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一章

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「っ………!」
 はっとして気がつくと、エドレオンが彼の前にいた。
エドレオンはヴィルヘルムを覗き込むようにしてこちらを見ていた。エドレオンの本当に心配したな瞳がヴィルヘルムを見る。
外は雪が降っているのに、ヴィルヘルムは汗をかいていた。いや、これは脂汗だ。
「エドレオンか」
「大丈夫か!? おい、誰か侍医を」
「ニルシェが」
 エドレオンの言葉を遮り、うわごとのようにヴィルヘルムが言う。
「は?」
「ニルシェは、いま、っ……!」
「あ、おい………! ヴィルヘルム!!」
 ヴィルヘルムは全て思い出していた。
 記憶が、完全に戻り、視界がクリアになる。だけど、状況への理解が追いつかない。
なぜ、自分は忘れていた。
どうして、ニルシェは嘆きの塔にいる。なぜ。何があった。なにが……! 
 (なぜ、私はアロアを………。いや、僕はアロアを娶ろうなんて真似を)
 後悔と深い怒り、悲しみでどうにかなりそうだった。
ニルシェは嘆きの塔だ。そして………
 ──王妃殿下が! 王妃殿下が、嘆きの塔に! 毒をお持ちです!
 状況への理解はまだ完全にできていないが、状況はんだだけは早かった。
「くそっ………間に合ってくれ………。頼む…………!!」

 嘆きの塔にたどり着くと、入口で控えている騎士をかき分け、彼は階段をのぼっていった。
長い石階段をかけのぼるとやがて息は切れてきたが、それでも彼は走った。
 息が切れて、口内に血の味が広がる。
走ることで全身に血が巡り、肺にも血が巡ったことで、血の味がしているのだ。
 嘆きの塔の最上階はあまりにも遠く、ヴィルヘルムは懸命に駆けた。
 
 ***
 
 外は大雪だ。
もう少しすれば吹雪になるだろう。
 魔女が窓の外を見ていると、背後から青年が出てきた。年の頃はまだ成人前か、成人後か───とにかく歳若い。
「あんたも人が悪い」
それを聞いて、魔女はため息混じりに答えた。
「あら、私は何もしてないわよ」
「あんたはいつだって大切なことを言わない」
 金髪の青年はそう言いながら魔女の座るソファに、人一人分の距離を開けて座った。
 魔女はそんな青年をつまらなそうに見て、爪を見た。
金色のネイルはお気に入りだが、そろそろ飽きてきた。
次はあの娘の髪のような赤なんかもいいかもしれない。
「大切なこと、ね」
「あの魔法は解けるだろう」
 青年が言う。
それに魔女は口端を持ち上げて笑った。
「解けないわよ? ずぅっ……とね」
「───依頼者本人が死ぬまでは、だろ。それが抜けている」
 魔女は青年の返答につまらなそうに視線をよこした。
自分の娯楽が取り上げられたかのような顔だ。
青年はそれには取り合わずに、紅茶に手を伸ばす。
そして甘、と苦言を呈した。
「相変わらずクソまずいな。この紅茶」
「あら、私が作った紅茶に文句つけないでよ、これでも頑張ったのよ。薬の味を消すために」
「じゃあこれあれか。あんたが寝ずに開発してた───」
 青年は苺の香りが漂う紅茶をテーブルの上に戻した。
嫌そうな顔をしている。それを魔女は楽しそうにみていた。
「そうそう、ちょっとだけ、頭の思考回路を疎かにするお薬。侍女には必要なかったけど流石に王太子妃には必要でしょう」
「あんたは悪魔だな」
「やだ、魔女よ」
 魔女はいつの間にか取り出したネイル瓶を指の中で弄ぶ。
そしてふと顔を上げた。
 魔女は全てを知っている。
だから今、何が起きたのかもしっかりと理解していた。
「あら………残念。魔法が解けるわ」
「は? じゃあ………」
「死んだわね。あの女。死んで───魔法が解けた。やけにあっさりいったわね」
 魔女は天気の話でもするかのように言った。
 そう、魔女はいつだって言葉足らず、で大切なことを言わない。
『解けないわよ? ずぅっ………とね。依頼者が死ぬまでは』
 最後の一文こそが一番大事なのに、魔女はあえて言わない。
 それこそが魔女の狙いだからだ。
魔女が代償に求めたのは、王太子の不幸。
それは、過去、王家に裏切られた魔女の復讐でもあった。
 魔女は隣に座る青年の頬に触れた。
青年は何も言わない。
「ふふ。似てきたわね」
「………父親にか?」
「そう」
 魔女はそれしか言わなかった。
 
◆ ◆ ◆
 
 やがて、季節が移ろい、新国王が王冠をいただいたと情報が入った。
アヴィゲイル・シンメトリー。それが次の国王の名前だ。
前国王の弟の息子。王太子にとっては従兄弟にあたる。
 国王の病による崩御。
 王妃と公爵の馬車事故による訃報。
 そして王太子の落馬の訃報と、不吉な話題が連続した王都ではやっと花のさかりと言わんばかりに活気を取り戻しつつあった。

 季節がいくつか変わったある日、東の森に客が訪れた。
「来る頃だと思っていた。初めまして。私の可愛い可愛い、息子よ」
 魔女は、魔法を唱えて姿を変えることなく彼の前へと現れた。
魔女の見た目は異様だった。
 身体中に変色した痣があり、顔は水ぶくれが破れたかのような跡があちこちに散見された。
目は細く、鼻は蜂に刺されたかのごとく膨れ、唇は厚い。
見るものが顔をひそめるような、そんな容姿だった。
 対面しているのは先日訃報が王都中に届いたばかりの、元王太子であるヴィルヘルム・シンメトリーだった。
彼の後ろには物々しい騎士が幾人も控えている。
「……お前が東の魔女か?」
「そう呼ばれていたかもね」
「お前が………ニルシェに妙な力を貸したのか」
「あらあら、そう。全部知ってるのね。流石アルバートの子孫だけあるわ。ことの運び方が一緒だもの」
 魔女は嬉しげに笑い、ヴィルヘルムを見た。
その細く小さな瞳は愛おしくて愛おしくてたまらない、という顔だった。
ヴィルヘルムはその顔に、眉をひそめたが、もう一度魔女を見る。
「お前の成した行為は禁忌に触れる。他者の想いを操る術など、あってはならない──僕はそう考える」
「あら。私はあくまで方法を提示しただけよ。選んだのはあの娘」
「それで? お前の力が危ういことに変わりはない。お前のような力を持っているものがいれば、いずれ世の中に混沌を生み出す。僕は、そうなる前に手を打ちに来た。王太子として、王族として最後の責務だ。共に来てもらおうか」
 ヴィルヘルムが腰にさした剣に触れる。
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