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一章

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「!」
「というか、どこの世界探してもンなもん作れる魔女はいないのさ。摂理に反すると淘汰されちまうからねぇ」
「理屈は承知しました。それで、その木の板は」
 先程惚れ薬を作れると言っていなかっただろうか。そう思っても、作れないものは仕方ない。それより、彼女が出てきた木版が気になった。
 魔女は手に持った木版に息をふきかけ埃を落とすような真似をした。そしてそれを小さな丸テーブルに置く。
「せっかちな娘だねぇ。まあいい、あたしがやるのは、矢印の転換だ」
「矢印?」
「つまり、あんたとそのアロアっていうお貴族様へ向かっている旦那の気持ちの矢印を、そのまんま! ひっくり返すんだよ」
 わかるかい? と魔女は嗤った。
 ヴィルヘルムから向かっているニルシェへの矢印、そしてアロアへの矢印をそれぞれ転換する、というとなのだとニルシェは理解した。
 ニルシェは息を飲んだ。
(つまり、ヴィルヘルムの私への想いと、アロア様への想いを交換するということ?)
 魔女はそのまままた指をパチリと鳴らした。
 すぐさま現れる木の椅子に魔女はなんの躊躇もなく座る。ニルシェは固まったまま動けない。
「ここに三つ、凹んだところがあるだろう。ここに名前を書いて、それでもってこの矢印を変えりゃあいい。それだけで様変わりさ」
 魔女は今夜の夕飯の話でもするかのように言った。
 木版には、上部にひとつ。右下にひとつ。左下にひとつと、長方形の窪みがある。
 そして、 板面の中心にはまるで時計のように針がつけられている。窪みが三つしかないことを除けばまるで長方形の時計のような形だ。
「この矢印で繋がれたものへの感情が、反転するんだ。まぁ、つまりこの場合は………」
 魔女がおもむろにその長さの揃った針に触れる。
 そしてくい、と二つの針をおもむろに動かした。
矢印の向き先は上の窪みと、左下の窪みだ。
魔女はどこからか出したのか黒のインクペンを取ってニルシェに差し出してきた。
「ほれ。これで上の窪みと、左下の窪みにあんたとそのアロアって女の名前をかきゃあ完璧だ。ああ、あと右下に王太子の名も書きな」
「本当に、これだけで………」
 まるでおもちゃのような造りのそれにニルシェは唖然とした。
思わずこぼれた言葉に、魔女が鼻を鳴らした。ひとには到底理解のできない、奇怪な代物をわかろうとするニルシェへの嘲笑だ。
「当たり前だろ。あたしを誰だと思ってんだい。東の魔女の名はだてじゃないのさ」
 今の発言は魔女の機嫌を損ねるものだったらしいとニルシェは気がついたが、しかし何も言うことはできなかった。それ以上に、人類の英知を越えた恐ろしい魔具に畏怖を覚えたからだ。
「失礼しました。では、これで、」
ニルシェは言いよどんだ。
 (これで、ヴィルヘルムは私ではなく、アロア様を愛すことになる…………?)
 ニルシェへ向いていた彼の愛が、そっくりそのままアロアに向く。
 あの、毎日愛していると言った唇で、彼女に愛を誓うのだろう。ニルシェはめまいを起こしてふらりとした。
ニルシェはそのことに嫌だと感じた。感じてしまった。
そんな自分に、彼女は驚きを覚えた。何を、今更?
 魔女はニルシェに返答を急かすように言った。
「さて、ここで取引だ。まず、代償。それは既に貰ってるからいい。あとは条件」
「条件、ですか?」
 代償はいつ貰ったのだろうか。
 ニルシェは気になったが、条件をまず聞くことにした。
 それが、のちほ破滅につながるとも知らずに。
「条件は、今あんたがここで、これを書き込むことさ」
「……今?」
「そう。死ぬ間際だとか、そんな甘っちょろいこというねんねには渡す気にはなれねぇさな」
「…………いま」
 ニルシェは言葉を繰り返す。
 今、これを書いたら、どうなるのだろう。
 ニルシェへの愛はそっくりそのままアロアのものになる──。
 ニルシェは一つ確信があった。それは、今この版面に文字を書かなければ、この魔女はもう二度と彼女の前に現れないだろう、ということ。
「時間は、くださらないんですね」
 ニルシェは確認も含めて尋ねる。魔女は鷹揚と頷いた。
「そっちの方が面白いからね。それで、どうする? カウントダウンしようか」
「……いえ。結構です」
 もとより、ニルシェには未来などない。
 それなら、僅かな時間の苦心を飲んででも、彼を幸せにしたい。
 愚かだろうとそれが独りよがりなニルシェの愛だった。
 アロアは病気の噂を聞かない。悪評も聞いたことがない。アロアは、貴族界でも深窓の令嬢として有名だった。
 ニルシェは瞼を伏せて答えた。
「──書きます」
 きっと、その時。
いや、もしかしたらそのずっと前かもしれない。
 ニルシェは間違えたのだろう。
道を誤った。
自己満足で、ひとりよがりの悲劇に酔っていただけだったのだ。
ニルシェは愚かだった。
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