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一章

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 次の日。
 日が昇らないうちに、ヴィルヘルムは城を出たようだった。
 ニルシェが起きた時に彼の姿はなく、書置きがテーブルに残されていた。そこには一週間は戻らないと記載がある。聞いていた通りだ。
「──少し出かけるわ。リディ、ついてきてくれる?」
 少しだけ喉がかすれているのは昨晩、何度も抱かれたせいだ。ニルシェは少し喉が痛むのを感じたが、それは無視して支度をした。

東の森の近くに親戚の領地があったのは僥倖だった。
ニルシェは親戚をたずねるというていで城を出ることに成功した。
魔女の所在地は不明だったけど、意を決して森に踏み入れると、まるで用意されているかのように木々が割れ、小道が現れた。恐れおののくリディを宥めて、ニルシェは静かに道に従って歩いた。幸い、道は荒れておらず歩きやすい。
踵の高い靴を履いてきたわけはないが、それにしたってニルシェの靴は山歩きに向いていない。
転びそうになるのをこらえてニルシェは道を進んだ。
森の入口には連れてきた騎士が控えている。
 いろいろと訳をつけて、かなり無理を言って待っているよう指示を出したのだ。
彼らは難色を示したが、王太子妃命令と言えばそれ以上は口をつぐむしかない。
ニルシェが魔女に会いに行くと、彼女はまるでニルシェの来訪を知っていたかのように笑って待っていた。
魔女はローブを頭から被っていて素性はまるで分からない。
だけど、その人ならざる異様な雰囲気が、まごうことなく彼女を魔女だと示していた。
「あなたが………東の魔女?」
「ひひ、まあ。そんな名前でも呼ばれていたかもねぇ?」
 魔女はやけに間延びした声で答えた。魔女はニルシェを家に招き入れる。
家は普通の一軒家のように見えたが、中を見ると思った以上に広いようだ。外から見るよりも明らかに広い。これもまた魔法の力なのだろうとニルシェは察した。
 連れてこられたリディは不安げに周囲を見渡している。
 魔女の家は灯りがついていなかった。暗い家の中は雨が降った日のような暗さで、こころ細さを掻き立てるには十分だ。
「あなたに、頼みがあります」
 ニルシェは意を決して言った。
「へぇ? 何かな。言ってごらんなさい、お嬢さん」
「惚れ薬を、用意することは出来ますか」
 ニルシェは固い声で言った。どこかで鶯がのどかに鳴いた。
 魔女は笑みを保ったまま、意外そうに黙り込んだ。そして、少し顔を上げた。その弾みで、フードの中から赤い瞳が覗いた。魔女の瞳は赤いのか。ニルシェは初めて知った。
「へぇ? それを誰に使う気だい?」
 魔女に嘘はご法度だ。嘘をついて国ごと滅ぼされた国王をニルシェは知っていた。
「夫に。ヴィルヘルム・シンメトリーに」
 魔女は全て知っているに違いない。ニルシェは確信にも似た思いを抱いていた。
ニルシェは国内を手広く確認したが、しかし魔女に関する文献はあまりにも不足していた。いや不足しているのではない。彼女らが抹消して回っている・・・・・・・・・・・・・のだ。
 ニルシェが夫の名を名を明かせば、魔女はニヤニヤとやけに面白そうな顔をした。
真っ赤な唇が弧を描く。
 そして、魔女はぱちりと指をひとつならした。
 そうすると椅子が勝手に動きニルシェたちの前に滑り込んできた。これが魔法なのだろう。原理は一切不明だ。
「座りな。面白そうな話だ。聞いてやろうじゃない」
 ニルシェはひとつ礼をいって椅子に腰掛ける。
リディはどうするべきか悩んでいたようだったけど、彼女もまた椅子に座った。
テーブルを挟んで魔女と向かい合う。
魔女の向こうには長く続く廊下が見える。
どこまでも続いているように見える廊下は、一体どこまであるのだろうか。
 話し合う体制になると、間もなくカップトーソーサーガ音もなくニルシェたちの前に滑り込んできた。中にはお茶と思われる液体が入っている。
ニルシェはまた礼をいってそれを手に取る。リディの咎めるような、悲鳴のような声が控えめに聞こえた。
「妃殿下!」
「ああ、安心しな。そんな野暮なことはしないさ」
 魔女に言われ、咄嗟にリディは口を噤んだ。
 リディは魔女におびええている。この世のものとは思えない、不思議な力を持つ魔女に。何の力もない人間は、魔女に畏怖の念を覚えている。
 ニルシェは何も言わずに紅茶に口をつけた。
甘い、いちごの香りが漂う不思議な紅茶だった。
「それで? 何であんたはまた、夫に惚れ薬を盛ろうとしてんだい」
 ニルシェは汽船とした声で答えた。
「私は、半年後には死にます。完治の見込みがない病だと侍医に言われました」
ニルシェは、水面に何もうつさない奇妙な紅茶を飲みながら自身の考えを纏める。
(半年後に私は死ぬ)
 ヴィルヘルムはきっと、とても悲しんで、泣くだろう。彼はめったに涙を見せないが、だけど本当は繊細で涙もろい人だということを幼馴染のニルシェは知っている。ニルシェは彼を悲しませたくなかった。
 自己満足で、押し付けだろうが、ニルシェは彼に悲しい傷を贈りたくない。
もしそうなるのなら。それ死から選べないのなら。それなら。いっそのこと。
「ふぅん? だから、あんたは別の愛しい人とやらを作らせるってわけか」
「………おおむねその通りですわ」
 魔女は笑った。カラッとした笑い声だった。
「あっはっは! あんたも馬鹿だねぇ。大馬鹿だ。でも……いいね。そういう馬鹿は、嫌いじゃない。嫌いじゃないとも!」
魔女はひとたび黙った。
「……そうさね。できるかできないかってなら、できるよぉ。だけどあんた、一体誰にその惚れ薬とやらを使って好かせる気だい? その、旦那にさぁ」
 ニルシェは静かな声で答えた。彼女中で答えは決まっていた。
「彼の昔の恋人だと言われている………アロア・ロイズ嬢に。使おうかと、思って、います」
 奇妙な空間に、息をのむような緊張感が広がった。

 ヴィルヘルムとニルシェが婚約を結んだ期間の中で、ある噂がひそかに囁かれ始めた。
それは、ヴィルヘルムとアロア・ロイズという貴族令嬢が恋人と同士である、というものだった。
 ニルシェは幼い頃から王家に嫁ぐものとして、悋気は起こすものでは無いとつくづく母親に教わってきた。
だからこそ、ニルシェはそれを確かめることをしなかった。関係を聞いて『そうだ』と答えられ、関係が壊れることを無意識に恐れていたのかもしれない。
だけど疑念はやがて革新へと近づいていく。きっかけはささいなものだ。
 ヴィルヘルムの首筋に口付けのあとが残っていた。
 彼に抱きしめられた時、誰かの残り香を感じた。
 しまいには、それらの答え合わせとでもいうようにヴィルヘルムと例の娘がキスをしているところを見てしまう始末だ。
母親の言う『立場ある人間ならば、あなたが大人しくしていれば、いずれ戻ってきます』という言葉をニルシェは何の確信もなく信じた。
 ニルシェが婚約者である以上、ヴィルヘルムは彼女のもとに戻ってくるはずだ。
だから何の心配もいらない。
そして、確かにヴィルヘルムはアロアとの関係を清算したらしい。ある時を境に、彼女の姿を王宮で見ることがなくなった。関係が終わったのだ。母の言葉は真実だったのだとニルシェは思った。
 ニルシェは彼に例の娘についてついぞ聞くことはできなかった。
肯定されるのが恐ろしい。だけど、優しい、ニルシェを傷つけない嘘をつかれてもやっぱりニルシェは悲しんだだろう。なぜなら彼女はそれが嘘だと知っている。ニルシェは見てしまったのだから。彼らの愛にあふれるキスを。
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