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一章
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「!」
思わず目眩がする。
「妃殿下!」と慌てた様子で侍女のリディが走ってきた。
ニルシェはリディの支える腕を掴んで、懸命に自身を取り巻く状況を整理する。
自分を落ち着かせようと深呼吸を繰り返す。
突然のことすぎて、脈が早くなっているのがわかる。
ひゅ、と呼吸が漏れた。
次の一言を──確認するためだけに問いかけるその言葉を。
口にする勇気がなかなか持てない。
それでも、問わねばならない。
「私は……死ぬのですね」
ニルシェはどこか虚しく、乾いて聞こえた。
侍医は難しい顔をして、黙り込んだ。それが、答えだったのだろう。
ニルシェは侍医に今回の件は黙っているよう言い含めた。
しかし、侍医はことがことだけに黙っていることはできかねると申し出る。ニルシェは頷いた。
侍医が黙っていても不利益を被らないことを約束し、ようやく口を閉じてもらうことに成功する。
まだ婚姻して季節をふたつ過ごしたばかりだ。
新婚と言っても差し支えないだろう。少女の期間を終えた彼女と、少年から青年への成長期の過渡期にある彼。まだ死ぬには若すぎる。
これからの未来を初恋の彼と歩めると、当然のように思っていたニルシェにとって、それはすぐには受け入れられない現実だった。
(神様なんて居ないのかもしれない)
自室に戻ったニルシェは、窓の外を流れ落ちる大粒の雨を目で追う。
春先なのに気温は低く、手先まで冷えていく。
(今、こうしている間にも私の命は──)
「………」
神様がいたとして、その幸福を分け隔てなく分け与えるとは限らない。
ニルシェは、選ばれなかった側だ。
どこかで、ひとは幸福と不幸の釣り合いが取れるようになっていて、死ぬ時になって漸くそれが判る、と聞いたことがあった。
雨の音がニルシェをひとりだけの空間に誘うように、世界と隔離する。
(もし、その理論が正しいのであれば)
ニルシェの幸福はヴィルヘルムと婚姻式を上げられたこと。
彼と結婚できたこと。
彼と、愛し合えたこと。
彼と、出逢えたこと、全てになるのだろう。
ニルシェは彼を愛していた。ずっと共にいられると思っていた。
だけど、現実はそうはうまくいかない。
ニルシェは窓枠に溜った雨粒を見つめながら考えた。
(私は今までの幸運の帳尻を合わせるために、死ぬのかしら)
そんな出来すぎた夢見物語のようなことを考えてニルシェは少し笑った。
大丈夫。ニルシェははまだ、笑える。彼女は瞼を強く閉じた。
(私はまだ、大丈夫)
ざああ、という雨の音がひときわ忙しなく聞こえてきた。
少女が誰にともなく呟いた。
「私は、まだ、何も残していない……」
ぽつりと呟いた声はひどく冷たくて、それが自分のものだと気づくのに一拍時間を要した。
侍医の言う通り、ニルシェが死ぬことは避けようがない事実なのだろう。
手を尽くしても、その事実は覆ることがない。多少のごまかしは効くだろうが、根本的な治癒は絶望的だ。
それは侍医が手渡した、病気を記した詳細な報告書に目を通せば通すほど思いは強くなった。
ニルシェがヴィルヘルムを残して死ぬ。
彼はきっと悲しむだろう。
そして傷つくことだろう。
ニルシェは愛おしいひとを悲しませることはしたくなかった。
ニルシェの死をもって、彼に傷を植え付けたくなどなかった。
彼に、悲しみを、苦しみを、傷を、寄りにもよってニルシェが与える。
それは耐えがたい苦痛だった。
どんなに自己中心的と言われようと、独りよがりだと罵られることがあろうと、ニルシェはヴィルヘルムが悲しむのを見たくない。
ニルシェに迷いはなかった。
───東の森には魔女がいる
その話を思い出したのは、偶然だ。
それを知り、ニルシェは侍女のリディを連れ、その森へと向かった。
リディは、侍医に診てもらった時に立ち会った侍女だった。
侍医同様、口をつぐむよう指示を受けた彼女はそれ以来ニルシェを案じていた。
東の森の魔女の話は、どこかで聞いた話だ。
どこで聞いたかも定かではない。魔女など、もはや迷信に近い存在だ。
《東の森の魔女はいかにも魔女といった性格をしていて、代金は貰わない代わりに代償を貰う。享楽的な思考の持ち主で、自分が面白いことを代償とする》
よく知られた魔女を代表する謳い文句だ。
迷いはなかった。ニルシェの願いを叶えてもらう為ならば。
思わず目眩がする。
「妃殿下!」と慌てた様子で侍女のリディが走ってきた。
ニルシェはリディの支える腕を掴んで、懸命に自身を取り巻く状況を整理する。
自分を落ち着かせようと深呼吸を繰り返す。
突然のことすぎて、脈が早くなっているのがわかる。
ひゅ、と呼吸が漏れた。
次の一言を──確認するためだけに問いかけるその言葉を。
口にする勇気がなかなか持てない。
それでも、問わねばならない。
「私は……死ぬのですね」
ニルシェはどこか虚しく、乾いて聞こえた。
侍医は難しい顔をして、黙り込んだ。それが、答えだったのだろう。
ニルシェは侍医に今回の件は黙っているよう言い含めた。
しかし、侍医はことがことだけに黙っていることはできかねると申し出る。ニルシェは頷いた。
侍医が黙っていても不利益を被らないことを約束し、ようやく口を閉じてもらうことに成功する。
まだ婚姻して季節をふたつ過ごしたばかりだ。
新婚と言っても差し支えないだろう。少女の期間を終えた彼女と、少年から青年への成長期の過渡期にある彼。まだ死ぬには若すぎる。
これからの未来を初恋の彼と歩めると、当然のように思っていたニルシェにとって、それはすぐには受け入れられない現実だった。
(神様なんて居ないのかもしれない)
自室に戻ったニルシェは、窓の外を流れ落ちる大粒の雨を目で追う。
春先なのに気温は低く、手先まで冷えていく。
(今、こうしている間にも私の命は──)
「………」
神様がいたとして、その幸福を分け隔てなく分け与えるとは限らない。
ニルシェは、選ばれなかった側だ。
どこかで、ひとは幸福と不幸の釣り合いが取れるようになっていて、死ぬ時になって漸くそれが判る、と聞いたことがあった。
雨の音がニルシェをひとりだけの空間に誘うように、世界と隔離する。
(もし、その理論が正しいのであれば)
ニルシェの幸福はヴィルヘルムと婚姻式を上げられたこと。
彼と結婚できたこと。
彼と、愛し合えたこと。
彼と、出逢えたこと、全てになるのだろう。
ニルシェは彼を愛していた。ずっと共にいられると思っていた。
だけど、現実はそうはうまくいかない。
ニルシェは窓枠に溜った雨粒を見つめながら考えた。
(私は今までの幸運の帳尻を合わせるために、死ぬのかしら)
そんな出来すぎた夢見物語のようなことを考えてニルシェは少し笑った。
大丈夫。ニルシェははまだ、笑える。彼女は瞼を強く閉じた。
(私はまだ、大丈夫)
ざああ、という雨の音がひときわ忙しなく聞こえてきた。
少女が誰にともなく呟いた。
「私は、まだ、何も残していない……」
ぽつりと呟いた声はひどく冷たくて、それが自分のものだと気づくのに一拍時間を要した。
侍医の言う通り、ニルシェが死ぬことは避けようがない事実なのだろう。
手を尽くしても、その事実は覆ることがない。多少のごまかしは効くだろうが、根本的な治癒は絶望的だ。
それは侍医が手渡した、病気を記した詳細な報告書に目を通せば通すほど思いは強くなった。
ニルシェがヴィルヘルムを残して死ぬ。
彼はきっと悲しむだろう。
そして傷つくことだろう。
ニルシェは愛おしいひとを悲しませることはしたくなかった。
ニルシェの死をもって、彼に傷を植え付けたくなどなかった。
彼に、悲しみを、苦しみを、傷を、寄りにもよってニルシェが与える。
それは耐えがたい苦痛だった。
どんなに自己中心的と言われようと、独りよがりだと罵られることがあろうと、ニルシェはヴィルヘルムが悲しむのを見たくない。
ニルシェに迷いはなかった。
───東の森には魔女がいる
その話を思い出したのは、偶然だ。
それを知り、ニルシェは侍女のリディを連れ、その森へと向かった。
リディは、侍医に診てもらった時に立ち会った侍女だった。
侍医同様、口をつぐむよう指示を受けた彼女はそれ以来ニルシェを案じていた。
東の森の魔女の話は、どこかで聞いた話だ。
どこで聞いたかも定かではない。魔女など、もはや迷信に近い存在だ。
《東の森の魔女はいかにも魔女といった性格をしていて、代金は貰わない代わりに代償を貰う。享楽的な思考の持ち主で、自分が面白いことを代償とする》
よく知られた魔女を代表する謳い文句だ。
迷いはなかった。ニルシェの願いを叶えてもらう為ならば。
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