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4.同じ名を持つひと

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後日、彼は約束通りシャロン公爵家を訪れた。
本来なら、未婚の娘が紳士と部屋に入る際には、目付け役も同室するのが常なのだが、それすらなく、部屋の扉も閉められてしまった。
この婚約は、父の中ではすでに決定事項、ということなのだろう。
扉が閉められる音にヴェリュアンもまた、驚いた顔をしていた。
この沈黙が長く続けば、互いに気まずくなるだけだと判断した私は、テキパキ話を進めることにした。
予め用意していた契約書を、彼の前に差し出す。

「ご確認いただけるかしら」

彼は、私の契約書を受け取り、視線を走らせる。
契約書の内容は以下の通り。

1.互いに干渉はしないこと。
2.公の場では夫婦として応じること。
3.夫婦として、必要最低限の情報共有は行うこと。
4.子は養子を取ること。

あまり細かく記しても、互いを縛るだけになってしまう。
だからこそ、おおまかにまとめたのだが、彼はどの項目が気になったのか、眉を寄せた。

「……一番と三番の項目は、矛盾しているのでは?互いに干渉しないことを決めておきながら、三番では情報共有が必要と書かれています。記されている【最低限】がどの範囲のものか確認しておきたい」

「そうですね。確かにそれは大切です。私の思う必要最低限の情報共有、というのは夫婦として知っておくべきこと。裏を返せば、知らないと周囲に怪しまれてしまう──不仲なのでは、と勘ぐられてしまうような事柄を示します。例えば、あなたが空軍で昇格したとして、それを私が知らないのはおかしいでしょう?そういった事務的なことです」

「なるほど。理解しました。つまり、お互いのプライベートには踏み込まない、ということでよろしいですか?」

「もちろんです」

頷くと、彼は納得した様子を見せた。
ここまで、彼も私も着座していない。
私の方は、彼が座らなかったので立っているだけなのだが、彼の方は長居する気がない、ということだろう。

「では、次に四番目の項目です。後継について、養子を取ると書かれていますが、それは周囲の批判を買うのでは?社交界に疎い私でも分かります。シャロン公爵家は古くから続く、格式高い家柄だ。その直系の血を、ここで絶やすのは大きな反感を買う」

「私に子が出来なければどうしようもないでしょう。直系の血は絶えるかもしれませんが、親戚から養子を取れば、完全に血が失われることはありません」

そこまで言うと、そこでようやく、彼は紙面から顔を上げた。
そして、どこか言いにくそうにしながら言葉を続けた。

「それは──あなたは、謂れのない謗りを受けるつもりでいる、と?」

だいぶ言葉を濁したが、彼の言いたいことは伝わった。私は頷いて答える。

「石女と悪口を叩かれることは構いません。もともとこのお話は、私から申し出たものです。この程度のことは想定範囲内です。あなたに話をした時から、こうなることは分かっていました」

「…………」

「それとも、あなたが私に子を授けてくれますか?」

まさか、そんなこと出来るはずがないでしょう?
そんな思いで淡々と尋ねると、予想通り彼はぎょっとした様子で私を見た。
そして、顔を青ざめさせて首を横に振る。

「いや、それは」

「冗談です。私を気遣っていただけるのは有難いですが、こればかりはどうしようもないことですし。これはこれ、と割り切ってください」

私の言葉に、彼はなにやら複雑そうな顔──納得のいかなそうな顔をしていたが、やがて諦めたのか、ため息を吐いた。

「…………なんというか、あなたには驚かされてばかりです。あなたは、私以上に逞しい精神をお持ちでいらっしゃる」

「ありがとうございます」

「署名は、この欄にすればよろしいですね?あと、血印は押しません」

そこで彼は、ようやくソファに腰掛けた。
私もその対面に腰を下ろすと、彼がペンスタンドから羽根ペンを抜き取った。

「なぜ?」

「これでも私は、聖竜騎士です。騎士を名乗るものとして、女性に血を流させるわけにはいきません」

あら……。
思っていたより、心優しい青年のようだ。
私は驚いて目を見開いた。
口元に手を当て、ぱちぱちと瞬きを繰り返す。
彼はキザな発言をした自覚は無いのか、長い緋色の髪を鬱陶しそうに耳にかけると、さらさらと自身の名を記した。

【ヴェリュアン・ヴィネハス】と。

彼は、元は平民だと聞いていたが、その字は想像以上に綺麗だった。
その美しさは、貴族と遜色ない。

幼い頃に、誰かに習っていたのかしら……?

平民でありながら、美しい文字を書く彼に疑問を掻き立てられながら、私も続いて自身の名を記した。

【シドローネ・アリアドネ・シャロン】

さらさらと自身の名を記すと、彼は私の書いた文字を見て「アリアドネ……?」と不思議そうに呟いた。
署名し終えてから、顔を上げる。

「はい。私の真名です」

「真名……?」

なおも困惑した様子を見せるので、私は頷いて答えた。

「ヴィネハス卿は、ご存知ないのですね。我がロザリアン国の貴族は、みな、真名を持っているのです。貴族の間では、五歳までは神の子と考えられており、仮の名を与えられます。六歳となってすぐ、神の子から人の子となるために教会で洗礼を受けるのですが、そこで初めて、ひととしての名を持つことになります。昔は、平民も貴族と変わらず真名を持ち、六歳を迎えると洗礼を受けていたと聞きましたが、その習慣は失われているようですね……」

最後の方は半ば、独り言のように呟く。

真名は本来、ひとに明かすものではない。
真名を知るのは両親と、名を授けた司祭、そして神の前で将来を誓う伴侶のみと定められている。
彼が私の真名を知らないのはそのためだ。

私が説明するも、ヴェリュアンはほかに気になることがあるのか、呆気にとられた様子を見せた。

「……ヴィネハス卿?」

待てど暮らせど、彼から反応がないので彼を呼ぶと、弾かれたように顔を上げた。

「っ……いえ、あの──知り合いと……似ている名でしたので、少し驚いて」

「ああ……。アリアドネは、【アリアドネの糸】が有名ですものね。私もその神話にあやかって名付けられたと聞きますし。ファーストネームにしてる方も多くいらっしゃるわね」

【アリアドネの糸】は、古代、国に住まう怪物、ミノタウロスを倒す際に王女アリアドネが弄した策のことだ。
ミノタウロスを倒すために国を訪れたテセウスは、アリアドネから貰い受けた糸のおかげで、迷宮を迷わず抜けることが出来た。
そのことから、アリアドネの糸は【難事を乗り越える道標】という意味が見出されている。
私の真名もその名にあやかってつけられたもの。

彼はなにか思うことがあるのか、視線をさまよわせていたが、やがてぴたりと私を見た。
そして、やけに真剣な面持ちで私に尋ねた。

「……アリアドネ、という名を持つ女性は社交界にどれほどいるのですか?」

社交界に疎いと自身で言っていたとおり、彼は貴族の名を完全に把握しているわけではないようだった。
彼と夫婦になったら、社交は主に私の仕事となるだろう。
これでも公爵家の一人娘として育てられたので、問題は無い。

私は顎に指先を当てながら、社交界の面々を思い出す。

「いち、に……。そうですね、私の知る限りでも四名はいますね。といっても、私が知っている方は、私が社交界デビューしてから現在までの間に、王都で開かれた夜会に顔を出された方たちのみ。貴族図鑑を検めれば数はもっと増えるのではないかしら。アリアドネ、という名はよくある名前ですし、その名が持つ意味から名付けられる方は私の他にもたくさんいそうですね」

「……そう、ですか」

「…………。その名になにか、気になることでも?」

互いに詮索しない、という約定を取り決めたばかりではあったが、やけに【アリアドネ】という名を気にする彼に、私も少しばかり興味が湧いた。
尋ねると、彼はまつ毛を伏せ、私から視線を外した。
そして、歯切れ悪く言う。

「いえ。……知り合いにもその名を持つひとがいるので。少し気になっただけです」

「……そう」

おそらく、尋ねられたくないことだったのだろう。
互いに詮索しない、という契約を結んだばかりだ。
それにも関わらず、踏み込んだ質問をしてしまったことを私は反省し、すぐに引き下がった。
契約結婚の話がまとまったばかりなのだ。
彼とはビジネスパートナーとして、良好な関係を築いていきたい。

「では、契約は成されたということで──よろしくお願いします。ヴィネハス卿」

「……こちらこそ、よろしくお願いします。ミス・シドローネ」

にこりと笑いかけると、彼もまた微笑みを返してくれた。

──こうして、私と彼の契約結婚は成されたのだった。
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