授業

高木解緒 (たかぎ ときお)

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 心のひっかかりをやり過ごさないこと。小さな疑問に気付き、妥協しないこと。
 先生。わたし、先生の教えに忠実でした。特に、それが先生に直接関わっている疑問とあっては、やり過ごすことなんてできるはずもなかったんです。
 ううん。いいえ。本当は、ただ、許せなかっただけかもしれません。みんなでわいわい、にぎやかに、和気藹々として楽しんでいたはずの先生の授業、大方を見ればつまらなくて退屈な学校生活でのオアシスのような先生の授業、わたしの大好きな先生の授業、それがつまらないだなんて、その意見が誰のものであっても、簡単に受け入れてしまうわけにはいかないと、心のどこかで意地を張っていたんです。冷静に疑問を追う〝ふり〟をして。
 なぜ弓香は、だれもが面白がる先生の授業をつまらなくなったと言うのか。
 この疑問を検証するには、どのようにすればよいのでしょうか。
 弓香と先生の関係性は、良くもなければ悪くも無い、といったところです。それに以前言ったように、弓香は相手との相性に引きずられた能力の評価をしません。弓香が先生の授業をつまらないというのであれば、彼女にとって本当につまらない可能性が高いです。でも、弓香は先生の授業の面白さが分からないほど、理解力が乏しくも無いはずです。
 ならば、前提が間違っている?
〝だれもが面白がる〟という前提が間違っているのだとしたら? 恋に惑わされたわたしが独り面白がっているばかりで、本当は、みんな、先生の授業をつまらなく思っているのだとしたら――。友達はみんな、わたしが先生を好きだと気付いていて、先生が話題の時はわたしに話を合わせていてくれているのだとしたら――。
 あの頃、急に先生に呼び止められましたよね。
 その時のことは、先生も覚えているはずです。
 お昼の休み時間、給食が終わって図書室へでも行こうかと、わたしは廊下をぶらぶらと歩いていて、「おい」だなんて肩を叩かれて、振り向いたら先生がすぐそばに立っていて。
 わたし、心臓が口から飛び出ちゃうかと思いました。先生と出会ってから、比喩表現や慣用句を実際に体験することがとても多かったと思います。本当に。
「お前さ、俺の授業について何か意見があるんだって?」
 先生は壁際にわたしをひっぱって行って、こちらを覗き込むようにして問いかけ、
「ななな、なんで、そんなこと言うんですか?」
 わたしはどぎまぎして、呂律が回りませんでした。
 瞬きもできずに先生の顔を見つめて、「いけない」と思うから目を逸らそうとしても全身が動きません。悪戯がばれた時よりも冷汗がだらだら流れて、だって、その頃ずっと考え続けていた事柄を、よりにもよって先生本人に直接問いかけられるだなんて思ってもみなかったんです。先生はわたしの心が見えるのかとすら思いました。どきどきと、心拍数は高くなる一方で、でも、答えなんて、分かればあっけないものなんですよね。
「俺の授業が本当に面白いと思うかどうか、お前に訊かれた、って何人かの女子が言ってたからさ。何か俺に言いたいことがあるなら、直接、自由に言って良いんだぞ? 生徒のための授業なんだから。それに、そのほうが俺にとってもありがたいんだ」
 内心つまんねーなと思われてちゃ、こっちもやりにくいしな、と先生はにこやかに言いました。それで――? と促しながらわたしを見る目が、とても優しかったです。
「違いますっ」わたしは必死に弁解しました。
「わたしは先生の授業、すごく好きです。おもしろくて楽しいです。テストの点数だって一年生からずっといいとこ行ってますよね?」
「それは、お前が真面目に勉強してるからだろ」
「楽しいから勉強しようってモチベーションが続くんです。国語が一番楽しいから――」
「そりゃありがとう。教師冥利に尽きるなァ」
 先生は軽い調子で頷いて、そうそう、と思い出したように、
「俺もお前の作文読むの好きだよ。よく書けてるなぁ、っていつも感心してる。賞向きではないけど、読んでて一番くらいに面白いな。ひたむきな調子がすごくいいよ」
 そう言われて、あの頃のわたしが舞い上がらないわけがなかったです。
「わたし、先生の授業に意見とかなくて、ただ単に先生の授業おもしろいよね、って他の子に念を押してただけなんです。わたし独りで面白がってたら――、なんか、恥ずかしいじゃないですか」
「そうか? お前の面白がる気持ちはお前だけのものだろ。国語が面白い子がいる、理科が面白い子が居て、体育や家庭科だけが救い、って子もいる。いやいや、授業なんか全部くだらない、部活が命、って子がいれば、学校なんかクソ喰らえ、で外で生きがい見つけてる奴もいる。それでいいと思うぞ、俺は」
「でも、わたしは、先生の授業が生きがいなんです!」
 わたしは言ってしまって、しまったどうしようと思って、先生は少しびっくりした顔をしていて、目を合わせたまま逸らすことができないのは二人ともどうやら一緒で、周りの音がみんな消えてしまった気がして、知らない間に息まで止めていて、昼下がりの学校に先生とわたしと二人だけ、いつまでもいつまでも立ちすくんでいる気がして――、
「ありがとう」
 ふっと先生が微笑むなり、全てが一瞬に戻ってきました。時間がまた、動き出してしまいました。わたしは寂しくなって、鼻の奥がツンとして、心臓が痛くって。でも、
「本当に、ありがとうな」
 先生の真面目な視線、しみじみとした口調、穏やかな表情、全てが嬉しかったです。
 先生。あの時、わたしは初めて、先生と心が通じたと思いました。嬉しくて嬉しくて、泣きたいほどでした。夜寝る時、思い出して、ベッドの中で本当に少し、涙が出ました。
「お前みたいな生徒に会えると、教員やっててほんとに良かった、と思うよ」
「――はい」
 わたしはようやくそれだけ返事して、にこやかに笑い返そうとしました。でも、多分、ものすごくぎこちない、変な顔になっていたと思います。わたしも、わたしだって先生に会えてよかったです、嬉しかったです、と言いたくて言いたくて、でもやっぱり、臆病なわたしはそれを言うことができませんでした。それを言う自分の姿を思い浮かべただけで胸がいっぱいになってしまったんです。
「それで、どうだったんだ?」
 ふと、先生が問いました。その口調がいつもの軽口を叩くような調子に戻ってしまったのを残念に思いながら、わたしが、
「どう……って、なにがです?」
「お前、俺の授業が面白いかどうか、他の連中にも念押しして回ったんだろ? みんなはどう言ってた?」
「ああ……」わたしは少し、ぼんやりとしてしまいました。「気になりますか?」
「そりゃ、多少な。自分の評判は気になるもんだ……、ハァ」
 先生は心配そうな表情をして見せました。でもそれはおふざけで、わたしを見る先生の目はしっかりおどけているんです。わたしは、今度はにっこり笑い返すことができました。
「大丈夫です。先生の授業、面白いってみんな言ってます」
「……そりゃ良かった。これからも頑張らなくッちゃな」
「楽しみにしてます」「おう!」
 ちょうどそこで他のファンの子たちが、先生を見つけて駆け寄ってきてしまったので、わたしと先生だけの時間は終わってしまいました。わたしは少し白けた気分で、でも余韻に浸りながら、るんるんと廊下を歩き出して、でも――でも、先生。
 わたしはその時、先生に正しく伝えませんでした。嘘は言っていません。でも。
 わたしのクラスではみんな、先生の授業が面白いって言ってます。先生が担任だったら良かったのに、って堂々と言ってて、本当の担任が可哀そうになるくらいなんです。
 そして弓香は、先生の授業がつまらなくなったと言っています。
 これは前から分かっていたことです。
 でも他にも何人か、先生の授業が一年生の時ほど面白くなくなったと、わたしに冷静な意見をくれる子たちがいたんです。そして、それはみんな、弓香のクラスメイトでした。
 先生の授業、やっぱ、めちゃくちゃ面白いよね、と言ってくれる子もいました。二年生になって、来年の受験を見据えて厳しくなる先生が多い中で、相変わらず面白いままに、しかし分かりやすく教えてくれているのは先生だけだという声もありました。さっき割り込んできた子たちにしてもきっとそうなのでしょうが、余計なことに、先生が好きだという気持ちをわたしと張り合おうとする子まで幾人か現れ始めていたんです。
 そして先生の授業を肯定する子たちは必ず、弓香と同じクラスではありませんでした。
 だからわたしは前提を変えました。
 なぜ、弓香のクラスでだけ、先生の授業はつまらなくなったのか――。


 Ⓒ髙木解緒 2017

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