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二年生での教室は四階建て校舎の最上階になりました。一年生の時の教室と配置は変わらずに階数が上がっただけですが、窓からの見晴らしはかなり違います。校庭とポプラ、ボール避けのグリーンネット、お向かいのマンション群の、立てかけた大きなおろしがねのようにも見えるベランダの連なりと、二年生のどの教室からでも、見えるものそのものは一年生の頃とほとんど変わりがありません。でも、高さが上がり、空は確実に広くなりました。そしてその晴れ上がった青空が、こちらから両手を差し延ばしさえすれば、優しくわたしを抱き上げ、引っ張り上げてくれるような気分にさせるんです。去年の春と違い、二年生の教室へ最初に入った時、わたしは妙にドキドキと、上ずった気持ちになりました。
近づいている。どんどん、近づいている。
多分、近々願いの叶う予感を覚えて、わたしは興奮していたんです。
わたしは大人になりたかったのでした。もっとはやく、大人になりたかった。
二年生になってもやっぱり別のクラスになってしまって、放課後は放課後でテニス部で忙しすぎる弓香が久しぶりにわたしの家へ遊びに来たのは、中間テストを控えて部活動が休止になっていたからでした。おじいちゃんが使っていたちゃぶ台をわたしの部屋へ持ち込んで、お菓子を食べながら勉強をしたり御喋りをしたり、他の友だちも好きですけれど、やっぱり弓香だなぁ、なんて気がして、わたしはすっかり嬉しくなってたんです。
はしゃぎあって、笑いあって、うきうきしあって、屈託がなくって、でもふいに、
「あんたさぁ、本気で好きになったよね」
唐突に弓香が言って、わたしはドキリと黙りこみました。
いつの間にか薄暗くなっていた部屋の窓からはいっぱいに夕陽が差し込んでいて、肌が日焼けして真っ黒で、逆光のせいで起き上がった影のようにも見えるくせに整った輪郭がどうしようもなく美人で大人っぽい弓香の目がなんとなく怪しく輝いていて、彼女が御飯をうちで食べていくことになったので、やっぱり久しぶりだと喜んではりきるお母さんの包丁を使う音が響いて来ていて、他に音はしません、それだけがやたらと大きいようで、
「電気、つけるね」
わたしは立ち上がって壁のスイッチを押しました。
さっとついたLEDの真っ白な明かりがとても頼もしい気がして、ほっとしたのをよく覚えています。再び座った私の肩辺りを小突くようにして、
「ごまかすなよ」弓香の口調も、うって変わって明るいものでした。にやにやと笑って、
「なんでも分かるんだからな」
ああ――そうだった、とわたしは納得しました。彼女は昔から妙に勘がよく、人の心の動きに鋭いところを見せるので、時々、ハッと驚かされることがあったのです。
「別にごまかしてないって」わたしも笑って言いました。「やっぱさ、わかる?」
わたし自身、そんな気がしていたんです。顔に出ていたら、ちょっといやだな、と思いました。弓香は、今度はにっこり優しく微笑んで、
「わかるよ、そりゃ」とだけ言いました。それから少し間を置いて、
「なんかあった? ほら、改めて好きになるようなきっかけとかさ」
「うーん……わかんない」
「それはだめだろ」今度はまた、にまにまと、してやったりという調子で笑う弓香です。
「先生、いつも言ってるじゃん。心のひっかかりをやり過ごさないこと――」
「小さな疑問に気付き、妥協しないことこそ、真の読解力を深める近道なんだよ――」
最後は二人のせりふが被って、わたしたちは声を上げて笑いました。もうずっと、先生の授業で聞いているので、すっかり覚えてしまっているのです。
「なんだろうな」わたしは考えました。
その間、弓香は菓子盆の中のお菓子を独りでパクパク食べています。
「もうすぐ御飯だよ? あ、あと弓ちゃんのお母さんに電話した?」
「大丈夫、あとでしとく。あんま気にしてないだろうし。それに、おばさんの料理は別腹」
それより早く思い出せよ、と弓香に促されて、でも、これといった想い出は無くて、
「じゃあさ、一番最近で、やっぱいいな、と思った時とかさ」
弓香は口調こそ粗暴なところがありますけれど、人から話を引きだすのは抜群にうまいのです。わたしはポン、と手を打ちたい気分で、
「最近だとね〝短歌に親しむ 古文編〟の授業が面白かったよ!」
「ほうほう」とまた、うまい合いの手。わたしの記憶がするすると引き出されます。
我思ふ 人を思わぬ報いにや 吾思ふ人の 我を思はぬ
「どうよ」
黒板に大きな字でこの歌が印刷された紙を貼り、先生は皆に訊きました。
「まずはお手本として俺が読むから、俺が、さんはい、って言ったら続いて声に出してみてくれな。じゃあ行くよ、われおもう――」
われおもう ひとをおもわぬ むくいにや わがおもうひとの われをおもわぬ
「リズムはこの調子ね。もちろん文法や単語の意味、用法だとかは、中二でやるにはまだ早いところもある。でも、言ってる意味はなんとなくでも分からないかな? われ、わがってのは自分のこと。人を思う、は今でも使うよね。他に分からない言葉、ある人?」
誰かが「むくいにや」と言いました。OK、と先生は頷いて、
「報い、は自分の行いの結果が自分にはねかえってくること、って感じかな。にや、ってのはこの場合だと、~なのかなぁ、って感じ。――さあ、どういう歌だと思う?」
「ヒント!」
「ヒントは一年生の百人一首の時にも言ったはずだ。昔も今も職業で歌を読む人以外で、ポエムを読みたくなる時の人の気持ちなんか、そうそう変わらないってこと」
お前ら、どういう時にポエム読みたくなるよ、と先生が問いかけます。
「ない!」「え、ないの?」「先生はあんの?」「ありまくりだな」「失恋した時だ!」
「うるせぇよ……さあ、どうでしょうかねぇ」
みんながどっと笑いました。先生の授業の時は、みんな自然とはしゃいでしまうんです。癒しの授業、と男子たちが呼んでるくらいです。教室の雰囲気が断然、違います。
さて、わたしはヒントを出される前に意味が分かっていました。でも先生が、
「さあ、どうよ?」
ぐるりとみんなを見ました時、さっと俯いてしまいました。先生が手を挙げた他の女子を当てて、彼女が答えました。正解、と少し溜めてから言った先生は微笑んで、
「どう、読んだ人の気持ち、なんとなくでも分かる?」
「分かります」
ほんとうかな、とわたしは思いました。ただなんとなく思ったんです。
そうしたらその子が「なんとなくだけど」と言って、わたしは内心びっくりしました。
先生はまた、ウン、と頷いて、
「そのなんとなくがまず大事。いいかい、短歌にしても、読み辛い字で書かれた古いお話にしても難しそうな小説にしても、結局は人間が書いたものなんだぜ。同じ人間が書いている以上、どこかしら共感できるところがあるはずだ。ぶっちゃけた話、本当は、歌にも物語にも新しいとか古いとかは関係が無いんだよ。
そりゃもちろん、文明の発展につれて物事の捉え方や表現方法は変わっていくけれど、感動や悩みの種そのものはそれほど変わらない。いつの時代も人は同じように苦しんだり喜んだりしていたんだ。だから、難しそうとか、読むのがメンドイとか言って心に垣根を作っちゃう前に、なんとなく分かりそう、共感できそうなところを探してみる。何が変わらないのか考えてみる。それがいわゆる古文を学ぶ時のポイントでもあり、君たちが高校に進学してから必ず一度は考えるであろう、古文を学ぶ意味の一つでもあるんだ。
特に君らの年齢だと友達づきあいとか恋愛ネタとか共感しやすくなってくる年頃だろ? なんとなく分かりやすくなってる。そこらへんだけ感覚が鋭くなってる。特に短歌を鑑賞する場合、こいつを利用しない手は無いんだぜ?」
じゃあ、俺の失恋が出たついでにもう一つ――、と先生は微笑んで、
ますらをと 思へる我や かくばかり みつれにみつれ 片思をせむ
すらすらと黒板に書いて、手早く読みがなを書きました。
「じゃあ、読んでみようか――」
Ⓒ髙木解緒 2017
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