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狐の刺繍
しおりを挟むそれから、ふたりの関係は少しだけ変わった。
毎日ロベートが雑貨屋まで帰りの迎えに来てくれるところは一緒だが、帰る時は手を繋いで帰るようになったし、彼女の家の前に着くと、口付けもするようになった。
『次は、もう少し俺に許してくれたら嬉しい』
彼はそう言ったが、果たして次、というのはいつのことを言うのだろう。
あれ以来ふたりきりになることもないので、キス以上のことはしないが、彼女はひたすらそれが気になっていた。
しまいには、そればかり考える自分がすごいふしだらになってしまったように感じて、ベッドの上でゴロゴロと転がる始末だ。
彼と口付けをするのは嫌い、ではない。
それどころか──。
(私、すごいドキドキしてる……)
彼との短い口付けは、いとも簡単に彼女を舞い上がらせてしまう。彼の口付けは短く、ほんの少し合わさるだけで直ぐに離れてしまう。それを名残惜しい、と感じたのはいつからだっただろう。最初はただ、戸惑いの方が強かった気がする。
でも………。
彼の目が、彼の声が、ティナをほんとうに大切だと、心から愛していると、そう言わんばかりだから。優しい目。愛おしいと、恋い焦がれるうな目。柔らかく、包み込んでくれるような、そんな声。
彼といるとティナは何もかもが許されているような気持ちになってしまう。
ティナはまだ、彼の話を何も聞いていないのに。
その日は、ティナの仕事は休みだった。
特に予定もなかった彼女はふと、彼が初対面の時にティナの作品を見たいと口にしていたことを思い出す。
(助けてもらったお礼、まだしてなかったもの)
言い訳のように心の中でつぶやくと、彼女は一枚の白いハンカチを取り出すと、静かにそのハンカチに刺繍を入れ始めた。
朝からチクチク針を入れていると、ただ名前を入れるだけの刺繍はあっという間に完成した。白の無地のハンカチに、ただ名前の刺繍を入れるばかりでは寂しいだろうか。そう思った彼女は黄色と黒茶の糸を取り出すと、さらにその右端に小さく、狐の刺繍を刺し始めた。
集中しているとあっという間に時間が過ぎてしまう。気がつけば夜になってしまったので、ティナは作業を中断して夕飯の支度を始めた。
狐の刺繍は順調に仕上がっていった。
時間を見つけてチクチクと刺していくと、数日ほどでようやく完成した。小さな狐の刺繍は、歩いているところを横から見たような姿になっている。ふわふわなしっぽも、もこもこな耳も彼に似ていて思わずニマニマしてしまう。
彼には可愛すぎるかもしれないが、ティナにはお気に入りの一枚となった。
休みの日になると、彼女はハンカチを布に包んで彼の家に向かった。すぐに彼に渡したくなったのだ。彼はこのハンカチを見て、喜んでくれるだろうか。
思わず、歩く足が早くなる。記憶を頼りに高台にある彼の家に向かう途中、豪奢な馬車が横を猛スピードで通り過ぎていく。
あと一歩、ティナが左側を歩いていたら彼女は跳ね飛ばされていただろう。
ずいぶんスピードを出している馬車に彼女は驚いた。馬車はあっという間に坂を駆け抜け、行ってしまう。何気なく馬車の行く先を見ていた彼女は、しかしその方向の先に彼の家があることに気づいて息を飲んだ。
彼の知り合いだろうか?
気になって彼女が彼の家に向かって歩いていくと、ようやく白い邸宅が見えてくる。
そこでは、やはり先程の馬車が停まっていて、中から派手なドレスを着た女性が降りてきた。ボンネットを被っているので何の種族かは分からない。御者の手を借りて降りた彼女は、そのまま輪のように広がるドレスをふわふわと揺らして、玄関へと向かっていく。
ティナの背が冷たく冷えた。
手に持っていた、布に包んだハンカチをぐしゃりと握りしめてしまった。あれだけ大切に扱っていたのに、彼女はそれに気が付かない。
やがて、中からひとりの青年が現れる。
ロベートだ。
彼は訪れた娘と何か話しているようだった。
それを、ティナは瞬きひとつせず見つめていた。体が石になってしまったかのごとく、動かない。視線の先で、突然、女性がロベートに抱き着いた。
「……!」
驚きに悲鳴を飲み込んだティナは、とにかくこの場を離れなければ、と考えた。今はまだ、彼らに見つかっていない。
でれば、逃げた方がいい。どうして?なぜ?
ティナが逃げる必要はない。何もやましくなどないのだから。でも。
彼女の頭は大混乱だった。
早く動かなきゃ。
そう思うのに、足は根を張ったように動いてくれない。視線を逸らすこともできない。
視界には、女性が親しげにロベートに体を押し付けていた。女性は、胸の空いたドレスを着ていた。同性から見ても蠱惑的な大きな胸の谷間に彼の腕を抱き込むようにしている。
動けなくなってしまったティナに気がついたのは、ロベートだった。
「ティナ!」
名を呼ばれた瞬間、金縛りが解けたかのようにティナはその場に背を向けた。
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