授業

高木解緒 (たかぎ ときお)

文字の大きさ
上 下
7 / 10

しおりを挟む


 7


「弓香をホテルの前で見た? ――どこのホテル? 」
「駅の北口を出て、少し川の方に行ったところにある、南の島みたいな看板の……」
「ああ、ラブホか」
 先生は言ってから、あ、すまん、とわたしに言いました。
「ちょっと待て。お前はなんで、あんなとこに行ったんだ?」
「ホテルに行ったわけじゃありません!」
 二人しかいない学習支援室の中で、わたしの声はやけに大きく響くようでした。わたしがどうしても先生に相談したいことがあると言って、無理に入れてもらったのです。
「そりゃ分かってるさ」先生は穏やかにわたしを宥めました。
「だけど、ことが公になれば、他の大人はまずそこを訊いて来るぜ?」
「……公になるんですか?」
「場合によっちゃな」
 言い放つ先生に、わたしはかすかな苛立ちを覚えました。他の人には言えないからこそ先生に相談したのです。でも同時に、やっぱり先生を頼って良かった気もしました。
「わたし、この間から塾を変えたんです。それまでは弓香と同じ南口前の塾に行ってたんですけど、そこ、理数系はあんまり良くなくて。それで――」
「ああ、北口向こうに新しいのができたんだったな。あそこにしたのか」
「はい。でもわたし、実はすごく方向音痴なんです。それに塾は夜まであるし――」
「暗い帰り、道に迷ってラブホの前に出た、と」
 わたしが頷くと先生は、危ないなァ、としみじみ呟きました。わたしはなんだか嬉しい気がして、でも、すぐに不謹慎だと気付いて、浮かびかけた笑いをひっこめたのです。
「しかし、弓香も道に迷ってただけかもしれんぞ。いや、案外、方向音痴のお前が迷ってるんじゃないかと気遣って迎えに来てくれてたとかな」
 幼馴染みなんだろ、と微笑む先生に、わたしは首を振るしかありません。
「男の人にお金をもらってました。見たこと無い、剥げた小太りのおじさんです。なんか全体的にいやらしい感じでした」
 黙り込む先生。やがて静かに、
「それは確かか? あとで、間違えました、じゃ済まされないぞ?」
「わたしが見たのは、そのホテルの門の前で弓香が、知らないおじさんとお金のやり取りをしていたところだけです。でも、それだけは確かです」
「金のやり取りをしていたところだけ見たのか? その後二人はどうした?」
「……わたし、怖くなって逃げたんです」
 まあ、それでよかったよ、と先生は言いました。「よく、相談してくれたな」
「どうするんですか?」
「この場合、秘密に解決するのは少し難しいだろうな。弓香の担任の倉田先生とまず相談して、確かなら警察も動くことになるかもしれん。弓香が間違いを犯したのだとしたら、それを俺たち以外の幾人かが知ることになる。噂という形でなら、もっと大勢の人だ」
「そんな……」
「お前は自分が楽になるために俺に相談したのか? もし弓香が良くない状況にいるなら、彼女を助けたいんじゃないのか? どっちなんだ?」
「……弓香を、助けたいです」
「それなら、ある程度の犠牲は止むを得ないこともあると理解しなさい。ここで膿を出し切るか、なあなあに済ませて、もっと悪い未来を迎えるか、どちらを選ぶ?」
「膿を……出し切ったほうがいいんですよね」
「もちろん俺もできるだけ彼女が傷つかない方法を考えるし、できる限りの努力をする。お前はどうする?」
「わたしは……」
 弓香に何かしたい、と思いました。しかし弓香は最近、学校の中でわたしの顔を見てもなんだか避けるようにして、ふいとどこかへ行ってしまうのです。帰り道で一緒になることもまずありません。たまに話かけても、つっけんどんな言葉が返って来るだけで、
「どうすればいいんですか? わたしに何かできるでしょうか?」
「観察することだろうな。弓香をちゃんと見て、これまでの弓香とどこが変わっているかしっかり見てやる。多分、お前にしか出来なくて、しかし一番役に立つことかもしれん」
 最近、弓香について他に変わったと思ったことはあるか、と先生が訊ねました。わたしは少し首をかしげて、
「口調が前より乱暴になりました。なんだかいつもイライラしている感じで。あと、痩せたっていうか、やつれた? 頬がこけて来てる感じがするかな……」
「急いだ方がいいかもしれんなぁ」
 先生は顔を顰めて言いました。その視線の先にあるものを追って、わたしはゾッとせずにいられません。昔、校内のイベントで使われたのであろう看板です。古くなって全体的に黄ばんではいますが「薬物乱用防止ポスター展」という赤い文字が、こびりついた血のように、おどろおどろしくわたしの視界へ迫りました。
 わたしは先生を見ました。先生も、わたしを見ていました。
 先生の考えていることが手に取るように分かる気がしました。
 援助交際、ドラッグ、日頃から注意されていても、別の世界のもののように思っていた言葉が今、わたしのすぐそばにありました。ひやりと冷たく、嫌な感じがしました。
 ふとわたしは、弓香が先生のことをあまり評価していなかった理由が分かった気がしました。弓香は先生の目を怖れていたのではないでしょうか。先生になら見抜かれてしまうと、彼女の鋭い直観で本能的に悟っていたのではないでしょうか。
「先生、わたし、先生に相談して良かったです」
 先生は少しの間、渋い顔のままでしたが、ふっと表情を緩めて、
「無理にそう思い込む必要はないさ。ただ――」「ただ?」
 先生の目は真剣に、わたしを見据えていました。
「お前が弓香を思う気持ちは本物だ。弓香との関係がこれからどうなっても、弓香がお前の気持ちを信じてくれなくても、お前の気持ちだけは本物なんだ。結果がどうあろうと、悩む必要はない。胸を張って、これからの日々を過ごして欲しい――。できるか?」
「……できる、と思います」
 OK、と頷いてにっこり笑った先生の表情に、わたしは救われる思いがしたんです。
 わたしはなんだか、肩の荷を少し下ろした気分で学習支援室を出ました。
 でも、結局、間に合いませんでした。
 その日の夜中、わたしは部屋に飛び込んできたお母さんに叩き起こされました。
「あんた、大変やで!」お母さんは興奮すると、関西弁になります。
「弓香ちゃんな、お母さんを包丁で刺して、警察に連れて行かれたんやて!」
 わたしは最初ぽかんとして、夢の続きでも見ている気がして、そのうちだんだん、自分が現実世界にいるのだと分かって来て、寝汗を吸ったパジャマの生地がうすら寒くて、
「うそ」
 やっとそれだけ、呟いたのです。


 Ⓒ髙木解緒 2017

しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

会社の上司の妻との禁断の関係に溺れた男の物語

六角
恋愛
日本の大都市で働くサラリーマンが、偶然出会った上司の妻に一目惚れしてしまう。彼女に強く引き寄せられるように、彼女との禁断の関係に溺れていく。しかし、会社に知られてしまい、別れを余儀なくされる。彼女との別れに苦しみ、彼女を忘れることができずにいる。彼女との関係は、運命的なものであり、彼女との愛は一生忘れることができない。

【完結】共生

ひなこ
ミステリー
高校生の少女・三崎有紗(みさき・ありさ)はアナウンサーである母・優子(ゆうこ)が若い頃に歌手だったことを封印し、また歌うことも嫌うのを不審に思っていた。 ある日有紗の歌声のせいで、優子に異変が起こる。 隠された母の過去が、二十年の時を経て明らかになる?

どんでん返し

井浦
ミステリー
「1話完結」~最後の1行で衝撃が走る短編集~ ようやく子どもに恵まれた主人公は、家族でキャンプに来ていた。そこで偶然遭遇したのは、彼が閑職に追いやったかつての部下だった。なぜかファミリー用のテントに1人で宿泊する部下に違和感を覚えるが… (「薪」より)

どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~

さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」 あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。 弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。 弟とは凄く仲が良いの! それはそれはものすごく‥‥‥ 「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」 そんな関係のあたしたち。 でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥ 「うそっ! お腹が出て来てる!?」 お姉ちゃんの秘密の悩みです。

支配するなにか

結城時朗
ミステリー
ある日突然、乖離性同一性障害を併発した女性・麻衣 麻衣の性格の他に、凶悪な男がいた(カイ)と名乗る別人格。 アイドルグループに所属している麻衣は、仕事を休み始める。 不思議に思ったマネージャーの村尾宏太は気になり 麻衣の家に尋ねるが・・・ 麻衣:とあるアイドルグループの代表とも言える人物。 突然、別の人格が支配しようとしてくる。 病名「解離性同一性障害」 わかっている性格は、 凶悪な男のみ。 西野:元国民的アイドルグループのメンバー。 麻衣とは、プライベートでも親しい仲。 麻衣の別人格をたまたま目撃する 村尾宏太:麻衣のマネージャー 麻衣の別人格である、凶悪な男:カイに 殺されてしまう。 治療に行こうと麻衣を病院へ送る最中だった 西田〇〇:村尾宏太殺害事件の捜査に当たる捜一の刑事。 犯人は、麻衣という所まで突き止めるが 確定的なものに出会わなく、頭を抱えて いる。 カイ :麻衣の中にいる別人格の人 性別は男。一連の事件も全てカイによる犯行。 堀:麻衣の所属するアイドルグループの人気メンバー。 麻衣の様子に怪しさを感じ、事件へと首を突っ込んでいく・・・ ※刑事の西田〇〇は、読者のあなたが演じている気分で読んで頂ければ幸いです。 どうしても浮かばなければ、下記を参照してください。 物語の登場人物のイメージ的なのは 麻衣=白石麻衣さん 西野=西野七瀬さん 村尾宏太=石黒英雄さん 西田〇〇=安田顕さん 管理官=緋田康人さん(半沢直樹で机バンバン叩く人) 名前の後ろに来るアルファベットの意味は以下の通りです。 M=モノローグ (心の声など) N=ナレーション

お狐様の言うとおり

マヨちくわ
ミステリー
犯人を取り逃したお巡りさん、大河内翔斗がたどり着いたのは、小さな稲荷神社。そこに住み着く神の遣い"お狐様"は、訳あって神社の外には出られない引きこもり狐だけれど、推理力は抜群!本格的な事件から日常の不思議な出来事まで、お巡りさんがせっせと謎を持ち込んではお狐様が解く、ライトミステリー小説です。 1話完結型のオムニバス形式、1話あたり10000字前後のものを分割してアップ予定。不定期投稿になります。

この欠け落ちた匣庭の中で 終章―Dream of miniature garden―

至堂文斗
ミステリー
ーーこれが、匣の中だったんだ。 二〇一八年の夏。廃墟となった満生台を訪れたのは二人の若者。 彼らもまた、かつてGHOSTの研究によって運命を弄ばれた者たちだった。 信号領域の研究が展開され、そして壊れたニュータウン。終焉を迎えた現実と、終焉を拒絶する仮想。 歪なる領域に足を踏み入れる二人は、果たして何か一つでも、その世界に救いを与えることが出来るだろうか。 幻想、幻影、エンケージ。 魂魄、領域、人類の進化。 802部隊、九命会、レッドアイ・オペレーション……。 さあ、あの光の先へと進んでいこう。たとえもう二度と時計の針が巻き戻らないとしても。 私たちの駆け抜けたあの日々は確かに満ち足りていたと、懐かしめるようになるはずだから。

体育座りでスカートを汚してしまったあの日々

yoshieeesan
現代文学
学生時代にやたらとさせられた体育座りですが、女性からすると服が汚れた嫌な思い出が多いです。そういった短編小説を書いていきます。

処理中です...