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素直な兎
しおりを挟むそれから三日が経過した。
あれ以来ティナは青年に会うことはなかった。
青年は、ティナが逃げることを良く思っていないようで帰り際、玄関で釘を刺してきたが、その後音沙汰もないことからやはりあれはいわゆる一夜の過ち、というやつなのだろう。
ティナ自身彼と肌を合わせた、という自覚は全くないが朝起きたらティナは肌着のみ、青年に至っては裸のようだった。疑う余地もない。
それに、あの日はなんだか下半身が妙に痛かったような気もする。知らない間に処女を失っていたが、彼女にはにわかに信じられない。
自分がどうやって彼と体を重ねたのか気になるが、思い出したらとんでもなく恥ずかしくなりそうで、思い出さなくてもいいかな、と思っているティナだった。
その日は、少し遅くまで雑貨店の奥で作業をしていた。ティナは雑貨店て雇われている従業員である。
ティナの腕を買ったオーナーが、王都に来たばかりの、当時はまだ子供であった彼女を雇ったのだった。
もう遅いから早く帰んなさい、とオーナーの女性に声をかけられたティナは、熱心にレース編みをしていた手を止めて帰り支度を整えた。
気がつけば陽はとっくに沈み、夜が近づいてきている。
布で作った斜めがけカバンをかけて、裏手の扉を押し上げる。途端、びゅうと強い風が吹いてきた。初夏が近いとはいえ、春の夜の風はまだ冷たい。冷たい夜風に頬を叩かれたティナは乱れた前髪を抑えた。
「お仕事お疲れ様、いつもこんなに遅いの?」
強い風が吹き抜けたせいで目を瞑っていたティナの耳に、覚えのある声が聞こえてきた。
驚いて顔を上げると、そこには月光を浴びた青年が立っていた。
相変わらず美しい青年だ。
彼の銀髪は、月光を浴びて煌々と光っていた。宵闇には眩しすぎるその色彩は、しかし不思議と月夜に似合っていた。彼は、丈の長い黒の外套を羽織っていて、それが暗闇に同化している。
目を見開いて息を飲み、驚きを隠せないティナの表情を見て彼は苦笑した。
「そんな驚かせた?ここで働いてるって教えてくれたのはきみなのに」
確かにティナが教えた。
酒を飲みかわしながら、この雑貨店で働いているのだと。
……でも、なぜ彼は裏手にいるのだろうか?
それにいつから彼は、ティナを待っていたのだろう。
戸惑いを隠せない彼女に対し、青年は手を差し出した。
「ほら、帰ろう?」
……その声は、あまりにも優しくて、ティナはますます混乱する。
それにその手はとても冷たくて、もしや青年は長くここにいたのではないかとティナは考えた。
ティナと、この青年の関係はつい数日前に会ったばかり。知り合ったばかりだというのになぜ、彼はそんな優しい声を出すのだろう?
こんなに手が冷たくなるまで、ティナのことを待っていたのだろう?
目を丸くして動けないティナの手を、青年は勝手にとった。
そのまま、彼は歩き出し、それにつられてティナの足も動いた。
だけど、混乱は収まらない。
なぜここに?どうして?
そればかりが頭を占めるティナはパッと顔を上げた。その視線に気がついた青年は、前を向いていたが彼女の方を見た。ティナは必死に手を閉じたり開いたりしながら、ようやく彼に尋ねる。
「あのっ……!あなたのお名前はなんていうの?」
そして、ようやく彼の名前を尋ねたのだ。
ティナに名を尋ねられた彼は、その質問に驚きのためか目を見張った。
「……覚えてない?」
「……ごめんなさい」
「いや……どうりで呼ばないと思った。俺の名前を忘れてたんだね。いいよ」
彼はそう言うと、くい、とティナの手を引っ張った。
とん、とティナが彼の胸にぶつかる。彼はティナの片手を掴み、もう片方の手で彼女の腰を抱き寄せた。
あまりにも親密すぎる距離感に彼女が抵抗しようとしたその時。
彼はティナを真っ直ぐ見つめた。
「俺の名前はロベート。よろしくね、ティナ」
「……私の本名はティナディア・アメリアって言うの」
ティナ自身、なぜそう言ったか分からない。
だけど、当たり前のようにティナと呼ぶ彼はもしやティナのフルネームを知らないのではないかと思ったのだ。ティナの言葉に、青年……ロベートは少し驚いた様子を見せてから、また笑った。
「知ってるよ。あの日もきみはそうやって名乗ってたから」
「じゃあ、」
「俺はティナって呼びたいな。……だめ?」
初対面の異性に愛称を呼ばれるのは落ち着かない。男女問わず、愛称を呼ぶのは友人の同性か、よほど親しい異性の友人か、あるいは恋人だと決まっている。
昨日今日会ったばかりの異性が呼ぶものではない。
ティナはそう思ったが、もう今更かしら、とも考えた。思えば彼にはずっとティナと呼ばれていた。今更呼び名を変えるのも、きっと違和感がある。
ティナはおずおずと頷いた。
「分かったわ」
「ありがとう。きみに拒否されてもそうやって呼びそうだったから……助かった」
「あなたって、不思議なひとね。どうして私に構うの?」
ティナはそれが不思議でならなかった。
Ωより数の少ないαは常にΩから秋波を送られるものだし、とにかくΩが放っておかない存在だ。
ロレリーナはきっぱりと恋人以外は不要だと言い切っているため、言いよるΩは少ない方だが、あれは稀な例だろう。
それに、ロベートはティナが今まで見たことないほど美しい顔立ちをしている。第2性別関係なく、彼のような神秘的な美貌を持つ青年はフワロー以外でも常に望まれる立場だろう。
それがなぜ、ティナを?
ティナに構う彼の真意が分からず尋ねる彼女に、ロベートは彼女の手を持ちあげて、手の甲に口付けを落とした。
まるで、騎士の挨拶のようである。
ティナはその行動にぴしりと固まった。
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