授業

高木解緒 (たかぎ ときお)

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10(終)

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 翌朝、わたしは一番に登校しました。
 そして、弓香のクラスの教室へ入ってみました。二つのことを確認するためです。
 一つ目は、弓香の席の位置です。座席表を確認すると思った通り、窓際でした。わたしは次に、今ではがらんとして、使われている気配の薄れてしまった弓香の席へ座りました。
 そして窓から外を見ました。わたしの教室の、わたしの席からは余程ななめ後ろへ振り向かないと見ることができないのですが、弓香の席からは、自然に、弓香の家のベランダが見えました。弓香は保護されており、お母さんは入院中で、弓香の家の窓には重そうな青いカーテンがしっかりと閉じられているところが良く見えます。
 カーテンは、光を遮るためのもの。そして、内側を見せないためのもの――。
 弓香のお母さんは専業主婦です。出不精で、いつも家に居るのだと弓香がいつか言っていました。にも拘らず授業中、自分の家のカーテンがしっかり閉ざされていることに弓香が気付いてしまったのだとしたら。一度、きっかけを与えられてしまえば、なぜだろうと気になり始めてしまえばもう、教室の窓の外、自分の家のベランダ、その窓の内側が気になってしかたなくなるのではないでしょうか。なぜ、彼女のお母さんは昼の光を遮らなければならないのか。どうしてカーテンを閉める必要があるのか。弓香が在宅時には開いているのが当たり前だとしたらなおさら、疑問に思うはずです。なぜ? どうして?
 その小さな疑問の種を、彼女は知らぬ間に植え付けられてしまったのだとしたら――。
 弓香は真面目な性格です。小学校の頃の、先生や黒板へがむしゃらに食らいつくようにして授業に臨む彼女の姿が、いまでも目に浮かびます。
 中学生になっても、それはある時まで、ほとんど変わりが無かったことでしょう。
 まだ疑問を持っていないうちには、面白い授業ならば、厳しい先生の授業ならば、弓香が窓の外に目を向ける余裕はあまり無かったはずです。でも、ひどくつまらない授業で、けれど先生があまり怒ることの無い、ざっくばらんなキャラクターだったとしたら――? 
 弓香は、油断に付け込まれたのです。ふと外を見た拍子に、自分のいない間の、自分の家に関する疑問を植え付けられてしまいました。
 最初は、どうしてカーテンが閉まっているんだろう、くらいの疑問だったはずです。
 でも、窓の外を眺めることのできる隙を延々と与えられ続ける環境の中で、二度、三度と疑問を増幅させる繰り返しを見せつけられてしまったのだとしたら――?
 疑問に支配されきった弓香は、彼女が面白いと思う瀬間先生の授業でも、うるさい体罰教師増谷先生の授業でも、どうしようもなく、無意識と言って良いほどに窓の外、自分の家のベランダ、カーテンの向こうへ目を向けざるを得なくなるのではないでしょうか。
 先生。弓香のお母さんの不倫相手が誰かは分かりません。
 しかしおそらく、部活動の保護者の繋がりの中にいるはずです。弓香が大好きだった、軟式テニス部の関係者の中に。そして先生は、男女合同で動くことの多い軟式テニス部の顧問である先生は、保護者の集まりか何かで偶然、弓香のお母さんと誰かの関係に気付いたのですよね。先生は当然、弓香の住所を知ることのできる立場でもあります。そして、弓香の教室での授業中、みんなが作文か何かに取り組んでいる時、外のマンションのベランダを見て、今度は閉められたカーテンに気が付いたのです。できごとの順序は違うかも知れません。でもとにかく、先生がまず、弓香の家の、閉められたカーテンの意味に気付いた。そして授業をわざとつまらなくすることできっかけを与え、弓香の心を支配した。
自分はほとんど何もせずに弓香を追い詰め、ついには彼女を壊してしまいました。
 弓香が事件を起こした後、わたしが階段の踊り場で見た先生の笑顔。わたしの心の持ちようで醜く見えてしまったと思っていたあの、笑顔。本当は、心底醜い、よこしまな笑顔だったのではありませんか。自分が授業の内容をちょっと工夫するだけで一人の女子生徒の人生を狂わせることができるとを確信した、邪悪な笑顔だったのではありませんか。
 ――動機? 先生がそんなことをする、直接の、動機?
 先生。先生は最初から、わたしを狙っていたのですね。
 弓香がお母さんを刺すより、ずっと以前から、事件は起こっていたんです。
 あなたはわたしの、あなたに対する気持ちに最初から気が付いていた。うまくすれば、自分で言うのもなんですけれど、この瑞々しい肉体を貪る機会を手にできると気が付いていた。あなたはわたしを、性の対象として、いつか支配しようと狙っていたのですよね。
 そしてそのためには、いつもわたしの隣にいて、あなたに対して冷静な目を向けることのできる弓香が邪魔で邪魔でしょうがなかった。今は「かなわぬ恋」と最初から分かって応援している弓香でも、あなたがいざ、わたしに欲望を向けた時、彼女がわたしにとって最強の盾となることをあなたはわかっていた。だからまず、弓香をわたしから遠ざけねばならなかった。偶然に転がり込んだチャンスをうまく利用して、あなたはそれをやってのけたのです。後は、頭の悪い、ミーハーで、独りぼっちの子どもがいるだけ。
 頭の沸いた女子中学生らしい、自意識過剰な考え? 
 証拠なんて何も無い、取るに足りない、お粗末な推理? そうです。
 でも、わたしにとって、先生についてのこの問いは、最も大切な問いなのでした。
 心のひっかかりをやり過ごさないこと。小さな疑問に気付き、妥協しないこと。
 全てを解き明かす必要はないんです。先生が、そんな人であるという疑いをさっぱりと消すことができれば、それでよかった。あなたが、そんなことをする可能性なんて微塵も持ち合わせていない人だと、わたしが信じることができれば、それでよかった。
 だから昨日の放課後、学習支援室へ来てもらったんです。
 先生に気持ちを打ち明けるのは、わたしにとってなんでもないことでした。
 だって、それまで、本当の気持ちだったから。
 先生に抱きつくのも平気でした。だって、ずっとそうしたかったから。
 そして、最後の最後まで、先生がわたしに、暗くなってから先生の部屋を訪ねて来いと言うその時まで、「塾の居残りだったとでも言えばいい」と微笑むその時まで、アパートの部屋に入ったわたしを後ろから抱きすくめるその時まで、「お前の気持ちはありがたいんだが……」とでも切り出してくれることを信じていたんです。わたしの大好きな人が「先生」であることを信じていたんです。そうあって欲しいと、心から願っていたんです。
 でも、現実には、そうではありませんでした。
 先生。
 先生はわたしが先生の企み、弓香を陥れるための企みに気付いていないか、ずっと不安だったのですよね。わたしがみんなに先生の授業について訊いて回っていると知った時、わたしが「みんな先生の授業が面白いって言ってます」と正しく伝えなかったあの時から、わたしが真相に辿りついてしまわないかずっと不安だったのですよね。だから昨日、何も気づかない様子のわたしを見て、つい、自分の成功を確信してしまったのですよね。
 先生、「あぶはち取らず」はできません。結果としてわたしは、弓香を選びました。
 昨日のことは全て録音して、データのコピーを教育委員会とPTA会長の家にわたしの名前で送りました。今この授業が終わって職員室に帰ったら、先生、あなたはどんな状況に置かれることになるのでしょうか。先生は先生でなくなるのでしょうか。
 先生。
 こんなふうにして、初恋を終えたくなかったです。           
                                   
                                      (了)
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