〈完結〉過ちを犯した王太子妃は、王太子の愛にふたたび囚われる

ごろごろみかん。

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一章

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しかし、彼女はまだそれに気づかない。
 魔女が欲した代償とはなんだったのか。
魔女が善意で人を助けるはずがない。魔女はそんなに甘くないのだ。
 魔女は、享楽的で、自分の愉しみのためなら何でもする。
すなわち、この後に起こることが魔女をたのしませることになると───この時。
 気がついていたのなら。
「おひとつ伺わせてください。途中で突然、効能が切れたりすることはあるのですか」
「ああ、突然あんたとそのなんちゃらって娘への感情が戻る可能性ってことかい?」
 既にアロアの名前を覚えていないのか、故意なのか、魔女はそう言った。アロアの名前は覚えにくいものでは無いし、故意だろうとニルシェは思った。
「ないよ。ずぅっ……とね」
 含みのある声で魔女が答える。
「ありがとうございます」
 にやにやと笑う魔女にニルシェは黙った。まだ迷いがあるのかもしれない。当然だ。
冷静に考えればおかしいことだとわかる。
しかし彼女はもう冷静に考えることなどできなかった。
魔女がタイムリミットを知らせるようにテーブルを数回叩いた。
コンコンコン! と強い音が響く。
「契約は破談かえ」
 魔女が最初からわかっていた、とでもいうような口調で言う。
「残念だが時間切れ──」
「待ってください。今書きます」
ニルシェは焦ってペンを動かした。魔女が見えない口元で嗤った。
ニルシェは震える指で名前を書いていく。
 文字は歪み、ところどころインクが滲んでいる。ニルシェがカクカクとおぼつかない字で名を書き終えると、同時に文字が薄く光を放った。
魔道具なだけあってただの玩具ではないということだ。
 ペンを置くと、魔女がおもむろに切り出した。
「あんたは許されない罪を犯した」
「………」
 何を今さら、とニルシェには思う。魔女は続けた。楽し気な口調で。
「ひとの感情を人間の分際で操ろうなど、おこがましいとは思わないのかね」
「私は、その罪を負って、生涯を生きます」
 ニルシェは毅然と答えた。
尤も、彼女の言う生涯とやらはあまり長く。
魔女はつまらなそうに鼻を鳴らす。
「フン、相手を思いやるのが愛っていうんなら」
 魔女は爪先で木版を弾いた。
 途端、木版の中の針に光が走る。ニルシェとアロアと書かれた窪みへと矢印の光が向かっていき、消えた。それは厳かで神秘的で、そして薄気味悪い光景だった。
「──傲慢だね」
 魔女のその言葉だけが響く。
 ニルシェは黙っていた。
 
◆ ◆ ◆
 
 ニルシェが城に帰ると、特に変わったことはなさそうだった。何も変わっていないように見える王城。だけどあれ・・はお遊びなんかじゃない。
 しっかりと魔女が用意した、本物の魔道具だ。
 確実に変わっているだろう。ヴィルヘルムのニルシェへの想いと、アロアへの想いが。

 一週間もしないうちに、王城にいくつもの噂が立ち込めた。
 それは辺境に移り住んだアロアが第二妃に召されるというもの。
 他には『本当はヴィルヘルムはニルシェではなくアロアを愛していて、婚姻後もふたりの逢瀬は続いていた。今回の視察はアロアに会いに行くためだ』という噂も流れ始める。
 周りが気づかわし気な視線を送る中、ニルシェはただその日を待った。
 日にちがたって、ヴィルヘルムが帰城する日が近づいてくる。
 そして、ついに、ヴィルヘルムが帰城した。満月の綺麗な夜だった。

 夜、公務から帰ってきたヴィルヘルムと顔を合わせた時だった。
 彼は部屋に入ると、まずニルシェを見た。その時ニルシェはソファに座って読書中だったから帰城したヴィルヘルムに気がついてはっと顔を上げた。
「……お帰りなさい」
 ニルシェの声は震えた。
 魔女の魔法が本物ならば、今、ヴィルヘルムのニルシェへの思いは、そのままアロアへの思いになっているということ。
「いたのか。あなたに話がある」
 ニルシェに向けられた視線は、驚くほど冷たいものだった。
ニルシェは思わず息をのむ。ヴィルヘルムは今まで見たことがないほどに冷たい目をしていた。真冬の湖よりも冷たく、強い怒りを内包した目だ。
 ヴィルヘルムのニルシェに対する感情は、元は対アロアに対する感情のものなはず。それならば、ヴィルヘルムはアロアをこのように冷たい瞳で見ていたというのか。
 ニルシェはたどり着きたくない正解を見つけてしまった。
 ヴィルヘルムはそれには構わず、前髪をくしゃりとかきまぜた。
「……私は今まで、どうかしていた。お前のような娘を召し上げ、更には王太子妃にするとは。私は愚かだ……。幻術かなにかにでも囚われていたのかと、そうとしか思えない。いいや、そうだったらどんなにいいだろうね。ねぇ、ニルシェ?」
「ヴィルヘルム……」
 思わず声が滑り落ちた。
 呆然としたニルシェに、対してヴィルヘルムは短く切り捨てた。
「呼ぶな。お前が呼ぶことは許可していない」
ニルシェを見る目は汚物を見るそれだ。これ以上ないほどに冷たく、見るのも嫌だと言うような顔をしている。
 ありありと察せられる嫌悪に充ちた空気。この場所にいるのも嫌だと、彼の瞳が、そう言っていた。ヴィルヘルムは舌打ちをした。
「──くそ。最悪だ。ほんとうに、さいあくだ……。何もかも忘れてしまいたい。お前を………ッ。吐き気がする!」
 ヴィルヘルムはそう言い切ると、部屋から出ていった。
部屋を出ていったあと、「殿下!」と彼を呼び止める声が遅れて聞こえてきた。
 ニルシェはただ茫然としていた。

 ヴィルヘルムはそれから一度も寝室に戻ることは無かった。
 それからヴィルヘルムはあからさまにニルシェを避けた。顔を合わせれば露骨に嫌そうな顔をし、まるで羽虫でも見かけたかのように方向転換する。
 全てが変わった。
 ニルシェはようやく自分の失態に気が付いた。
 ヴィルヘルムはアロアを嫌っていたのだ・・・・・・・・・・・・・・・・・。それも、蛇蝎のごとく。
 そんな相手とニルシェへの感情を入れ替えてしまった──。ニルシェは血の気が引く思いだった。

 王城は、突然の王太子の心変わりにみな驚いていた。特に王太子側近でニルシェとヴィルヘルムの幼馴染でもあるエドレオンは何かあったのかとニルシェを心配した。
 マゼンタ色の髪を後ろでひとつにまとめているエドレオンにニルシェは首を振る。誰にも本当のことなど言えなかった。
 (どうしたら、いいのだろう)
 ニルシェはただ焦った。ニルシェに残された時間は短い。
 それから少しして、城内にヴィルヘルムが第二妃を娶ると噂話が流れた。
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