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序章

5.ボクは宝物を手に入れた。

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 ボクにも構ってもらえる上に、ついでに彼女の名前も聞けるというまさに一石二鳥の言葉。
 流石はボクだ、これは優雅に紅茶を決めてしまえるとも。……あれ、お湯多すぎた? 味薄いな…。

 下心満載で話しかけた事への罰が下ったのか、彼女は困ったような表情を作ったのだ。

「………全然分からない」

 それにボクは右手に持っていたティーカップを落としそうになり、慌ててキャッチする。
 しかし動揺は隠せない。だって、この様子は…。

「自分の名前が分からないって、もしかして記憶喪失? それって大変な事じゃあ…」

 そしてボクは理解する。続く奇行の数々…あれは彼女が記憶喪失だからこそ起こした事なのだと。
 さっきあの子が初めて見る景色のように辺りを眺めていたのは、記憶を失っているからなんだ……そんな、凄く大変な事じゃあないか。

「…どうしてそんなに冷静でいられるの?」

 毅然とした態度の彼女にどうしても違和感を覚えたボクは、気がつけばそんな事を聞いてしまっていた。
 しかし彼女はそれすらも冷静に答える。

「…何にも分からないから、今こうして、色々情報を集めているの。精霊さんはここがどこだか知っている?」

 嘘だろ? 自分の名前より先にここがどこだかを気にするなんて。…本当に変わってるなぁ、この子は。
 だからこそ、目が離せない。凄く興味が惹かれるんだ。
 それじゃあこの子の質問に答えてあげようか、と喋ろうとした瞬間。ボクは恐ろしい事に気づいてしまった。

 ──ボク、この国の名前、知らないんだけど。

 いつも人間界の適当な所に端末を送っているから、今日も特に何も考えず書類をパラパラ捲りながら『この辺でいいかー』って適当に送り込んだだけだ。
 それでふよふよと端末を動かしていたら君を見つけた訳でして。さてどうしようか、君のいる場所の名前が全く分からないな。

「えっとねぇ……ボクも人間の国にはそこまで詳しくなくて…ちょっと待ってね、今は調べてくるから」

 苦し紛れの言い訳を残して、ボクは勢いよく立ち上がり駆け出す。その際に色んなものに手やら足やらがぶつかってそこそこの音が生まれたのだが……多分、彼女には聞こえてないだろう。
 自室にある大きな本棚の中から、人間界の歴史の本を探し出し高速で頁を送り続ける。
 あの子のいる国の特徴……ええと、確か最初に端末を送ったのがどちらかと言えば西側だったと思うから…っ、大陸の西側にあって今日祭りをやっている大きな国──。

「あった! フォーロイト帝国か!」

 きっとこれだと信じ、ボクはまた急いで端末を操作している(正確には、端末の映像をこちらで即時投影する)水晶の傍に戻り、そして彼女に向けて自信満々に言う。

「お待たせ! 君がいるその国の名前は分かったよ。名前は──」

 その名前を告げると、彼女は酷く驚いていた。
 精霊と会っても記憶喪失だったとしても冷静だったあの子が、こんなにも動揺するなんて。
 寒色の大きな瞳を丸く見開いて、彼女は俯いた。……そういえば、記憶喪失は強く関わりのある人や場所を見聞きする事でそれが鍵となり記憶が戻る事もある…みたいな事をこの前知り合いが言っていた気がする。
 彼女はこの国のお姫様みたいだし、もしかしたら国の名前を聞いて自分の事を思い出したのかも…。
 とにかく、ボクは彼女が喋り始めるのを待っていた。水を打ったように静寂の独壇場となったこの場において、呑気に紅茶を飲む事なんてボクには出来ない。
 だから、ただずっと待っていた。すると、

「……名前、思い出したよ」

 彼女がこちらを見て柔らかく微笑んだ。…どう表現すればいいのだろうか、これは、子供がする表情じゃあない。まるで大人のような微笑みだった。
 すると彼女はぎこちないお辞儀をして、

「──私の名前は、アミレス・ヘル・フォーロイト。このフォーロイト帝国が第一王女です」

 そう名乗った。こんなの、ボクの勝手な感想でしか無いのだが…今までどこか抜け殻のようだった彼女に、つい今しがた命が吹き込まれたように、そう思えた。
 彼女……ううん、アミレスが記憶を取り戻した事により、この子にはちゃんとした命が芽生えたんだ。
 ちょっぴり夢見がちなボクは、そう考える。
 少ししてアミレスはまた歩き始めた。地図作りを再開したらしい。
 ボクはそれを眺めつつ、たまにだが話しかけてみた。「好きな食べ物は?」「好きな色は?」「今日はいい天気だね」などなど…。
 あまりにも無難な質問ばかりだったのに、アミレスはとてもいい子で毎回返事をしてくれたのだ。それに、いちいち反応が可愛いくて面白くって…とても楽しく会話をし続けていた、その時だった。

「精霊さんの名前は?」

 アミレスがふと思い出したように聞いてきた。
 ここでボクはなんて答えようかと思い悩む。何故ならボクには名前が無いからだ。
 ボクは生まれも育ちも特殊だから、他の精霊達と違って名前が無く、役職でしか呼ばれて来なかったのだけれど……それを突然話して混乱させてしまわないだろうか。
 相手は幼い人間の女の子だよ? そんな相手に簡単に現実を見せてしまってもいいのかな、という不安がボクの足を搦めとる。
 もう少しロマンチックに、夢物語のように伝える方法は…うーんどうしよう本当に何も思いつかない。ガシガシと両手で頭を掻きむしりながらボクは天井を見上げた。

 …この際、本当の事を言っちゃおうかな。

「名前……ボクには名前なんて無いよ」

 君に向けて笑顔で名乗れる名前があればどれ程良かったか。
 そんな事を考えても、ボクには名前が無い。名前が無い事こそがボクという存在の証明だったんだ。仕方のない事だ。
 名前が無くて悲しくなるのなんて初めてだった。そんなボクの悲しみに気づいたように、アミレスが言う。

「じゃあ、私が名前をつけてもいいかな」

 えっ。

「君が?」

 食い気味に聞き返してしまった。あまりにも衝撃的な事だったのだ。

「だめ?」

 アミレスがこちらを見上げてこてんと首を傾けた。何とも嬉しい事を言ってくれたせいでだらしなく緩んだ口角を無理やり戻し、ボクは答える。

「………いいよ」

 よし、変な声は出ていないね。ボクはまだ精霊としての威厳を保たないといけないのだ。
 …目の前の問題はとても強敵だ。気になった人間の子と仲良くなれて嬉しい上に名前までくれるって言うんだ……気を抜いたら今すぐにでも破顔して情けない声を出してしまいそうなんだよね。
 あーまだかなぁ、どんな名前をつけてくれるのかなぁ。楽しみだなぁ。

 アミレスがボクの名前を決めてくれるその瞬間を待つ事、ほんの数分。
 顎に手を当て真剣に考えてくれていたアミレスがパッと顔を上げて、ボクの名前を、教えてくれた。

「──シルフ、なんてどうかな?」

 シルフ。ボクの、はじめての、名前。生まれて初めて貰った、ボクの……ボク、だけの…。

 途端に、体中が熱くなる。ずっとその立場と役職だけで成り立っていた曖昧なこの体が、ついに『シルフ』という形を得た事で纏まってゆく、バラバラだった魔力が強く結びつく。
 ボクという存在が輪をかけて強く…濃くなった気がした。

「シルフ、シルフ……ボクの…名前…」

 うわ言のようにそう繰り返す。この名を呼べば呼ぶ程…ボクという存在にこれが刻まれてゆく。まさしく、ボクの名前になっていく。
 今まで体のどこかにぽっかりと空いていた空白が、今突然埋められたようだ。アミレスが与えてくれたこの名前が──ボクを形作った。
 ボクという存在を、証明してくれたのだ。

「……ありがとう、すごく嬉しいよ! ボクの事はシルフって呼んでね!」

 今までに無いくらいの感情の荒波がボクを飲み込もうとするが、それを何とか理性と虚勢で堰き止める。
 それでも理性の隙間を流れ出た波が、ボクの瞳を濡らしていく。
 今アミレスと相対しているのが端末で良かった。こんな情けない姿、絶対に見せたくない。
 指の背で目元を拭いながら、ボクはお礼を告げた。
 すると早速、アミレスが名前で呼んでくれた。

「えっと、じゃあ…シルフ」

 名前って凄い。ただそれを呼ばれただけなのに、とても胸が暖かくなる。色とりどりの花が咲いたように感情が溢れ出すなんて。

「ふふっ…自分だけの名前で呼ばれるのって、何だか胸が暖かくなるね」

 自分の胸元に手を当てて、ボクは思う。
 皆が当たり前にしてきた、誰かに名前を貰ってその名前で呼んでもらうという行為がここまで尊いものだったなんて。
 今までボクは知らなかった。名前が無かった事もそうだけれど、名前を欲しいとも、名前で呼ばれたいとも思って来なかった。役職名で呼ばれていても、それは今、ボクだけを示す言葉だったから…別に、他の固有の名称が欲しいとも思わなかったんだ。
 でもね、大好きな人間の中で特に気になった君と話して、君の名前を聞いてそれを呼んだ時。
 ボクは生まれて初めて『ボクだけの名前』が欲しいと思ったんだ。
 君に名乗れて、君に呼んでもらえる……そんなボクだけの名前が。
 まさかそれを君がくれるなんて思ってもいなかったのだけれど。………ものすごい、宝物になったな。
 君がボクに『シルフ』という名前をくれたから、ボクは君に名乗り君に呼んでもらえるんだ。全部全部君のおかげだよ。

 ありがとう、アミレス──あぁそうだ、ちょっと変えてアミィとかどうだろう。ボクだけの呼び方だ。
 ボクの友達になってくれた特別な君だからこそ、他の人がしない呼び方をしたい。
 愛称と言うんだったかな、それで良いじゃないか。……良いって? 本当に? ありがとう、君は本当に優しいね。

 アミィ。ボクは今日、君に出会えて本当に幸運だと思う。
 今日の事は何があっても忘れない…ずっと、ボクの心の中で大切な思い出として守り続けてみせるよ。絶対にね。


 ──こうして。ボクは……長い長い生のひとときを彩ってくれるような、そんな少女と出会ったのであった。
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