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35.なかったことに
しおりを挟む部屋に入ってすぐ、彼が話を切り出した。
「俺には、他に想うひとがいます」
「え?え、ええ」
アンナを呼ぶ前に話し出したので、私は面食らった。
私が戸惑っている間にも、彼は話を続けた。
「俺は、十年前に会った女性……彼女のことを、今もずっと想っています。……俺は、彼女に会うために聖竜騎士になった。彼女と会うためだけに。彼女と……約束、したので」
彼は、私の方を見るのではなく、カーペットに視線を落としている。
どうやら、彼の想い人について話を聞かせてくれるようだった。
お母様と話して、なにか心境の変化があったのだろうか。
彼が自身の話をしてくれるのは、嬉しかった。
過去の話をしてくれるということは──きっと、私にそれだけ、気を許してくれているのだろうから。
過去の、彼の大事な話をしても良いと思ってもらえるくらい、私は彼と信頼関係を結べているのだ。
それを嬉しく思った。
だけど、だからこそ、こんな大切な話は立ち話でするものではないだろう。
私は彼に椅子を勧めた。
「どうぞ座って。今、アンナを呼んで──」
「シドローネ」
私の言葉を遮るようにして彼が言う。
その声の力強さに驚いて、顔を上げた。
そこには神妙な、どこか緊張した様子の彼がいた。
眉を寄せ、浅く息を吐き、呼吸を整えている。
そんな彼を見ていると、どうしてか私まで動揺してしまう。
彼がなぜ、こんなに緊張している様子なのか、分からない。
私に何を言おうとしているのだろう。
(もしかして…………)
やっぱり、その【彼女】に悪いから、私と結婚はできない──。
婚約破棄したい、と。
そう言うのだろうか。
いや、そんなことは有り得ない。
結婚式は来月だ。
結婚式を目前に控えた今、婚約破棄するなど考えられない。
私の頭に、婚約破棄、世間体、お父様への説明、親族への対応、議会への謝罪、と様々な言葉が並んでは消えていく。
いや、でも、そんなばかな。
そんなことはないわよね?
彼はそんなひとではない。
土壇場で意見を変えるようなひとでは──。
だけど、ヴェリュアンの思い詰めたような、緊張感を孕んだ様子を見ていると、あながち婚約破棄を選びとった、という可能性を否定することもできない。
彼の緊張が移ったのか、私までその空気に囚われる。
ごくり、と生唾を飲み込んだ時だった。
「例の契約、白紙にさせてくれませんか」
「…………。…………は、え?」
白紙、という言葉だけが妙に頭に残る。
なにを?
婚約……ではなくて、例の、契約?
契約って、何だったかしら。
いや、取り交わしたはずだ。
彼と、いくつかの約束事を──。
契約書の内容を思い出す。
1.互いに干渉はしないこと。
2.公の場では夫婦として応じること。
3.夫婦として、必要最低限の情報共有は行うこと。
4.子は養子を取ること。
(えっ?それを……えっと、白紙に?)
…………なぜ?
ようやく彼の言葉を理解する。
でも、理解しても、その意味までを把握することは出来なかった。
よほど私は、混乱した顔をしていたのだろう。
彼は私を見て、どこか言いにくそうに──まつ毛を伏せた。
そしてぎこちなく、それでもはっきりと、彼は言った。
「あの契約は……俺にはもう不要です。ですから、」
「ちょ……ちょっと、待って。待ってください。え?……不要?えぇと…………?」
突然のことすぎて、頭が上手く働かない。
その時。
こんこんこん、と部屋の扉がノックされた。
「失礼いたします。お嬢様、どうなさいましたか?」
部屋の外で待っていたアンナが、扉越しに私に問いかける。
すぐに呼ばれるだろうと思っていたのに呼ばれなかったから、不審に思ったのだろう。
話は遮られたが、私は彼女の声に内心、安堵していた。
少なくとも、これで彼の言葉の意味を──考えるだけの時間が得られた。
私は足早に扉に向かった。
私とヴェリュアンは、婚約者という間柄ではあるが、まだ結婚していない。
だからこそ、扉は完全に閉めていなかった。
半分開いたままの扉から顔を出して廊下を見れば、そこには心配そうな顔をしたアンナがいた。
長い付き合いの彼女の顔を見て、動揺と困惑に揺れていた感情が、ほんの少し、落ち着きを取り戻す。
「えぇっと…………。あの、アンナ」
「はい」
「…………ハーブティーを持ってきてくれるかしら。よく、眠れそうなものを」
「かしこまりました。安眠効果のあるものですね。代わりのメイドを呼びますので、それまでお待ちください」
貴族の娘が、未婚でありながら紳士と部屋でふたりきりになるのは、褒められた行動ではない。
アンナの言葉に、私はちいさく頷いた。
私が首肯したのを見ると、アンナは廊下を歩いていった。
少しもしないうちに、アンナの代わりのメイドが寄越されるだろう。
私は扉を変わらず半分開けた状態のまま、ヴェリュアンの元に向かうと──彼に言った。
「あと一ヶ月もすれば結婚して、夫婦になるというのに、こんな決まりごとを守る必要があるのか……なんだか不思議な気持ちになりますね」
……こんな話をしたいのではない。
そうなのだが、それでも、口にする前に思考する、という基本的な回路が切れてしまったかのように、ぽろりとこぼしてしまった。
「…………それは」
ヴェリュアンが気まずそうに言うのを聞いて、我に返る。
彼も、なぜこのタイミングでその話なのだろうと思ったことだろう。
自分でも何を言っているのだろう、と思った。
私はきっと、とても混乱しているのだ。
アンナと話して、ほんの僅かに冷静になれたとはいえ、それでもまだ困惑しているし、動揺している。
だって、契約を、無かったことに?
……具体的に、どの項目を?
無意味に手を開いたり閉じたりといった動作を繰り返し。
落ち着きなく視線をあちこちに彷徨わせる。
そしてやがて──私はヴェリュアンをぴたりと見つめた。
そして、ぎこちなくではあるが、核心を突く問いかけをした。
「契約を、なかったことにしたいというのは、本心ですか?」
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