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「その時にね、なんか、目があったような気がしたんだよね」
「そりゃ気のせいだな」
 なんでそういう意地悪言うかなぁと、わたしは頬を膨らませて弓香を睨んだものです。
「怒んなよ。で、その歌はどういう意味?」
「ええと――ってか、あんたのクラスもやったはずじゃん!」
「記憶にございません」
「まったく、やれやれだな……んーとね、たくましい男だと自分のことを思っていた自分だけど、片思いしてこんなにやつれてしまった、っていう意味。――でさ、その時さ」
「なんだよ?」
「先生が一瞬、ふっと寂しそうな顔つきになったの。ほんと一瞬。多分、他の子は板書してて気付かなかったと思う」
「おめぇも板書しろよ」
「ちゃんとしてます。先生、すぐいつもの調子に戻った。でもなんか、こう――」
「ふいにつらい過去を思い出しちゃって、静かに耐えてます、って感じ?」
 あれでまだ独身、ってのはやっぱワケありなのかね、という弓香にわたしも深刻な調子になって深く頷きました。
「そうそう。普段の顔と全然違ったの。素が見えたって言うか、なんか切ない感じでさ」
 ははん、と弓香は皮肉めいた笑みを口元に浮かべました。
「ギャップにやられたわけだ。ふと垣間見えた人間性にキュンと来た、ってヤツ」
「――まあ、そうかも」
「まあ、それやられて目があったら妄想しちゃうのも無理は無いか。下地はあるんだし」
「どうせ妄想ですよ、だ」
「だから怒るなって」
 弓香はあははと笑って、それからふと、小首をかしげるようにします。
「でもさ、やっぱ、あんたの話を聞く限りじゃ、先生の授業、まだそこそこ面白いよね」
「どういうこと?」
 わたしは彼女の言い方にひっかかりを感じました。まるで先生の授業が面白くなくなってしまったことを前提にしているかのような言い方だったのです。
「先生の授業、充分面白いじゃん。瀬間先生の数学なんて、気がついたら眠ってるよ」
「そうかな。レベルとしては瀬間じいの方がずっとおもしろいと思う。先生のことあんたが好きだから、面白く思えちゃうんだわ。ほら――、坊主憎けりゃ袈裟まで憎い?」
「あばたもえくぼ、惚れた欲目! ――ううん、他の子たちだって面白いって言ってるよ。そうだなぁ……あ、大原君が暴れないでずっと聞いてるの、先生の授業だけなんだよ?」
「へぇ、あの大原がね」弓香は目を丸くしました。
「そういや、一年の国語の時はあんまうるさくなかったかもな」
 大原君は一年生の時に弓香と同級生だった子で、彼にとってつまらない授業だとすぐに歩き出したり、それを注意されると、大声を出して暴れたりしてしまうんです。
「じゃあ、あんたのクラスだけいまだに先生の授業が面白いってことかな。でもそれって、あいつもやっぱり、他と同じってことじゃね? あんたのクラスをひいきしてるんだ」
「――馬が合うとか、反応のメリハリがあって授業をやりやすい、ってことなんじゃない? 大原君みたいな子を暴れさせないように考えてやってるのかもよ?」
「そうかな。でも、そんな力があるならさ、他のクラスでも面白い授業を続けてくれりゃいいじゃん? 一年の時は先生のノリが元々あたしには合わないにしても、多少は面白いとこもあったけどさ、二年になってからほんとつまんなくなったと思うよ。あんたみたいにつまんない授業中眠れたら、どんなにいいかと思うもん」
 わたしが先生の授業で寝てしまうことは絶対にありません。でも、学業に対して心からまじめなつもりでも、知らないうちにコックリコックリやっていることが間々あるわたしとは正反対に、弓香は態度こそ良くなかったり、ふてぶてしかったりしますけれど、彼女は彼女なりの気まじめさをきちんと持っていて、授業中に眠ったり、他の事をしたりすることが絶対にできない、自分に厳しいというのか、妙に潔癖なところがあるのです。
「わたしだって、そう、いつもいつも寝てるわけじゃありません」
「国語の時間起きてるぶん、他の時間で休憩してんだろ」
 弓香が茶化し、あんたねぇ、とわたしがぶつふりをしようとした時、
「二人とも、ちょっと手伝って!」母の声がしました。
「はぁい」と、うちの母にだけはやたらイイ子しぃの弓香が率先して立ち上がり、
「でもさ、あんたのそういう気持ちはすごくいいと思うよ。大切にするべきだと思う」
 見上げると、彼女の眼差しは真剣に、でも、とても優しくわたしを見つめていました。
「そういうって?」
「んー、なんての? 純愛? 本当の恋? とにかく、応援してッからな!」
「ウン。……ありがと」
 照れるわたしに弓香が右手を差し伸べ、わたしはその手を掴んでぐいと立たせてもらいました。トプン、と確かに、自分の中で瑞々しい塊が脈を打つ気がしました。
 この時、わたしは先生への想いを自覚したんだと思います。ぼんやりした憧れを弓香の言葉がきちんとした想いへ進化させて、はっきりした形にして見せてくれたんです。
 でも同時に、一つの疑問がわたしの中で小さな芽を吹きました。
 弓香は、好き嫌いこそはっきりしていますけれど、それが相手の他の部分の評価にまでつながるようなタイプではありません。坊主憎けりゃ袈裟まで憎い、と考えるキャラではないんです。むしろ、嫌いな人間でもその良いところはしっかり認めもするし尊敬もします。わたしはどちらかと言うとみみっちい性格ですから、彼女のそういうところがすごく大人に見え、昔から憧れていました。それに、わたしよりよっぽど頭が良く、知的な刺激に敏感で好奇心旺盛な彼女が、他の授業よりも明らかに内容の充実している先生の授業をただ「つまらない」と切り捨てるのも、なんだか不自然に思われます。
 考えれば考えるほど疑問の芽はひょろひょろと、でも確かに、育つようでした。
 なぜ弓香は、だれもが面白がる先生の授業を、つまらなくなったと言うのか――。


 Ⓒ髙木解緒 2017

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