っていると思っていたのですが。思い上がりもいい所。

 いやぁ、恥ずかしいですね。その時々で本気で不思議な人物を演じて来ましたけども…思い返すと本当に恥ずかしい。何がしたかったんでしょう。
 自分すらも騙す演技力とは、私、役者に向いているのかもしれませんね。
 いくら王女殿下を守る為とはいえ……馬鹿だなぁ、私。昔何度も兄上に『お前は本当に愚かだ』と言われていたのに…まさか忘れてしまうとは。

「──……彼女の言葉に従い、休んだ方が良さそうですね」

 あまりにも本調子では無い我が身から、私はついそんな言葉を漏らしてしまった。
 仕事など後で纏めてやればいい。だから私は隣の小部屋で一休みする事にした。
 備え付けられている小さな寝台ベッドに倒れ込み瞼を閉じる。
 そこに映るは遠目で見たあの少女の笑顔。私達の前では絶対にしないような、純粋で輝かしい笑顔。
 ようやく思い出した。思い出す事が出来た──私は、あの笑顔を守りたかったのです。
 それがあの人との約束だから。それが私に出来る何よりの恩返しだから。それが私の、最後の望みだから。

『産まれてくるこの子にもフリードルと同じくらい沢山の愛情を与えてあげたいわ。そうして、愛する旦那様と愛する子供達に囲まれて、私は毎日幸せに笑って過ごしたいの』

 無理やり閉じていた記憶の蓋が開かれ、次々に目を逸らしていた記憶が思い出される。
 その光景の中で、かつてあの人がそう願ったように。
 フリードル殿下も王女殿下も…もっと愛を与えられて然るべきだったのだ。
 だからね、私は……可能な限り御二方に愛を与えたい。幸せを知ってもらいたいのです。
 このような所で終わって欲しくない。もっと、もっと沢山生きて欲しい。
 だから、だから──。

「……どうか、ご自身の価値を我々に証明して下さい」

 ──例え皇帝陛下であろうとも、容易に貴女の首を落とせないように。
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