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約束の日 ⑸
しおりを挟むリーズリー公爵の許しは得ていますから、というヴェートルの言葉で、リズは公爵邸を連れ出された。
馬車留めには、リーズリーではない家紋の馬車が止まっている。ベルロニア公爵の馬車だ。
リズがつい顔を上げると、ヴェートルに促された。
「なにぶん急いで来ましたので……かなり汚れています。エスコートできませんが、ひとりで乗れますか?」
リズは汚れくらい気にしないし、そのまま抱きしめたいし、彼に抱きしめて欲しいくらいだったが、ぐっと我慢する。
ヴェートルがわがままを言うなど、今までになかったからだ。リズは今まで散々彼にわがままを言い、無茶を言ってきたのだ。ヴェートルの希望も聞くべきだ。
「ひとりで乗れるわ。……ヴェートル様、公爵邸についたらまずは入浴してちょうだいね?私は構わないけど、あなたは嫌なんでしょ?」
リズがくちびるを尖らせて抗議すると、ヴェートルが苦笑した。ほんの少し口の端が持ち上がっただけなので、じっと見なければ分からない変化だが、彼に想いを寄せているリズには分かる。
「分かりました。……リズ、今日は一緒に眠りましょうか」
リズは馬車に乗り込みながらも、うっかり足を滑らせるかと思った。
「いいい、一緒に!?」
それでも持ち前の反射神経の良さで何とか馬車に乗り込み、座席に座る。ヴェートルの方はいたって落ち着いた様子で彼女の対面に座った。
「はい。公爵にも伝えてありますよ。一晩リズをお借りすると」
「ま、待っ……待ってちょうだい。た、確かに私たちは婚約者……ではないわ!まだ婚約者じゃないのよ、私たち!」
そうだ。てっきりヴェートルの婚約者のような気持ちでいたが、リズとヴェートルは正式な婚約者ではない。なにせ、ヴェートルはいまさっきリーズリー領から戻ってきたばかりだ。
婚約は双方の当主が揃わなければ成されない。
それに気がついたリズが顔を青くすると、ヴェートルが笑みを含んだ声で言った。
「それなら、先程公爵と取り交わしました」
「え……!?」
「もっとも、私がこのような格好なのでかなり手短にしてしまいましたが」
「わ、私聞いてない!!」
「……公爵はそれとなくあなたに意志を尋ねたと仰っていましたが」
「え、嘘!」
リズはここ最近の記憶をひっくり返したが思い当たる節はない。そもそもここ最近は、夢見が悪くて父とも対して話さなかった。
リズが記憶を辿り眉を寄せていると、ヴェートルもまた難しい顔になった。
「……私が好きだと、そう言ったそうですね」
「え!?」
リズの声が大きくなる。淑女らしくない声にリズはハッとして居住まいを正すが、もはや今更だ。ヴェートルには散々淑女らしからぬところを見られている。
「それを聞いたお父君は私との婚約を決めたと……仰っていましたが。リズ、相違は?」
「……ありません、けど」
「けど?」
「それなら直接、ヴェートル様との婚約についてどう思う?って聞いてくれれば……!!」
結果はどちらも同じなのだが、婚約することを知らされているのといないのとでは全く違う。リズがむくれていると、ヴェートルが首を傾げた。さらりと、彼のアリスブルーの髪が揺れる。
「……私との婚約は、嫌ですか?」
この期に及んで、この男は何を言ってるのだ。
リズは半目になった。あれだけリズはヴェートルを好き好き言って、手紙でも彼を愛おしいと思う気持ちをそのままぶつけているというのに。
これで婚約を拒否する女がいたら、二重人格に違いない。
「嫌なわけないじゃない!……嬉しいの。嬉しいからもっと早く知りたかった」
拗ねるような声で言うと、ヴェートルもようやく納得したようだ。ほ、と安堵のため息が聞こえた。
「では、リズ。今晩ベルロニア公爵邸で過ごすことに問題はありませんね」
「え?あ……」
そうだ。その話をしていたのだった。
ベルロニア公爵邸で過ごす。その意味を察してリズの頬が真っ赤に染まった。髪や瞳だけでなく、頬も林檎のように赤く色づいた彼女を見てヴェートルは何か考え込むように沈黙したがやがて、ああ、と口を開いた。
「そういった意図はありません」
(ないの!?)
良かったはずなのに、なぜかガッカリしている自分に気がついてリズはますます死にたくなる。自分ばかり早とちりして、早合点して勝手に期待して舞い上がって。別にいい。まだリズとヴェートルは婚約者同士だ。婚前交渉など世間体がよろしくない。だからそういう意図はないと言い切ったヴェートルの言葉にほっとするべき場面だし、胸を撫で下ろすべきなのに……。
(う………ううう)
何を期待していたのか。死にたい。
もはや顔を手で覆うしかない彼女に、ヴェートルの静かな声が聞こえてきた。
「今日は──ただ、あなたを安心させたくて」
「あん、しん……?」
リズは顔を上げた。
彼女を見て、ヴェートルは頷いた。
彼が窓の外に視線を向ける。雨足は強まり、窓にぶつかる雨粒の勢いも増している。
「あなたが──亡くなった夜は、こんな夜だったと、思い出して」
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