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55.嫉妬
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「──」
ヴェリュアンは、痛みを覚えたように顔を歪めた。
そして、私から視線を外し──草原を見つめた。
まるで、過去の思い出を辿るように。
やがて、彼がゆっくりと話し出す。
緋色の髪が、風にたなびく。
「……酷い男で、ごめん。きみはきっと、俺のことを思い出したと同時。あの時のことも──思い出すのだと思う。その可能性を分かった上で、知った上で……俺はきみに俺の記憶を取り戻して欲しいと願っている。きみが、過去の記憶を思い出せずとも構わない。それは、嘘偽りない本心だ。無理に思い出して欲しいとは思っていない。……でも、シドローネ」
ざぁ、と風の音が聞こえた。
急な強風に、私は思わず自身の髪を抑える。
「きゃ……」
一際強い風が吹き、それが過ぎた後、私は乱れた髪を押さえた。
瞑っていた瞳を開ける。
刹那の、強風。
その先で、真剣な眼差しで私を見る、ヴェリュアン。
力強くて、真摯で、真面目で。
何かを訴えかける、強い眼差しだった。
群青の瞳は氷のように冷たいのに、私はそれがあたたかいことを既に知っている。
彼は昔から──そう。
昔から、こうして大切な話をする時は真っ直ぐに、私を見つめ……て?
「ぁ……」
ちいさな声は、彼にまで届かなかったようだった。
「俺はきっと、きみに思い出して欲しい──あるいは、知って欲しい、と思っている。俺たちの記憶を。俺たちの出会いを。……俺が、きみに心囚われたあの夏の日のことを……。きっと……きみにも──いや、きみには、知っていて欲しいと思っている」
「──」
ヴェリュアンは、静かに言葉を続けた。
声は静かだけど、その瞳は言葉以上に雄弁だった。
群青の瞳は、星空のようで目を逸らせない。
「……俺は、自分勝手だ。俺は、きみの気持ちより、自分の感情を優先している。思い出してほしい、知って欲しい。その、気持ちを優先している。……ねえ、シドローネ。きみは……忘れてしまったかもしれないけど。俺は、ここで、きみと出会って。人生を、感情を、未来を。全部……きみに変えられてしまったんだ。俺はあの時から、ずっと、きみを──」
絞り出すような、苦しげな、声だった。
そして、その先は、言葉にならないようだった。
切実なまでな彼の想いを、感情を、感じ取った。
一瞬。
ほんの僅かに、なにか、見覚えのある光景が重なった。
あの時も、彼は──同じように、真剣な顔をして。
なにか、覚悟を決めたような顔をして。
刹那、脳裏に蘇っただけの光景は、だけどすぐに掻き消えてしまった。
それをふたたび手繰り寄せようとする前に、彼の声が聞こえてきた。
それに顔を上げる。
今の、彼が視界に映る。
「鮮烈な、記憶なんだ。きっと、俺は死ぬまで忘れない。忘れることは、できない。俺が今まで出会ったどんなひととも、きみは違った。きみは掴みどころがなくて……ふらりと現れては消えて。俺よりずっと、色んなことを知っているかと思いきや、村の子供なら誰だって知っているような簡単なことを知らなかった。……本当に、|妖精(ニンフ)でも現れたのかと思った」
「ニ、ニンフ?」
「妖精は実在するのかと、しばらく考えてたんだよ。俺は」
「そ、そうなの……」
少女だった頃の私が、妖精?
ちょっと、想像できない。
彼から見た私は、一体どんな印象だったのだろうか。
アンナや侍従の話を聞くに、昔の私はとてもお転婆だったようだ。
部屋で絵本を読むよりも外で虫や花を見ることを好み、よく話し、笑い、そこらを駆け回っていたと聞く。
大人になってからその話を聞き、私は思いもしない幼少期に絶句したものだ。
私は、彼女たちの話を聞いて、どこからどう見てもやんちゃな小娘という印象を抱いたが、もしかしてヴェリュアンの前ではまた別の姿を見せていたのだろうか。
私は、アンナたちから聞く話と、彼から聞く話に矛盾を覚えていた。
私は恐る恐る、ヴェリュアンに尋ねてみた。
「幼い頃の私は……一体どういう性格だったの?」
「太陽の……。ひだまりのような、娘だった」
彼は端的に答えたあと、視線を草原に向けた。
私も自然と、彼の視線を追う。
人の手が全く入っていないのだろう。
シロザやオオバコ、イラクサと言った草は、私の腰あたりまで伸びていて、足元には白い花や黄色い花も見える。
恐らくこれは、オルレアやカモミールだろう。
歩きにくさこそあるものの、それでも視界を閉ざされるほどではない。
だけど、幼い頃は一面が草原に見えたことだろう。
この草原の中を、私は駆けたのだろうか。
「もう一箇所、きみと行きたいところがあるんだ」
おとむろに、ヴェリュアンが切り出した。
私がそちらを見ると、彼が優しい笑みを浮かべた。
その、彼の柔らかい微笑みを見る度に。
あたたかい眼差しを向けられる度に──。
私は、早く過去を思い出したいと思う。
彼は、今の私も好きだという。
だけど、過去の──十歳の私を忘れられないのもまた、事実なのだろう。
彼が、好きだと話した私を、心囚われたと話した少女を、私もまた、知りたいと思った。
だって、悔しい。
彼の初恋は──私ではない、みたいで。
シドローネもアリアドネも、私であることに変わりない。
だけど、私には彼と出会った時の記憶がない。
彼はずっと、長年、記憶の少女に心を囚われていたのだ。
私にその時の記憶が無い以上、彼と出会い、彼と思い出を作った少女は、私ではない別人のように感じてしまう。
彼が思い出を語る度。過去の話をする度に。
まるで、別の女性の話をされているようで。
わかっている。
これはきっと、嫉妬というものなのだろう。
彼との記憶がないことに、寂しさを感じる。
それも確かだ。
だけど、それ以上に──私は、その時の記憶を取り戻したい。
彼と出会ったアリアドネになりたい、と願っているのだ。
(……いつから、こんなに惹かれてしまったのかしら)
私は自分のことなのに、戸惑っていた。
自覚したのはつい最近。
彼に好きだと告げ、彼の想いに応えたのも最近の話だ。
だからこそ、自分の感情の変化に追いつけていない。
知らない間に──気がついた時にはもう手遅れなほど、きっと私は彼に心を奪われている。
彼の視線を、優しい眼差しを受ける度に、胸がくすぐったくなって、同じくらい。
大切にしよう、と思うのだ。
彼の優しさも。その気遣いも、その、心のあたたかさも。
彼の好意を当然のものだと思ってはならない。
その想いに甘え、ただ受け取るだけではいけないのだ。
彼の優しさは、想いは、無為に消費していいものではないと思うから。
彼はそれを、当たり前のように差し出してくるけれど、きっとそれは、軽く扱われていい感情ではない。
とても、大切に。大事に──彼は私を想ってくれている。
想ってくれているからこそ。
彼の気持ちに。感情に。想いに。
私もまた、真摯にならなければならない。
「あのね、ヴェリュアン」
私は彼を呼んだ。
不思議そうに瞬く彼を見て、私は言った。
今、素直な気持ちを──この感情を、彼に伝えたいと思ったから。
「あなたのことが好き。……大好きよ」
少し恥ずかしくなって、最後の方は照れが勝ってしまったけれど。
それでも、伝えることは出来た。
微笑みを浮かべて伝えると、ヴェリュアンが驚いた顔をした。
目を見開いて──何か言おうとして。
だけど、言葉にならなかったのか。
何を言うべきか迷ったのか。
彼が口元を手で覆った。
その頬は、赤い。
彼の反応を見て、もしかして私はとんでもなく恥ずかしいことを言ってしまったのでは、と思ったが、後悔はなかった。
それでもやはり、恥ずかしいものは恥ずかしいので、私は照れを誤魔化すように彼に言う。
「そろそろ行きましょう?……暑くなってきたし」
日傘を傾けて顔を隠す。
暑いのは、ほんとうだ。
でもさっきよりも暑い気がするのは、きっと気のせいじゃないと思う。
ヴェリュアンは、痛みを覚えたように顔を歪めた。
そして、私から視線を外し──草原を見つめた。
まるで、過去の思い出を辿るように。
やがて、彼がゆっくりと話し出す。
緋色の髪が、風にたなびく。
「……酷い男で、ごめん。きみはきっと、俺のことを思い出したと同時。あの時のことも──思い出すのだと思う。その可能性を分かった上で、知った上で……俺はきみに俺の記憶を取り戻して欲しいと願っている。きみが、過去の記憶を思い出せずとも構わない。それは、嘘偽りない本心だ。無理に思い出して欲しいとは思っていない。……でも、シドローネ」
ざぁ、と風の音が聞こえた。
急な強風に、私は思わず自身の髪を抑える。
「きゃ……」
一際強い風が吹き、それが過ぎた後、私は乱れた髪を押さえた。
瞑っていた瞳を開ける。
刹那の、強風。
その先で、真剣な眼差しで私を見る、ヴェリュアン。
力強くて、真摯で、真面目で。
何かを訴えかける、強い眼差しだった。
群青の瞳は氷のように冷たいのに、私はそれがあたたかいことを既に知っている。
彼は昔から──そう。
昔から、こうして大切な話をする時は真っ直ぐに、私を見つめ……て?
「ぁ……」
ちいさな声は、彼にまで届かなかったようだった。
「俺はきっと、きみに思い出して欲しい──あるいは、知って欲しい、と思っている。俺たちの記憶を。俺たちの出会いを。……俺が、きみに心囚われたあの夏の日のことを……。きっと……きみにも──いや、きみには、知っていて欲しいと思っている」
「──」
ヴェリュアンは、静かに言葉を続けた。
声は静かだけど、その瞳は言葉以上に雄弁だった。
群青の瞳は、星空のようで目を逸らせない。
「……俺は、自分勝手だ。俺は、きみの気持ちより、自分の感情を優先している。思い出してほしい、知って欲しい。その、気持ちを優先している。……ねえ、シドローネ。きみは……忘れてしまったかもしれないけど。俺は、ここで、きみと出会って。人生を、感情を、未来を。全部……きみに変えられてしまったんだ。俺はあの時から、ずっと、きみを──」
絞り出すような、苦しげな、声だった。
そして、その先は、言葉にならないようだった。
切実なまでな彼の想いを、感情を、感じ取った。
一瞬。
ほんの僅かに、なにか、見覚えのある光景が重なった。
あの時も、彼は──同じように、真剣な顔をして。
なにか、覚悟を決めたような顔をして。
刹那、脳裏に蘇っただけの光景は、だけどすぐに掻き消えてしまった。
それをふたたび手繰り寄せようとする前に、彼の声が聞こえてきた。
それに顔を上げる。
今の、彼が視界に映る。
「鮮烈な、記憶なんだ。きっと、俺は死ぬまで忘れない。忘れることは、できない。俺が今まで出会ったどんなひととも、きみは違った。きみは掴みどころがなくて……ふらりと現れては消えて。俺よりずっと、色んなことを知っているかと思いきや、村の子供なら誰だって知っているような簡単なことを知らなかった。……本当に、|妖精(ニンフ)でも現れたのかと思った」
「ニ、ニンフ?」
「妖精は実在するのかと、しばらく考えてたんだよ。俺は」
「そ、そうなの……」
少女だった頃の私が、妖精?
ちょっと、想像できない。
彼から見た私は、一体どんな印象だったのだろうか。
アンナや侍従の話を聞くに、昔の私はとてもお転婆だったようだ。
部屋で絵本を読むよりも外で虫や花を見ることを好み、よく話し、笑い、そこらを駆け回っていたと聞く。
大人になってからその話を聞き、私は思いもしない幼少期に絶句したものだ。
私は、彼女たちの話を聞いて、どこからどう見てもやんちゃな小娘という印象を抱いたが、もしかしてヴェリュアンの前ではまた別の姿を見せていたのだろうか。
私は、アンナたちから聞く話と、彼から聞く話に矛盾を覚えていた。
私は恐る恐る、ヴェリュアンに尋ねてみた。
「幼い頃の私は……一体どういう性格だったの?」
「太陽の……。ひだまりのような、娘だった」
彼は端的に答えたあと、視線を草原に向けた。
私も自然と、彼の視線を追う。
人の手が全く入っていないのだろう。
シロザやオオバコ、イラクサと言った草は、私の腰あたりまで伸びていて、足元には白い花や黄色い花も見える。
恐らくこれは、オルレアやカモミールだろう。
歩きにくさこそあるものの、それでも視界を閉ざされるほどではない。
だけど、幼い頃は一面が草原に見えたことだろう。
この草原の中を、私は駆けたのだろうか。
「もう一箇所、きみと行きたいところがあるんだ」
おとむろに、ヴェリュアンが切り出した。
私がそちらを見ると、彼が優しい笑みを浮かべた。
その、彼の柔らかい微笑みを見る度に。
あたたかい眼差しを向けられる度に──。
私は、早く過去を思い出したいと思う。
彼は、今の私も好きだという。
だけど、過去の──十歳の私を忘れられないのもまた、事実なのだろう。
彼が、好きだと話した私を、心囚われたと話した少女を、私もまた、知りたいと思った。
だって、悔しい。
彼の初恋は──私ではない、みたいで。
シドローネもアリアドネも、私であることに変わりない。
だけど、私には彼と出会った時の記憶がない。
彼はずっと、長年、記憶の少女に心を囚われていたのだ。
私にその時の記憶が無い以上、彼と出会い、彼と思い出を作った少女は、私ではない別人のように感じてしまう。
彼が思い出を語る度。過去の話をする度に。
まるで、別の女性の話をされているようで。
わかっている。
これはきっと、嫉妬というものなのだろう。
彼との記憶がないことに、寂しさを感じる。
それも確かだ。
だけど、それ以上に──私は、その時の記憶を取り戻したい。
彼と出会ったアリアドネになりたい、と願っているのだ。
(……いつから、こんなに惹かれてしまったのかしら)
私は自分のことなのに、戸惑っていた。
自覚したのはつい最近。
彼に好きだと告げ、彼の想いに応えたのも最近の話だ。
だからこそ、自分の感情の変化に追いつけていない。
知らない間に──気がついた時にはもう手遅れなほど、きっと私は彼に心を奪われている。
彼の視線を、優しい眼差しを受ける度に、胸がくすぐったくなって、同じくらい。
大切にしよう、と思うのだ。
彼の優しさも。その気遣いも、その、心のあたたかさも。
彼の好意を当然のものだと思ってはならない。
その想いに甘え、ただ受け取るだけではいけないのだ。
彼の優しさは、想いは、無為に消費していいものではないと思うから。
彼はそれを、当たり前のように差し出してくるけれど、きっとそれは、軽く扱われていい感情ではない。
とても、大切に。大事に──彼は私を想ってくれている。
想ってくれているからこそ。
彼の気持ちに。感情に。想いに。
私もまた、真摯にならなければならない。
「あのね、ヴェリュアン」
私は彼を呼んだ。
不思議そうに瞬く彼を見て、私は言った。
今、素直な気持ちを──この感情を、彼に伝えたいと思ったから。
「あなたのことが好き。……大好きよ」
少し恥ずかしくなって、最後の方は照れが勝ってしまったけれど。
それでも、伝えることは出来た。
微笑みを浮かべて伝えると、ヴェリュアンが驚いた顔をした。
目を見開いて──何か言おうとして。
だけど、言葉にならなかったのか。
何を言うべきか迷ったのか。
彼が口元を手で覆った。
その頬は、赤い。
彼の反応を見て、もしかして私はとんでもなく恥ずかしいことを言ってしまったのでは、と思ったが、後悔はなかった。
それでもやはり、恥ずかしいものは恥ずかしいので、私は照れを誤魔化すように彼に言う。
「そろそろ行きましょう?……暑くなってきたし」
日傘を傾けて顔を隠す。
暑いのは、ほんとうだ。
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