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一章
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これは、過去の記憶。
ニルシェと彼が婚姻を結ぶ前の時のこと。
「最近、顔色が悪いね? 何かあった?」
その日は久々の逢瀬だった。婚約者としてふたりは度々時間を取った。
紅茶のカップをソーサーに戻したニルシェは困ったように頬に手を当てた。
今日は庭園でのお茶会だった。
「そうかしら? 気の所為ではなくて?」
「いや………うーん。ニルシェが何も無いならいいんだけど。気になることがあるなら、言って。きみの健康が、僕の心の平穏だ」
「ヴィルヘルムったら。ふふ、でもそうね。体には気をつけるわ。でもそれはヴィルヘルム、あなたもよ? さいきん寝てないのではなくて?」
ニルシェはそっと婚約者の髪に触れた。
彼のさらさらな髪は指通りが良くて、すぐに指先から落ちてしまう。
絹糸のような髪糸がはらりと落ちて、彼の碧色の瞳と視線が絡む。
それはまるで、よくできた宝石のようで。
だけど、透明感のあるそれは宝石よりもずっと人間らしく、彼に見られるとニルシェは未だに胸が落ち着かない。
これはもう、ずっと昔からだ。
少しだけ落ち着かない気持ちになったけれど、それを彼に気づかれるのは恥ずかしくて、視線を逸らした。
ヴィルヘルムはそんなニルシェの様子に気が付いたように小さくほほえんだ。
「そんなことないよ。ニルシェに会うと元気になる」
「ということは、寝てないのね?」
「鋭いね」
「鋭いも何も無いわよ! もう、寝るわよ。ソファーでもいいかしら?」
折角公爵家まで会いに来てくれたヴィルヘルムには申し訳ないけれど、申し伝えると彼は少し笑った。
彼が笑うと、いつもより幼く見えて、それにまたニルシェは胸がぎゅっとなる。
厄介な初恋だ。
「ううん、いいよ。でも、折角の時間なのにニルシェと話せないのは残念だな。………そうだ、きみも寝よう。そうしたら、夢の世界でも会えるかもしれない」
「随分夢見がちなこと言うのね。夢で会えるなんて聞いたことないわ」
「そう? やってみないとわからない」
「……」
彼の言葉は直球で、ストレートだ。だからこそニルシェは恥ずかしくなってしまう。
意地っ張りなニルシェは素直に「そうね」と言えない。
「いいわ。試してみましょう。手を繋いだ方がいいかも」
「こう?」
「………うん」
本当は手を繋ぎたいがために言ったことだったけど、ヴィルヘルムは何も言わずにニルシェの手をそっと握った。
伝わる体温に胸が跳ねる。
好きだという気持ちがじわじわと、胸からこぼれてしまいそうだ。
器からこぼれだした"好き"はきっと、身に余ってしまう。こぼれだしそうな気持ちがどうにかなる前に、ニルシェは彼をソファに誘導した。
そして、その日は彼とお昼寝をしたのだ。
執務で忙しい、ヴィルヘルムの体を慮って。
ある日だった。
「あと半年、もってそれくらいかと………」
侍医は大変に言いづらそうな顔で、口をまごつかせる。
ニルシェは茫然とその言葉を聞いた。
頭は確かに動いてるのに、何をいえばいいか分からない。
「あ」とも「え」ともつかない言葉が落ちる。
冷や汗が、脂汗が、背筋に滲む。背中が冷たい。緊張して、時間が異様に早く感じる。
「診断の結果が出ました。先日、妃殿下に行っていただいた──の結果ですが──で……」
侍医の言葉は、悲しいくらいに耳からこぼれ落ちてしまった。
ニルシェとヴィルヘルムが婚姻式を上げて、次の春。
年初めの体調診断を受けた時のことだ。
公爵家にいた時も毎年ながら受けてはいたけれど、その時は至って健康体だった。
そう、昨年までは。
だけど、今年は違ったようだ。ニルシェ告げられたのは神の宣告にも等しい、無情言葉だった。
侍医は部屋に入室して、それから一言も口を聞かずにいた。とても重たい雰囲気を感じたから、不安ではあった。
だけど、医師の言葉は、ニルシェなんかが考えていたものよりもずっと、ずっと残酷な現実へと彼女を突き落とした。
「…………え?」
ようやく滑り出た言葉はただの音だった。
侍医は焦ったように、メガネのツルを押し上げながら話し始める。
「もう一度申し上げます。。妃殿下は、膵臓に悪い症状が出ております。最近、食欲不振や腹部、背中の痛みなど体を壊すことはございませんでしたか?」
「悪い症状………食欲不振………」
ニルシェは王太子妃だというのに、彼の言葉を繰り返すのが精一杯だった。
「失礼なことをお聞きいたしますが、体重の減少などは」
「三キロほど……だけど、最近はあまり、食が進まなくて………」
「恐れ入りますが、妃殿下は食事制限など、意図的に体重を減らされたわけではございませんね?」
「はい。ですが、たった三キロです。そんな、気にするほどでは」
言うと、侍医は厳しい顔をした。
緊迫感が漂う室内で、彼は重たげに口を開いた。
「妃殿下。食事制限や、意図的に減量を測っている訳では無い人間が、半年間で体重の五パーセント以上の減少があった。これは由々しき事態です。特に妃殿下は大事なお身体。大変言いにくいことでありますが、しかるべき病気を疑うべきかと」
「…………」
「全てが全て病気とは言いかねますが、しかし、何度も申し上げます通り大事なお体です。気にすることに越したことはありません」
侍医は、机に乗っている書類を捲る。
パサ、パサ、という書類をめくる音が静かな部屋に響く。
「この病気は厄介なもので、なかなか発覚しないのです。発覚すると、もう余命のカウントダウンが始まっている」
侍医のうめくような声を聞く。
「治す手段はあるのですか」
ニルシェは藁にも縋る思いで問いかけた。侍医の紙を手繰る手が、ひとたび止まる。
だけど彼は、何事も無かったかのようにまた、紙を繰り始める。
「今、現段階において、この病を完治させる薬はございません」
ニルシェと彼が婚姻を結ぶ前の時のこと。
「最近、顔色が悪いね? 何かあった?」
その日は久々の逢瀬だった。婚約者としてふたりは度々時間を取った。
紅茶のカップをソーサーに戻したニルシェは困ったように頬に手を当てた。
今日は庭園でのお茶会だった。
「そうかしら? 気の所為ではなくて?」
「いや………うーん。ニルシェが何も無いならいいんだけど。気になることがあるなら、言って。きみの健康が、僕の心の平穏だ」
「ヴィルヘルムったら。ふふ、でもそうね。体には気をつけるわ。でもそれはヴィルヘルム、あなたもよ? さいきん寝てないのではなくて?」
ニルシェはそっと婚約者の髪に触れた。
彼のさらさらな髪は指通りが良くて、すぐに指先から落ちてしまう。
絹糸のような髪糸がはらりと落ちて、彼の碧色の瞳と視線が絡む。
それはまるで、よくできた宝石のようで。
だけど、透明感のあるそれは宝石よりもずっと人間らしく、彼に見られるとニルシェは未だに胸が落ち着かない。
これはもう、ずっと昔からだ。
少しだけ落ち着かない気持ちになったけれど、それを彼に気づかれるのは恥ずかしくて、視線を逸らした。
ヴィルヘルムはそんなニルシェの様子に気が付いたように小さくほほえんだ。
「そんなことないよ。ニルシェに会うと元気になる」
「ということは、寝てないのね?」
「鋭いね」
「鋭いも何も無いわよ! もう、寝るわよ。ソファーでもいいかしら?」
折角公爵家まで会いに来てくれたヴィルヘルムには申し訳ないけれど、申し伝えると彼は少し笑った。
彼が笑うと、いつもより幼く見えて、それにまたニルシェは胸がぎゅっとなる。
厄介な初恋だ。
「ううん、いいよ。でも、折角の時間なのにニルシェと話せないのは残念だな。………そうだ、きみも寝よう。そうしたら、夢の世界でも会えるかもしれない」
「随分夢見がちなこと言うのね。夢で会えるなんて聞いたことないわ」
「そう? やってみないとわからない」
「……」
彼の言葉は直球で、ストレートだ。だからこそニルシェは恥ずかしくなってしまう。
意地っ張りなニルシェは素直に「そうね」と言えない。
「いいわ。試してみましょう。手を繋いだ方がいいかも」
「こう?」
「………うん」
本当は手を繋ぎたいがために言ったことだったけど、ヴィルヘルムは何も言わずにニルシェの手をそっと握った。
伝わる体温に胸が跳ねる。
好きだという気持ちがじわじわと、胸からこぼれてしまいそうだ。
器からこぼれだした"好き"はきっと、身に余ってしまう。こぼれだしそうな気持ちがどうにかなる前に、ニルシェは彼をソファに誘導した。
そして、その日は彼とお昼寝をしたのだ。
執務で忙しい、ヴィルヘルムの体を慮って。
ある日だった。
「あと半年、もってそれくらいかと………」
侍医は大変に言いづらそうな顔で、口をまごつかせる。
ニルシェは茫然とその言葉を聞いた。
頭は確かに動いてるのに、何をいえばいいか分からない。
「あ」とも「え」ともつかない言葉が落ちる。
冷や汗が、脂汗が、背筋に滲む。背中が冷たい。緊張して、時間が異様に早く感じる。
「診断の結果が出ました。先日、妃殿下に行っていただいた──の結果ですが──で……」
侍医の言葉は、悲しいくらいに耳からこぼれ落ちてしまった。
ニルシェとヴィルヘルムが婚姻式を上げて、次の春。
年初めの体調診断を受けた時のことだ。
公爵家にいた時も毎年ながら受けてはいたけれど、その時は至って健康体だった。
そう、昨年までは。
だけど、今年は違ったようだ。ニルシェ告げられたのは神の宣告にも等しい、無情言葉だった。
侍医は部屋に入室して、それから一言も口を聞かずにいた。とても重たい雰囲気を感じたから、不安ではあった。
だけど、医師の言葉は、ニルシェなんかが考えていたものよりもずっと、ずっと残酷な現実へと彼女を突き落とした。
「…………え?」
ようやく滑り出た言葉はただの音だった。
侍医は焦ったように、メガネのツルを押し上げながら話し始める。
「もう一度申し上げます。。妃殿下は、膵臓に悪い症状が出ております。最近、食欲不振や腹部、背中の痛みなど体を壊すことはございませんでしたか?」
「悪い症状………食欲不振………」
ニルシェは王太子妃だというのに、彼の言葉を繰り返すのが精一杯だった。
「失礼なことをお聞きいたしますが、体重の減少などは」
「三キロほど……だけど、最近はあまり、食が進まなくて………」
「恐れ入りますが、妃殿下は食事制限など、意図的に体重を減らされたわけではございませんね?」
「はい。ですが、たった三キロです。そんな、気にするほどでは」
言うと、侍医は厳しい顔をした。
緊迫感が漂う室内で、彼は重たげに口を開いた。
「妃殿下。食事制限や、意図的に減量を測っている訳では無い人間が、半年間で体重の五パーセント以上の減少があった。これは由々しき事態です。特に妃殿下は大事なお身体。大変言いにくいことでありますが、しかるべき病気を疑うべきかと」
「…………」
「全てが全て病気とは言いかねますが、しかし、何度も申し上げます通り大事なお体です。気にすることに越したことはありません」
侍医は、机に乗っている書類を捲る。
パサ、パサ、という書類をめくる音が静かな部屋に響く。
「この病気は厄介なもので、なかなか発覚しないのです。発覚すると、もう余命のカウントダウンが始まっている」
侍医のうめくような声を聞く。
「治す手段はあるのですか」
ニルシェは藁にも縋る思いで問いかけた。侍医の紙を手繰る手が、ひとたび止まる。
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