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一章
19
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ヴィルヘルムが戻り、部屋には静寂が戻ってきた。
この部屋は、あまりにも静かだ。自殺防止のためにつけられた窓は天高くにあり、格子がつけられ、さらに防音素材が嵌め込まれているのか、外の天気も分からない。
だけど体温を奪っていく冷たい気候から、雨が降っているのではないかと察した。
今は何日なのか。
ニルシェがここに来てから何日たったのか。
朝も夜も薄暗いこの部屋では、時間感覚などない。
腹部は痛み、全体的にちくちくと刺すような痛みがする。食欲は全くもってない。
ヴィルヘルムの言葉を思い出す。
──あなたはそれでいいかもしれない。だけど、その子供は。
そっと自分のお腹に手を触れる。
産むことは叶わないだろう。
それからまたしばらくして、唐突に扉が開かれた。バァン! とあまりの勢いの強さに少し驚いた。
そちらを見れば、ヴィルヘルムではなかった。彼はこんな乱暴な開け方はしない。
そこに居たのはこの国の王妃だった。
「王妃殿下……」
小さく、ぽつりと言葉が漏れる。
細面の王妃は室内を見渡して、眉をしかめた。
「なぁにこの部屋。薄汚いわ」
「……」
「王妃殿下、お控えください。ここに入るには許可が……」
「黙りなさい雑兵! いいこと? わたくしのやることに指図しようなんて自惚れがすぎるのよ。身分の違いというものを知りなさい」
王妃はそれだけ言うと、部屋に入ってきた。
牢番は止めない。
いや、止めることができない。
王妃を止めることが出来るのは国王だけだ。陛下も恐らく、今回の件について既に耳に入っているだろう。ニルシェは国王が既に死していることを知らない。
(昔、優しくしていただいた……)
ニルシェは、国王の信頼を裏切ったことにも苦しくなる。
王妃はニルシェの前に立ち、小瓶を差し出してきた。
ガラス細工の美しい小瓶だ。
中には、紫がかった液体がゆるやかに揺れている。
「飲みなさい」
「王妃殿下!」
牢番が流石にそれは、と王妃の行動を止めようとする。
しかしその制止は王妃の鋭い声によって消されてしまう。
「黙れ! 雑兵ごときがわたくしに指図するな!」
牢番は右に左に狼狽える。
やがて、ひとりが慌てたように階段をおり出した。恐らく、国王に報告に行くのだろう、とニルシェは思った。
少女は王妃の差し出した小瓶を見る。
「これは」
「毒よ。処刑待ちのわたくしの可愛い娘へ、プレゼント」
王妃の紅を塗った唇が弧を描く。
(毒。毒、どく……──)
王妃は、小瓶を香油でも入ってるかのような手つきで揺らしてみせた。中の液体がとぷとぷと揺れる。
「………頂けません」
ニルシェが断ると、王妃の雰囲気ががらりと変わる。
蔑むような、見下すような目つきだ。気温がぐっと下がったかのような錯覚を覚える。
そして、次に王妃が言った言葉はあまりにも冷たく響いた。
「断れる立場だと思って?」
「それは正式な判決ですか」
「黙りなさい。口答えは許さない」
「私は、司法の判決を待ちます」
「どちらにしよ死刑だわ。ならさっさと死になさい」
「いいえ。まだ」
「このっ………」
ばしん、とテーブルが叩かれる音が聞こえる。
王妃殿下が怒りのままに叩きつけたのだろう。
そして、ふー、ふー、と呼吸を整えると、王妃殿下は取り直すようにニルシェに話しかけてきた。興奮のあまりその声は上ずっている。
「この期に及んでみじめな真似を……! 潔く死ねばいいものを! いいわ。でもあなたの家族がどうなってもいいの」
「………」
「あなたの生家は公爵家。栄誉ある生まれでしょう? このままならあなたの家は取り潰し………いえ、ヴィルヘルムの一存で一家全員処刑になることも有り得るわ」
「いいえ。そのようなことにはなりえません」
「なに?」
「殿下は、そのようなことはいたしません。殿下は立派な方です。判決に私情を挟むようなことは」
ばしん! とニルシェの耳元で音が聞こえた。ついで、じわじわと頬が熱を持つ。それで彼女は叩かれたのだと知った。
目の前の王妃は目元を赤らめて、激怒していた。
王妃は焦っていた。国王がなくなっていることを彼女は知っている。
なにせ遺体発見は王妃だったからだ。国王亡き後、国政は息子であるヴィルヘルムが継ぐだろう──。
王妃は自身の浪費をヴィルヘルムに諫められ、自由になる金が減ったことを不満に思っていた。
そこで、彼女は自身の操り人形となる娘と結婚させればいいと目論んだのだが、ニルシェは王妃の言うことを聞きそうにない。
アロアはまだマシった。多少癇癪持ちだが、操れないことはない。
王妃はこのままであればうまい具合に王妃に配分される金の増幅を計れると思っていた。
しかしここにきてアロアは死に、ニルシェは判決待ちとなった。
このままではニルシェは死刑となることは誰の目にみてもあきらかだが、なぜかヴィルヘルムは取り調べをしたのちに判決を下すと話した。
愛妻を殺されてこの落ち着きようは異常だ。
これ以上、予想外のことが起きては困る。ここでニルシェには死んでもらい、次こそ王妃の息のかかった娘を娶ってもらわねば。
王妃は焦っていた。ニルシェを叩いたその手は小刻みに震えている。
「うるさうるさい! どちらにせよ、お前の家は取り潰しだ! そして、貴族界から追放! 最低ね! 恩を仇で返す親不孝者!」
「………」
「今飲みなさい。今! 今飲め! そうすれば私が情状酌量の余地を陛下にかけあってあげるわ! 家格取り潰しとまではならないわ。あなたは家族が路頭に迷って、お母上が売春宿に売られ、お父上は採鉱に行って、兄上は貧しい暮らしに心身ともに窶れ、衰弱死してもいいというのか!」
「それは」
「子のみならず家族まで不幸にするか! お前は悪魔の娘だ! 全てを不幸にさせる!」
ニルシェは怒涛のように流れる言葉に何も言い返せない。
(すべてを不幸にさせる)
確かに、ニルシェは全てを不幸にさせた。
不幸にさせたくないから魔女の援けを願ったのに、結果、周りを巻き込んで不幸にした。ニルシェの家族だけじゃない。ヴィルヘルムも、巻き込んでしまったアロアも。
そして、ニルシェの、子も。
言葉を無くすニルシェに、王妃が小瓶を握らせる。
ゾッとするほど強い力だった。
「っ……! 王妃殿下、やめ………」
「いいから飲め! 飲め! そうしないと私は………!」
「なにっ、や……! 離して……!!」
次第に王妃と揉み合いになり、焦れた王妃は小瓶の蓋を開けた。
そして、ニルシェの首裏をがっしりと掴むと、強い力で引き寄せてくる。
ニルシェは抵抗しようとしたが、衰弱していたゆえに反抗できない。ニルシェがもがいているうちに中身を飲み込んでしまう。
「っ……!! げほっ、こほ……ッ……」
「よし、よし………! やった、やったわ!!
これで話私は………! おいそこのお前! 今のは見なかったことにするように。さもなくばお前の命はない!!」
「ひぃっ」
牢番の声がする。
ニルシェはうめいた。
めまいが酷い。重心がぶれて、気がついたら石造りの地面に頬が当たっている。
知らぬ間に倒れていたようだ。
だけど音は聞こえなくて、酷く遠い。
目を開けることも叶わない。まるで、高熱を出した時のようだ。手足の感覚が鈍い。
誰の声も聞こえない。誰の、声も……。
毒を吐き出さなければ。
そう思うのに、指先はぴくりとも動かない。鼻がつんとして、口元に熱いものがかかる。
微かに赤いものが目に入って、噎せて、血を吐いたのだと知る。
だけどその一連の流れはまるで暴風雨のように激しく、忙しなく、やがてニルシェは意識を失った。
この部屋は、あまりにも静かだ。自殺防止のためにつけられた窓は天高くにあり、格子がつけられ、さらに防音素材が嵌め込まれているのか、外の天気も分からない。
だけど体温を奪っていく冷たい気候から、雨が降っているのではないかと察した。
今は何日なのか。
ニルシェがここに来てから何日たったのか。
朝も夜も薄暗いこの部屋では、時間感覚などない。
腹部は痛み、全体的にちくちくと刺すような痛みがする。食欲は全くもってない。
ヴィルヘルムの言葉を思い出す。
──あなたはそれでいいかもしれない。だけど、その子供は。
そっと自分のお腹に手を触れる。
産むことは叶わないだろう。
それからまたしばらくして、唐突に扉が開かれた。バァン! とあまりの勢いの強さに少し驚いた。
そちらを見れば、ヴィルヘルムではなかった。彼はこんな乱暴な開け方はしない。
そこに居たのはこの国の王妃だった。
「王妃殿下……」
小さく、ぽつりと言葉が漏れる。
細面の王妃は室内を見渡して、眉をしかめた。
「なぁにこの部屋。薄汚いわ」
「……」
「王妃殿下、お控えください。ここに入るには許可が……」
「黙りなさい雑兵! いいこと? わたくしのやることに指図しようなんて自惚れがすぎるのよ。身分の違いというものを知りなさい」
王妃はそれだけ言うと、部屋に入ってきた。
牢番は止めない。
いや、止めることができない。
王妃を止めることが出来るのは国王だけだ。陛下も恐らく、今回の件について既に耳に入っているだろう。ニルシェは国王が既に死していることを知らない。
(昔、優しくしていただいた……)
ニルシェは、国王の信頼を裏切ったことにも苦しくなる。
王妃はニルシェの前に立ち、小瓶を差し出してきた。
ガラス細工の美しい小瓶だ。
中には、紫がかった液体がゆるやかに揺れている。
「飲みなさい」
「王妃殿下!」
牢番が流石にそれは、と王妃の行動を止めようとする。
しかしその制止は王妃の鋭い声によって消されてしまう。
「黙れ! 雑兵ごときがわたくしに指図するな!」
牢番は右に左に狼狽える。
やがて、ひとりが慌てたように階段をおり出した。恐らく、国王に報告に行くのだろう、とニルシェは思った。
少女は王妃の差し出した小瓶を見る。
「これは」
「毒よ。処刑待ちのわたくしの可愛い娘へ、プレゼント」
王妃の紅を塗った唇が弧を描く。
(毒。毒、どく……──)
王妃は、小瓶を香油でも入ってるかのような手つきで揺らしてみせた。中の液体がとぷとぷと揺れる。
「………頂けません」
ニルシェが断ると、王妃の雰囲気ががらりと変わる。
蔑むような、見下すような目つきだ。気温がぐっと下がったかのような錯覚を覚える。
そして、次に王妃が言った言葉はあまりにも冷たく響いた。
「断れる立場だと思って?」
「それは正式な判決ですか」
「黙りなさい。口答えは許さない」
「私は、司法の判決を待ちます」
「どちらにしよ死刑だわ。ならさっさと死になさい」
「いいえ。まだ」
「このっ………」
ばしん、とテーブルが叩かれる音が聞こえる。
王妃殿下が怒りのままに叩きつけたのだろう。
そして、ふー、ふー、と呼吸を整えると、王妃殿下は取り直すようにニルシェに話しかけてきた。興奮のあまりその声は上ずっている。
「この期に及んでみじめな真似を……! 潔く死ねばいいものを! いいわ。でもあなたの家族がどうなってもいいの」
「………」
「あなたの生家は公爵家。栄誉ある生まれでしょう? このままならあなたの家は取り潰し………いえ、ヴィルヘルムの一存で一家全員処刑になることも有り得るわ」
「いいえ。そのようなことにはなりえません」
「なに?」
「殿下は、そのようなことはいたしません。殿下は立派な方です。判決に私情を挟むようなことは」
ばしん! とニルシェの耳元で音が聞こえた。ついで、じわじわと頬が熱を持つ。それで彼女は叩かれたのだと知った。
目の前の王妃は目元を赤らめて、激怒していた。
王妃は焦っていた。国王がなくなっていることを彼女は知っている。
なにせ遺体発見は王妃だったからだ。国王亡き後、国政は息子であるヴィルヘルムが継ぐだろう──。
王妃は自身の浪費をヴィルヘルムに諫められ、自由になる金が減ったことを不満に思っていた。
そこで、彼女は自身の操り人形となる娘と結婚させればいいと目論んだのだが、ニルシェは王妃の言うことを聞きそうにない。
アロアはまだマシった。多少癇癪持ちだが、操れないことはない。
王妃はこのままであればうまい具合に王妃に配分される金の増幅を計れると思っていた。
しかしここにきてアロアは死に、ニルシェは判決待ちとなった。
このままではニルシェは死刑となることは誰の目にみてもあきらかだが、なぜかヴィルヘルムは取り調べをしたのちに判決を下すと話した。
愛妻を殺されてこの落ち着きようは異常だ。
これ以上、予想外のことが起きては困る。ここでニルシェには死んでもらい、次こそ王妃の息のかかった娘を娶ってもらわねば。
王妃は焦っていた。ニルシェを叩いたその手は小刻みに震えている。
「うるさうるさい! どちらにせよ、お前の家は取り潰しだ! そして、貴族界から追放! 最低ね! 恩を仇で返す親不孝者!」
「………」
「今飲みなさい。今! 今飲め! そうすれば私が情状酌量の余地を陛下にかけあってあげるわ! 家格取り潰しとまではならないわ。あなたは家族が路頭に迷って、お母上が売春宿に売られ、お父上は採鉱に行って、兄上は貧しい暮らしに心身ともに窶れ、衰弱死してもいいというのか!」
「それは」
「子のみならず家族まで不幸にするか! お前は悪魔の娘だ! 全てを不幸にさせる!」
ニルシェは怒涛のように流れる言葉に何も言い返せない。
(すべてを不幸にさせる)
確かに、ニルシェは全てを不幸にさせた。
不幸にさせたくないから魔女の援けを願ったのに、結果、周りを巻き込んで不幸にした。ニルシェの家族だけじゃない。ヴィルヘルムも、巻き込んでしまったアロアも。
そして、ニルシェの、子も。
言葉を無くすニルシェに、王妃が小瓶を握らせる。
ゾッとするほど強い力だった。
「っ……! 王妃殿下、やめ………」
「いいから飲め! 飲め! そうしないと私は………!」
「なにっ、や……! 離して……!!」
次第に王妃と揉み合いになり、焦れた王妃は小瓶の蓋を開けた。
そして、ニルシェの首裏をがっしりと掴むと、強い力で引き寄せてくる。
ニルシェは抵抗しようとしたが、衰弱していたゆえに反抗できない。ニルシェがもがいているうちに中身を飲み込んでしまう。
「っ……!! げほっ、こほ……ッ……」
「よし、よし………! やった、やったわ!!
これで話私は………! おいそこのお前! 今のは見なかったことにするように。さもなくばお前の命はない!!」
「ひぃっ」
牢番の声がする。
ニルシェはうめいた。
めまいが酷い。重心がぶれて、気がついたら石造りの地面に頬が当たっている。
知らぬ間に倒れていたようだ。
だけど音は聞こえなくて、酷く遠い。
目を開けることも叶わない。まるで、高熱を出した時のようだ。手足の感覚が鈍い。
誰の声も聞こえない。誰の、声も……。
毒を吐き出さなければ。
そう思うのに、指先はぴくりとも動かない。鼻がつんとして、口元に熱いものがかかる。
微かに赤いものが目に入って、噎せて、血を吐いたのだと知る。
だけどその一連の流れはまるで暴風雨のように激しく、忙しなく、やがてニルシェは意識を失った。
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