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一章:さようなら、私の初恋
自由になりたい、ただそれだけ
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その後、ウィリアム様はそうそうにステアロン伯爵邸を後にしたらしい。彼が口にした薬が、どんなものかは分からないが、対処は早い方がいいだろう。
(それにしても──)
さすが、王族。
何を盛られたのか、すぐに気がつくとは。お父様の反応を見るに、ウィリアム様に盛った薬は催淫剤の類で間違いないのだろう。
彼は苦しげだったが、問題なく話せていたように思う。それは、王族のものとして多少薬に慣らされていたからなのだろうか。
気になったが、聞けるタイミングはなかったし、瑣末事だ。それに──もう、彼とも話すことはなくなる。
(さようなら、ウィリアム様)
幼い、私の初恋。
遠い昔、結婚を夢見たひと。
私は、夕食を欠席し、夜を待った。
もうこの家に未練はない。
思い残すことも、なかった。
扉がノックされて、カティアの声が聞こえてくる。
「お嬢様、まだ起きていらっしゃいますか?」
恐らく、火を点けにきてくれたのだろう。
私は、ソファに座りながら答えた。
「……ええ」
「入ってもよろしいですか?」
「構わないわ」
薄暗い室内に、カティアが入ってくる。
彼女は室内を見渡すと、続いて私を見た。
「……お食事は、いかがですか?軽食をお持ちします」
「要らな──」
断ろうとして、ふと、考えた。
昨日の今日だ。
しかも今日は、ウィリアム様とお父様の前で、婚約を解消したいとまで言ってしまった。ここで夕食を摂らなければ、お父様たちは私を気にするだろう。
気を病んだのかもしれないと誤解されて、監視でもつけられたら厄介だった。
私は、言いかけた言葉をそのまま飲み込んだ。
「……うん。お願い」
私の返事に、カティアがほっとしと様子を見せた。
「ではお持ちしますね。サンドイッチの具材は何がよろしいですか?」
「任せるわ。……ねえ、カティア」
ふと、私は彼女を呼んだ。
この邸宅内で、唯一頼れるのは、味方なのは、彼女だけだと思っていた。
私が辛い、と泣けば、彼女はいつも慰めてくれたし、私を哀れんでくれた。
『ねえ、カティア。血がね、血が……止まらないの。気持ち悪い、気持ち悪いわ……』
『お可哀想に、お嬢様。大丈夫です。しばらくすれば止まりますから、ね?』
幼い私が自身の責務を果たしたあと。
なかなか血が止まらず、しかもその血は次々宝石へと変わる。その奇妙な感覚は、まるで得体の知れない何かが体を這っているようだった。その気持ち悪さに泣いてしまった私を、彼女は何度も何度も、慰めてくれた。
『私……もう、こんなことやめたい。やめたいの。どうして、私はこんなことをしなければならないの』
手渡されたナイフを握り、泣いた時も。
彼女は、慈しんでくれた。
『お辛いですわね……。ですが、これは必要な儀式なのです。怖がることはありません、このカティアがついています』
──と。
彼女の声は、言葉は、心強かった。
誰もが、私の気持ちに無関心な、この家では、特に。
だけど。
思えば、それだけだった。
それだけだったのだ。
彼女は、言葉で私を慰めたけれど、それ以上のことはしなかった。彼女にだって、仕事がある。ステアロン伯爵家に仕えている以上、命令に背くことは出来ないだろう。分かっている。
それでも。
『お嬢様も、もっと【宝石姫】としての自覚を持っていただきたいのですが……こればかりは、どうしても。やはり、二百八十一年も空いてしまったから、宝石姫としての素質も、変異してしまったのでしょうか』
偶然聞いてしまった、彼女の本心。
あれは、カティアの声だった。
彼女は、私のことをそう思っていたのだろう。
……ほんとうに?
後から、私はほんの僅かに芽生えた疑心を、隠せなくなった。
それは。
(ほんとうに、あれはカティアのこころからの言葉だった?)
ステアロン伯爵夫妻の前だから、取り繕ったのではない?カティアにとって、彼らは仕えるべき主人で、雇い主だ。お父様たちの機嫌は損ねられない。
だから、そういったのではない?
この期に及んでそんなことを考え、期待してしまい私はきっと愚かだ。
だからこそ、今、聞こうと思った。
「私、ウィリアム様の婚約者を辞めたいの。……ううん、宝石姫であることを辞めたい。カティアは、どう思う?」
問いかけて、顔を上げる。
そして──息を呑んだ。
カティアは、信じられないものを見る目を私に向けていた。
【有り得ない】
【何を言っているの?】
そんな、こころの声が聞こえてくるような、顔。
それで、分かってしまった。
この家に、私の味方なんて最初から、いなかったということに。
「お嬢様、それは……」
それ以上、彼女の顔を見ていられなくて顔を伏せた。このまま『冗談よ』と言ってしまいたい。でも、それは逃げだ。いっそのこと、真実を知ってしまった方がいい。
この先、愚かな期待に、後悔に、縋らないように。惑わされないように。
「痛いのは嫌いなの。宝石姫の責務なんて、ほんとうはずっと、ず……っと、長い間、果たしたくないって思ってた」
「ですが、それはお嬢様に課された、生まれながらの責務です」
「…………うん。私もそう思ってきた。でも、でもね、カティア」
それは、私の気持ちより大事なものなの?
嫌だ、痛い、怖い……そんなこころの声より、優先されるべきものなの?
私には……嫌だ、と言う権利すら、許されていないの?
立て続けに、私はそんなことを言った。
カティアは、黙って私の言葉を聞いていたが、やがて困ったようにため息を吐いた。
「…………どうしたのですか?お嬢様。そんなこと、さいきんは滅多に仰いませんでしたのに。やはり、あの公爵家の令嬢のせいですか?」
(それにしても──)
さすが、王族。
何を盛られたのか、すぐに気がつくとは。お父様の反応を見るに、ウィリアム様に盛った薬は催淫剤の類で間違いないのだろう。
彼は苦しげだったが、問題なく話せていたように思う。それは、王族のものとして多少薬に慣らされていたからなのだろうか。
気になったが、聞けるタイミングはなかったし、瑣末事だ。それに──もう、彼とも話すことはなくなる。
(さようなら、ウィリアム様)
幼い、私の初恋。
遠い昔、結婚を夢見たひと。
私は、夕食を欠席し、夜を待った。
もうこの家に未練はない。
思い残すことも、なかった。
扉がノックされて、カティアの声が聞こえてくる。
「お嬢様、まだ起きていらっしゃいますか?」
恐らく、火を点けにきてくれたのだろう。
私は、ソファに座りながら答えた。
「……ええ」
「入ってもよろしいですか?」
「構わないわ」
薄暗い室内に、カティアが入ってくる。
彼女は室内を見渡すと、続いて私を見た。
「……お食事は、いかがですか?軽食をお持ちします」
「要らな──」
断ろうとして、ふと、考えた。
昨日の今日だ。
しかも今日は、ウィリアム様とお父様の前で、婚約を解消したいとまで言ってしまった。ここで夕食を摂らなければ、お父様たちは私を気にするだろう。
気を病んだのかもしれないと誤解されて、監視でもつけられたら厄介だった。
私は、言いかけた言葉をそのまま飲み込んだ。
「……うん。お願い」
私の返事に、カティアがほっとしと様子を見せた。
「ではお持ちしますね。サンドイッチの具材は何がよろしいですか?」
「任せるわ。……ねえ、カティア」
ふと、私は彼女を呼んだ。
この邸宅内で、唯一頼れるのは、味方なのは、彼女だけだと思っていた。
私が辛い、と泣けば、彼女はいつも慰めてくれたし、私を哀れんでくれた。
『ねえ、カティア。血がね、血が……止まらないの。気持ち悪い、気持ち悪いわ……』
『お可哀想に、お嬢様。大丈夫です。しばらくすれば止まりますから、ね?』
幼い私が自身の責務を果たしたあと。
なかなか血が止まらず、しかもその血は次々宝石へと変わる。その奇妙な感覚は、まるで得体の知れない何かが体を這っているようだった。その気持ち悪さに泣いてしまった私を、彼女は何度も何度も、慰めてくれた。
『私……もう、こんなことやめたい。やめたいの。どうして、私はこんなことをしなければならないの』
手渡されたナイフを握り、泣いた時も。
彼女は、慈しんでくれた。
『お辛いですわね……。ですが、これは必要な儀式なのです。怖がることはありません、このカティアがついています』
──と。
彼女の声は、言葉は、心強かった。
誰もが、私の気持ちに無関心な、この家では、特に。
だけど。
思えば、それだけだった。
それだけだったのだ。
彼女は、言葉で私を慰めたけれど、それ以上のことはしなかった。彼女にだって、仕事がある。ステアロン伯爵家に仕えている以上、命令に背くことは出来ないだろう。分かっている。
それでも。
『お嬢様も、もっと【宝石姫】としての自覚を持っていただきたいのですが……こればかりは、どうしても。やはり、二百八十一年も空いてしまったから、宝石姫としての素質も、変異してしまったのでしょうか』
偶然聞いてしまった、彼女の本心。
あれは、カティアの声だった。
彼女は、私のことをそう思っていたのだろう。
……ほんとうに?
後から、私はほんの僅かに芽生えた疑心を、隠せなくなった。
それは。
(ほんとうに、あれはカティアのこころからの言葉だった?)
ステアロン伯爵夫妻の前だから、取り繕ったのではない?カティアにとって、彼らは仕えるべき主人で、雇い主だ。お父様たちの機嫌は損ねられない。
だから、そういったのではない?
この期に及んでそんなことを考え、期待してしまい私はきっと愚かだ。
だからこそ、今、聞こうと思った。
「私、ウィリアム様の婚約者を辞めたいの。……ううん、宝石姫であることを辞めたい。カティアは、どう思う?」
問いかけて、顔を上げる。
そして──息を呑んだ。
カティアは、信じられないものを見る目を私に向けていた。
【有り得ない】
【何を言っているの?】
そんな、こころの声が聞こえてくるような、顔。
それで、分かってしまった。
この家に、私の味方なんて最初から、いなかったということに。
「お嬢様、それは……」
それ以上、彼女の顔を見ていられなくて顔を伏せた。このまま『冗談よ』と言ってしまいたい。でも、それは逃げだ。いっそのこと、真実を知ってしまった方がいい。
この先、愚かな期待に、後悔に、縋らないように。惑わされないように。
「痛いのは嫌いなの。宝石姫の責務なんて、ほんとうはずっと、ず……っと、長い間、果たしたくないって思ってた」
「ですが、それはお嬢様に課された、生まれながらの責務です」
「…………うん。私もそう思ってきた。でも、でもね、カティア」
それは、私の気持ちより大事なものなの?
嫌だ、痛い、怖い……そんなこころの声より、優先されるべきものなの?
私には……嫌だ、と言う権利すら、許されていないの?
立て続けに、私はそんなことを言った。
カティアは、黙って私の言葉を聞いていたが、やがて困ったようにため息を吐いた。
「…………どうしたのですか?お嬢様。そんなこと、さいきんは滅多に仰いませんでしたのに。やはり、あの公爵家の令嬢のせいですか?」
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