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あの日の記憶 3
しおりを挟む「……ティナ?」
もう一度、彼が呼ぶ。
彼女はもう、涙を抑えることは出来なかった。
「ロベート……」
突然、ぽろぽろと涙を零し始めた彼女に、彼はとても慌てたようだった。
いつも身につけている黒のフロックコートの中から、焦った様子でハンカチを取り出すと彼女の目元を拭う。そのハンカチは、先日彼女が彼に贈った白いハンカチだった。持ち歩いてくれているのだ。
それを知って、ティナはますます泣きそうになる。
(全部、思い出した……)
忘れていても生活に支障がなかったから、気が付かなかった。記憶を失っていることは気がついていたが、それがこんなにも重要な思い出だったとは思わなかった。
あの村に、彼女にとっていい思い出などひとつもないと彼女は決めつけていたから。
『ティナ、成人したら王都に来ないか?いや……成人する前でもいい』
『αとβが一緒にいてもいいだろ。いいか、俺たちは今から友達兼婚約者だ』
(ああ……そう。そうなのね)
彼はきっと、あの日に交した約束を守ってくれたのだろう。約束通り、ティナを迎えに来てくれた。
すっかり彼女は忘れていたが、彼はそんな彼女と新しく関わりを持ち、彼女に恋を教えた。
彼女が贈った白いハンカチはあっという間に色を変え、狐の刺繍は少しだけ色を濃くした。
それから、どれくらい泣いてしまっただろう。
流す涙も枯れ尽くしたティナが顔を上げると、ロベートが心配そうに彼女を見ていた。
彼は彼女の背中をずっと摩ってくれていた。
「……落ち着いた?」
「……うん」
ティナは頷いて、そっと、甘えるように頭を彼の胸に擦り寄せた。温かい。
「どうかした?やっぱり、まだあの男のことを──」
「好き」
「──」
ロベートが息を飲む。
凍りついたように彼の体が強ばって、ティナはタイミングを間違えたと焦った。
「違うわ。彼じゃないの。……私は……あなたが好き。あなたを……愛してるの」
もう出ないと思った涙が、また一筋こぼれて、彼のシャツを濡らした。
ティナが彼のシャツの裾を掴んで、ただひたすら身を寄せると、彼は詰めていた息を吐いた。
これでもし、彼女が元恋人にまだ情を残していると言ったら、彼自身なにをするけわからなかったので、非常に安心した。
それでも、焦ったものは焦ったので。
彼ははぁー、と長いため息をつくと、彼女の背中と腰にそれぞれ手を回し、抱き寄せた。
「返事を、聞いてもいい?」
ティナは頷いた。
彼女は顔を上げると、彼の顔を見る。
ロベートは困ったような、苦笑するような、そんな顔をしていた。眉を寄せ、ただ彼女の言葉を待つ彼のくちびるを、彼女は口付けで塞いだ。
「──ん」
少しだけ触れて、離れる。
ティナは真っ直ぐに彼を見て、彼の頬に手を伸ばした。
「……私、あなたの奥さんになりたい。奥さんになって……あの日の約束を果たしたいの」
その言葉に、驚いたように息を飲んだのはロベートだった。
「……覚えてたの。てっきり俺は、きみはもう忘れているものかと思ってた」
「ごめんなさい。実は、思い出したのはついさっきなの」
ティナは、罰が悪そうにまつ毛を伏せた。
今ならはっきり思い出せる。
彼と初めて会った時のことも、彼に苦い薬湯を飲ませたことも。子供ながらに、血まみれの服を脱がせ、彼を裸にしたことも……。
彼にローブを巻きつけたのは彼女だ。
幼い彼女は、血に濡れた服をそのまま着ていたら熱がもっと酷くなるし、傷にも悪いと思ったのだった。
今思えば、とんでもなく無茶なことをしたと思う。幼い頃のやんちゃっぷりを思い出した彼女は、恥ずかしさのあまり土に穴を掘って埋まりたくなった。
彼との記憶は、結婚する約束をしたその日で終わっている。
その次の日は、ティナは彼に会いに行くことができなかった。
そしてそれ以降になると、彼女は彼のことを忘れていて、彼女自身それどころではなかった。
あの日。彼女は村の子にいつものように意地悪をされていた。
ティナは彼に飲ませるための薬草を山で探していて、そこにいつものいじめっ子がティナを虐げに現れたのだ。
ちょっと肩を突き飛ばす、子供の嫌がらせだった。
しかし、先日の大雨で土はぬかるんでいて、ティナの後ろは足元に隠れて見えなかったが──崖があったのだ。
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