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第一章・救国の王女
72,5.ある者達の思惑
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──アミレス達がオセロマイトへと行く道を進む頃。
フォーロイト帝国が皇帝エリドル・ヘル・フォーロイトは、諜報部部署長、偽名ヌルと向かい合って神妙な面持ちを作っていた。
その手にはとある重大事項の報告書。その内容は、今後の西側諸国の運命をも左右する可能性があった。
「ついに国教会が動き出したか」
「──早ければ数日以内にも、国教会は加護属性持ち…被護者の保護を終えそうです」
頬杖をつき、報告書に視線を落としながらエリドル・ヘル・フォーロイトは呟いた。
それに合わせ報告をしたのはシルバーグレーの老紳士である。しかし、これはヌルの本当の顔ではない。
フォーロイト帝国が諜報部に所属する者は等しく変装術に長けている。何故ならば、帝国内だけでなく世界各地の様々な組織で潜入捜査を行う彼等彼女等にとって、変装術はなくてはならない必須技術だからだ。
その為彼等彼女等は普段より素顔を晒さず偽の顔と偽の名で生きているのだ。
その中でも、そのような諜報部を取り纏める部署長ともなると…その素顔は誰も知らない。知る者がいたとすれば、エリドルとその側近ケイリオルぐらいだろう。
「まさか二十年前の神託の通りになってしまうとはな。加護属性…よもやハミルディーヒに現れるなぞ…」
エリドルは眉間に皺を寄せた。
現時点のフォーロイト帝国の軍事力はハミルディーヒ王国に勝っているものの、加護属性を持つ者の存在一つでその天秤は一気に傾く。
「しかし国教会がハミルディーヒ王家より先に被護者を保護するようですから、ハミルディーヒが極端に強くなる事態は訪れぬでしょう」
「そうさな。だが…」
ヌルの言葉にエリドルは同意した。しかしそれと同時に何かが気に食わないと言いたげな表情となる。
「国教会の戦力の大幅な強化は確かに警戒すべき事ですね……」
エリドルが何を言わんとしているのか、彼が即位した時より諜報員として仕えてきたヌルには理解出来た。
大陸西側で最も信仰される天空教。それを布教する国教会がそのトップとして仰ぐ、人類最強と誉れ高い男…不老不死の聖人ミカリア・ディア・ラ・セイレーン。
かの男は人の身でありながら成長と退化を捨て去り、数十年もの月日、聖人として国教会のトップに君臨し続けていた。
その強さは誰もが知るところとなる。
何せ……三十年程前に始まり七年続いたハミルディーヒ王国とフォーロイト帝国の戦争の時も、国教会とリンデア教との宗教大戦が勃発した時も、不定期に起こる魔物の行進の時も、ミカリアはたった一人で国教会を守り続けた。
万の軍勢、個の怪物、郡の魔物、それら全てを一人で相手取り、国教会を──神殿都市とその歴史を守り抜いた最強の男。
神の代理人と呼ばれるに相応しい功績を残して来た、真性の化け物なのだ。
そのような男がたった一人いるだけで、国教会の戦力としてはフォーロイト帝国やハミルディーヒ王国に匹敵する程。
だからこそエリドル達は危惧しているのだ。ただでさえ目を逸らしたくなるような化け物がいる国教会に、更に常識の域外の力、加護属性を持つ人間が属する事となるのだから。
ハミルディーヒに属されても困るが、国教会に属されるのも困る。かと言って他の国々に属されるのも…。
と言った具合で、加護属性持ち──被護者の行方は難しい問題なのだ。叶うならば我が国に、とエリドルも考えなかった訳ではないが……国教会が動いた以上それは最早叶わぬ事。
強硬手段に出る事も可能だが、リスクが多すぎる。今はまだその時では無いとエリドルは判断した。
「被護者を殺してしまえたのなら、こうして気を揉む必要も無いのだろうに」
「御命とあらば、神殿都市に潜入している者に被護者を処理させますが」
「…いや、不要だ。暫し神殿都市の動向調査と被護者の監視を続けさせよ」
「ハッ、御意のままに」
胸元に手を当て、ヌルは深く頭を垂れた。そしてエリドルは今一度報告書に視線を落とした。そして思案する。
「天の加護属性、神々の加護か…被護者は自身にかけられた加護の名称までも分かるものなのか」
「文献にはどうとも……ただ、この加護に関しては被護者本人が幼少期より周囲に吹聴していたとかで。加護属性の有無を確かめるには教会で大司教による儀式を受ける必要があり、例の少女はその儀式を受けた結果、加護属性が認められたとの事です」
ヌルは己が調べ上げた全てをエリドルに報告した。
そう。加護属性とは大陸共通で、教会での神聖な儀式を受けてようやくその有無を認められるもの。
加護属性を持つとなればそれだけで国を作る事さえ出来る。それ程までに重要な価値を秘めた加護属性を我が子は持っていないのかと、貴族が意味もなく儀式を行わせ、その結果無駄に終わる。
その儀式が意味を成した事など、もう百年近く無かったのだ。
そもそも金も手間も時間もかかるこの儀式、そう易々と行う訳にはいかないものなのだ。各教会も大司教もそこまで暇では無い。
しかしそれでも、ここ数十年は儀式を行う必要があった。それは何故か──それは二十年前に聖人へと下された神託が原因であった。
『近いうちに我々の愛する子供が現れるだろう………えーっと、人間風に言うならー、なんだっけ? あ、そうそう! 加護属性! あれ持つ子供が現れるだろうから、その時はヨロシクゥ~!!』
あまりにも威厳を感じられなかった、神からの言葉。それを聞いたミカリアは卒倒しかけたとか。
そしてミカリアは細かい内容は秘匿したものの、周辺諸国の統治者にこの神託について話した。
その事を把握していた各国の王はそれぞれの領地で行われる全ての儀式に目を光らせていた。しかしあまりこれと言った収穫は無かったのだ。
だがしかし。ほんの数週間前……ついにその存在は現れた。
件の天の加護属性──及び神々の加護を持つ少女は実際に教会での儀式を受けその存在を認められた。
それを聞いたハミルディーヒ王家が動くよりも早く国教会が動いた為、その少女は国教会に属する事になったのだ。まぁ、西側諸国の情勢を鑑みるとこれが最善策だと、表向きには誰もが納得出来る事だった。
勿論…手に入れられたかもしれない加護属性をみすみす横取りされてしまったハミルディーヒ王国からすれば、あまり喜ばしい事では無いやもしれないが………。
「ハミルディーヒの方はどうだ」
「つい先日まで辺境でコソコソと戦力拡大をしていましたが、今は王都で少々揉めているようです。何でも王太子が事故で昏睡状態となり、後継者問題が発生したとか。その事もあって加護属性の件は出遅れていたようです」
予想以上につまらない問題に足を取られているハミルディーヒ王国に、エリドルは思わず苦虫を噛み潰したような表情となった。
「相変わらずと杜撰だな、あの愚王は。後何年…ハミルディーヒが仕掛けて来おるまで待たねばならぬのか」
「……戦争を起こすにしても後継者問題が落ち着いてからでしょうから、後継者教育等も含め短くても二年程はかかりそうですね」
「二年か…長いな。本当に何から何まで愚鈍な奴だ」
口の端を苛立ちに歪ませ、氷の怪物…無情の皇帝は吐き捨てるように言った。
彼の発言はまるで、戦争をしたがっているような……聞いた者の肝を凍てつかせるようなものだった。
「………では、私めはここで失礼致します。御用の際はお呼び下さいまし」
一通りの報告を終えたヌルは音も無く姿を消した。
執務室に一人となったエリドルは報告書を粉々に破り捨てた。もう既に全て目を通し記憶した為、彼にとって紙に情報を残す必要は無いのである。
そしてエリドルは喉が乾いたのかティーカップを手に取り、何も注がれていない事に気づく。
「…侍女を呼ぶのも面倒だ」
そう呟くとエリドルは、執務机の一番下の引き出しから手のひら程の大きさの瓶を取り出した。その中には淡く光を纏う綺麗な液体が並々と入っている。
それをティーカップに注ぎ、更には氷の魔力で作り出した小さな氷をカップに入れた。普段ならまずしないような非常識な飲み方である。
(──加護属性、か……)
冷気が漏れ出るほど冷やされた液体で喉を潤す。その液体は瞬く間にエリドルの体中へと行き渡り、彼の疲労が溜まった全身をたちどころに癒してせしめた。
何を隠そうこの液体、万能薬と同等の効能がある聖水と呼ばれるものなのだ。
エリドルは皇帝と言う立場上、常にあらゆる危険を警戒する必要がある。
その為、いざと言う時の備えとして聖水を常備している──…と言う訳ではなく、ただ、これを飲めば徹夜も過剰労働も全く問題無いと言う理由で、一本で帝都に一軒家を建てられる程の私財を使い聖水を購入している。
現在、この聖水の劣化版を大量生産し労働者達に与えれば無限に働けて良いではないか。と言う非人道的計画を推し進めようとして、人の心がわかるケイリオルが必死に止めている所なのである。
「………いつ飲んでも不味くも美味くもないな、聖水は」
揺らぐ水面を見つめながらエリドルはティーカップを小さく動かしていた。カラン、カラン、と氷が動きぶつかり合う音が耳に届く。
大変貴重な聖水を飲み慣れているからこそ出来るその発言を、誰も聞いていなくて本当に良かったと思う。
その発言がどれ程反感を買うかエリドルは全く考えていないのだから。…もっとも、反感を抱いた所でそれをエリドルにぶつけられる猛者がいるのならば、逆に見てみたい気もするが。
こうして夜は更けてゆく。様々な場所、様々な人々の思惑が複雑に…見えないどこかで絡まり始める。
♢♢
「──そろそろか」
後継者問題の中心、ハミルディーヒ王国が王城の一室。
鮮やかな赤髪を持つ少年は遠くの空を見上げ、覚悟を決めていた。
そんな少年の後ろに立つ長身の男が、不安げな面持ちで最後の確認を取る。
「──本当に宜しいのですね、カイル様」
カイルと呼ばれた少年は振り向いて、ニヒルな笑みを浮かべた。
「あぁ。俺は──継承権を棄てる。加護属性所持者を囲えなかった時点でこの国が帝国に勝つ可能性はゼロに近いしな…俺は負け戦になんて送られたくないからな」
彼の言葉に長身の男はやるせない気持ちとなる。しかしそんな気持ちを振り払うかのように顔を左右に振り、長身の男はカイルの前で跪いた。
「…貴方様がそう決めたのであれば、僕はそれに従うのみです」
カイルの覚悟が決まっていたように、男の覚悟もまた決まっていたのだ。
それを聞いたカイルは男の目の前でしゃがみ込み、男の肩を叩きながら「顔上げろって」と言い、歯を見せて笑った。
「そんじゃ……これからも二人で頑張っていこうな、コーラル」
「…! はい、何処までもお供致しますカイル様!」
──ハミルディーヒ王国第四王子、カイル・ディ・ハミル。自ら王位継承権を放棄し、後継者争いよりいち早く離脱。
この報せがハミルディーヒ王家に更なる混乱を齎したのは、言うまでもない。
フォーロイト帝国が皇帝エリドル・ヘル・フォーロイトは、諜報部部署長、偽名ヌルと向かい合って神妙な面持ちを作っていた。
その手にはとある重大事項の報告書。その内容は、今後の西側諸国の運命をも左右する可能性があった。
「ついに国教会が動き出したか」
「──早ければ数日以内にも、国教会は加護属性持ち…被護者の保護を終えそうです」
頬杖をつき、報告書に視線を落としながらエリドル・ヘル・フォーロイトは呟いた。
それに合わせ報告をしたのはシルバーグレーの老紳士である。しかし、これはヌルの本当の顔ではない。
フォーロイト帝国が諜報部に所属する者は等しく変装術に長けている。何故ならば、帝国内だけでなく世界各地の様々な組織で潜入捜査を行う彼等彼女等にとって、変装術はなくてはならない必須技術だからだ。
その為彼等彼女等は普段より素顔を晒さず偽の顔と偽の名で生きているのだ。
その中でも、そのような諜報部を取り纏める部署長ともなると…その素顔は誰も知らない。知る者がいたとすれば、エリドルとその側近ケイリオルぐらいだろう。
「まさか二十年前の神託の通りになってしまうとはな。加護属性…よもやハミルディーヒに現れるなぞ…」
エリドルは眉間に皺を寄せた。
現時点のフォーロイト帝国の軍事力はハミルディーヒ王国に勝っているものの、加護属性を持つ者の存在一つでその天秤は一気に傾く。
「しかし国教会がハミルディーヒ王家より先に被護者を保護するようですから、ハミルディーヒが極端に強くなる事態は訪れぬでしょう」
「そうさな。だが…」
ヌルの言葉にエリドルは同意した。しかしそれと同時に何かが気に食わないと言いたげな表情となる。
「国教会の戦力の大幅な強化は確かに警戒すべき事ですね……」
エリドルが何を言わんとしているのか、彼が即位した時より諜報員として仕えてきたヌルには理解出来た。
大陸西側で最も信仰される天空教。それを布教する国教会がそのトップとして仰ぐ、人類最強と誉れ高い男…不老不死の聖人ミカリア・ディア・ラ・セイレーン。
かの男は人の身でありながら成長と退化を捨て去り、数十年もの月日、聖人として国教会のトップに君臨し続けていた。
その強さは誰もが知るところとなる。
何せ……三十年程前に始まり七年続いたハミルディーヒ王国とフォーロイト帝国の戦争の時も、国教会とリンデア教との宗教大戦が勃発した時も、不定期に起こる魔物の行進の時も、ミカリアはたった一人で国教会を守り続けた。
万の軍勢、個の怪物、郡の魔物、それら全てを一人で相手取り、国教会を──神殿都市とその歴史を守り抜いた最強の男。
神の代理人と呼ばれるに相応しい功績を残して来た、真性の化け物なのだ。
そのような男がたった一人いるだけで、国教会の戦力としてはフォーロイト帝国やハミルディーヒ王国に匹敵する程。
だからこそエリドル達は危惧しているのだ。ただでさえ目を逸らしたくなるような化け物がいる国教会に、更に常識の域外の力、加護属性を持つ人間が属する事となるのだから。
ハミルディーヒに属されても困るが、国教会に属されるのも困る。かと言って他の国々に属されるのも…。
と言った具合で、加護属性持ち──被護者の行方は難しい問題なのだ。叶うならば我が国に、とエリドルも考えなかった訳ではないが……国教会が動いた以上それは最早叶わぬ事。
強硬手段に出る事も可能だが、リスクが多すぎる。今はまだその時では無いとエリドルは判断した。
「被護者を殺してしまえたのなら、こうして気を揉む必要も無いのだろうに」
「御命とあらば、神殿都市に潜入している者に被護者を処理させますが」
「…いや、不要だ。暫し神殿都市の動向調査と被護者の監視を続けさせよ」
「ハッ、御意のままに」
胸元に手を当て、ヌルは深く頭を垂れた。そしてエリドルは今一度報告書に視線を落とした。そして思案する。
「天の加護属性、神々の加護か…被護者は自身にかけられた加護の名称までも分かるものなのか」
「文献にはどうとも……ただ、この加護に関しては被護者本人が幼少期より周囲に吹聴していたとかで。加護属性の有無を確かめるには教会で大司教による儀式を受ける必要があり、例の少女はその儀式を受けた結果、加護属性が認められたとの事です」
ヌルは己が調べ上げた全てをエリドルに報告した。
そう。加護属性とは大陸共通で、教会での神聖な儀式を受けてようやくその有無を認められるもの。
加護属性を持つとなればそれだけで国を作る事さえ出来る。それ程までに重要な価値を秘めた加護属性を我が子は持っていないのかと、貴族が意味もなく儀式を行わせ、その結果無駄に終わる。
その儀式が意味を成した事など、もう百年近く無かったのだ。
そもそも金も手間も時間もかかるこの儀式、そう易々と行う訳にはいかないものなのだ。各教会も大司教もそこまで暇では無い。
しかしそれでも、ここ数十年は儀式を行う必要があった。それは何故か──それは二十年前に聖人へと下された神託が原因であった。
『近いうちに我々の愛する子供が現れるだろう………えーっと、人間風に言うならー、なんだっけ? あ、そうそう! 加護属性! あれ持つ子供が現れるだろうから、その時はヨロシクゥ~!!』
あまりにも威厳を感じられなかった、神からの言葉。それを聞いたミカリアは卒倒しかけたとか。
そしてミカリアは細かい内容は秘匿したものの、周辺諸国の統治者にこの神託について話した。
その事を把握していた各国の王はそれぞれの領地で行われる全ての儀式に目を光らせていた。しかしあまりこれと言った収穫は無かったのだ。
だがしかし。ほんの数週間前……ついにその存在は現れた。
件の天の加護属性──及び神々の加護を持つ少女は実際に教会での儀式を受けその存在を認められた。
それを聞いたハミルディーヒ王家が動くよりも早く国教会が動いた為、その少女は国教会に属する事になったのだ。まぁ、西側諸国の情勢を鑑みるとこれが最善策だと、表向きには誰もが納得出来る事だった。
勿論…手に入れられたかもしれない加護属性をみすみす横取りされてしまったハミルディーヒ王国からすれば、あまり喜ばしい事では無いやもしれないが………。
「ハミルディーヒの方はどうだ」
「つい先日まで辺境でコソコソと戦力拡大をしていましたが、今は王都で少々揉めているようです。何でも王太子が事故で昏睡状態となり、後継者問題が発生したとか。その事もあって加護属性の件は出遅れていたようです」
予想以上につまらない問題に足を取られているハミルディーヒ王国に、エリドルは思わず苦虫を噛み潰したような表情となった。
「相変わらずと杜撰だな、あの愚王は。後何年…ハミルディーヒが仕掛けて来おるまで待たねばならぬのか」
「……戦争を起こすにしても後継者問題が落ち着いてからでしょうから、後継者教育等も含め短くても二年程はかかりそうですね」
「二年か…長いな。本当に何から何まで愚鈍な奴だ」
口の端を苛立ちに歪ませ、氷の怪物…無情の皇帝は吐き捨てるように言った。
彼の発言はまるで、戦争をしたがっているような……聞いた者の肝を凍てつかせるようなものだった。
「………では、私めはここで失礼致します。御用の際はお呼び下さいまし」
一通りの報告を終えたヌルは音も無く姿を消した。
執務室に一人となったエリドルは報告書を粉々に破り捨てた。もう既に全て目を通し記憶した為、彼にとって紙に情報を残す必要は無いのである。
そしてエリドルは喉が乾いたのかティーカップを手に取り、何も注がれていない事に気づく。
「…侍女を呼ぶのも面倒だ」
そう呟くとエリドルは、執務机の一番下の引き出しから手のひら程の大きさの瓶を取り出した。その中には淡く光を纏う綺麗な液体が並々と入っている。
それをティーカップに注ぎ、更には氷の魔力で作り出した小さな氷をカップに入れた。普段ならまずしないような非常識な飲み方である。
(──加護属性、か……)
冷気が漏れ出るほど冷やされた液体で喉を潤す。その液体は瞬く間にエリドルの体中へと行き渡り、彼の疲労が溜まった全身をたちどころに癒してせしめた。
何を隠そうこの液体、万能薬と同等の効能がある聖水と呼ばれるものなのだ。
エリドルは皇帝と言う立場上、常にあらゆる危険を警戒する必要がある。
その為、いざと言う時の備えとして聖水を常備している──…と言う訳ではなく、ただ、これを飲めば徹夜も過剰労働も全く問題無いと言う理由で、一本で帝都に一軒家を建てられる程の私財を使い聖水を購入している。
現在、この聖水の劣化版を大量生産し労働者達に与えれば無限に働けて良いではないか。と言う非人道的計画を推し進めようとして、人の心がわかるケイリオルが必死に止めている所なのである。
「………いつ飲んでも不味くも美味くもないな、聖水は」
揺らぐ水面を見つめながらエリドルはティーカップを小さく動かしていた。カラン、カラン、と氷が動きぶつかり合う音が耳に届く。
大変貴重な聖水を飲み慣れているからこそ出来るその発言を、誰も聞いていなくて本当に良かったと思う。
その発言がどれ程反感を買うかエリドルは全く考えていないのだから。…もっとも、反感を抱いた所でそれをエリドルにぶつけられる猛者がいるのならば、逆に見てみたい気もするが。
こうして夜は更けてゆく。様々な場所、様々な人々の思惑が複雑に…見えないどこかで絡まり始める。
♢♢
「──そろそろか」
後継者問題の中心、ハミルディーヒ王国が王城の一室。
鮮やかな赤髪を持つ少年は遠くの空を見上げ、覚悟を決めていた。
そんな少年の後ろに立つ長身の男が、不安げな面持ちで最後の確認を取る。
「──本当に宜しいのですね、カイル様」
カイルと呼ばれた少年は振り向いて、ニヒルな笑みを浮かべた。
「あぁ。俺は──継承権を棄てる。加護属性所持者を囲えなかった時点でこの国が帝国に勝つ可能性はゼロに近いしな…俺は負け戦になんて送られたくないからな」
彼の言葉に長身の男はやるせない気持ちとなる。しかしそんな気持ちを振り払うかのように顔を左右に振り、長身の男はカイルの前で跪いた。
「…貴方様がそう決めたのであれば、僕はそれに従うのみです」
カイルの覚悟が決まっていたように、男の覚悟もまた決まっていたのだ。
それを聞いたカイルは男の目の前でしゃがみ込み、男の肩を叩きながら「顔上げろって」と言い、歯を見せて笑った。
「そんじゃ……これからも二人で頑張っていこうな、コーラル」
「…! はい、何処までもお供致しますカイル様!」
──ハミルディーヒ王国第四王子、カイル・ディ・ハミル。自ら王位継承権を放棄し、後継者争いよりいち早く離脱。
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