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四章

きっと、魔物の類。

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それから三日後。
アカネが帰還したとミュチュスカから聞いた。
アカネが私に来なくていい、と言ったのはきっとこの髪のこともあるからだろう。
私の髪はあまりにも短すぎて、社交界に復帰するには時間がかかる。

アカネが帰って、レーベルトには春が訪れた。
氷のような鋭い寒さはだんだんと温もりを感じる日差しに変わってゆく。
窓から見下ろす庭園ももう、ほとんどの雪が溶け始めていた。

私はソファに座り、背もたれにもたれながら仕事の書類を読んでいるミュチュスカに質問を投げかけた。

「……ねぇ。あなたは少しでも聖女様に惹かれた?」

聞かなければいいのに、ぽつりと呟くように尋ねていた。
背後で、ミュチュスカの手が止まるのが分かった。がさ、と紙の束を揺らす音が聞こえる。

「……どう答えても、きみは穿った捉え方をしそうだから正直に話すけど」

「……ええ」

「彼女を見て最初に感じたのは、意外性、かな」

「………」

沈黙し、話を聞く私に、ミュチュスカは席を立った様子だった。ばさ、と書類をテーブルに投げ捨てる音がして、ミュチュスカが歩いてくる。
彼は私の後ろで立ち止まると、腹の前に手を回して私を抱き寄せた。そっと、丁寧な手つきで。

「突然異世界に連れてこられたというのに、憔悴していなかったし、落ち着いていた。混乱はしていたようだったけど、意思疎通は可能な程度だ」

ミュチュスカの言う『落ち着いていた』とはつまり、感情的になって暴走していない、ということを指すのだろう。
もしかしたら過去の聖女は、私がアカネに言った通り、自暴自棄になって周囲をおおいに困惑させたこともあるのかもしれなかった。
アカネは、『普通の人は出来ないと思うよ』と答えた。
でも、彼女は知っているだろうか。
その『普通』であること。
それが、どれほど難しいことであるのか。
何があって、何が起きても一般常識の範囲を超えずに生きる。それはきっと、想像以上に難しい。
私が黙っていると、ミュチュスカは私の腹の前で手を組んだ。

「それだけだ。他には、何も」

澱みない声。
やましいことなど何一つないとでもいうような、静か声だ。
きっとそれがミュチュスカの本音なのだろう。

だからこそ、私は心底安心していた。

ミュチュスカが、アカネの弱さに気が付かなかったことに。
もし彼が、アカネが隠している弱さに、恐れに気がついていたら、きっと彼女を気にしていたのだろう。
そしてそれは庇護欲に繋がり、男女の愛を生む。

ミュチュスカが感情の機微に疎い男でよかった。
私は体の力を抜いて、ミュチュスカの胸にもたれた。そして、眼下に広がる、もともとの地面の色を露わにしつつある銀世界を眺めた。
一面白だった世界は、少しずつ元の色を取り戻しつつある。

「私が婚前交渉し、子を為したと知ったらお父様は怒るわね」

私の言葉に、ミュチュスカは私の髪に触れて答えた。

「それなら、婚約期間を短縮するようメンデル公爵家に掛け合っている。もうきみを、あの家に戻すつもりはない」

ミュチュスカの手から零れ落ちる、私の短い髪の毛。するすると、さらさらと滑り落ちていく。

帰らなくて、いい。
あの家に。
もう、戻らなくても──。

私が言葉をなくして驚いていると、ミュチュスカは私のつむじに口付けを落とした。

「心身共に傷ついた天使を癒すためだ、と言えば公爵も強くは言えないよ」

「……でも、婚姻前に子ができるのは世間体が良くないのではない?……アリアン公爵も、お父様も眉を顰めるはずよ」

今更ではあるが、ミュチュスカが咎められるようなことになるのは避けたい。

望んで体を繋げた。
それは間違いない。
彼の子を腹に宿す。
それもまた、甘美な言葉だ。

私は良い。
私は今、幸福だから。
この恐れすら感じる幸せに、多幸感に、酔い知れているから。
だから、その他のことは全て瑣末事だ。

しかし、ミュチュスカは私とは違う。
彼は真面目でお堅い騎士様なのだから、良心が咎めるだろうし、思い悩むこともあるだろう。
そう思って尋ねると、ミュチュスカは私のつむじに口付けた後、うなじにくちびるを落とした。

その甘やかな接触にぴくりと体が反応した。
つい先日、私は月のものが来たばかりだ。
彼の種は、まだ芽吹いていなかった。
行為を示すように、ミュチュスカが私の体を抱き寄せた。

「もしも、咎められたらこう答えるよ。『心身ともに美しい天使に酔いしれて、その翼を捥いでしまった』、と。そうすれば、責は全て俺に向く」

メリューエル、と名を呼ばれた。
振り返ると、腰を抱かれ、持ち上げられた。
視界が少しだけ高くなり、足が浮く。
驚いてミュチュスカの肩に手を置いた。

「天使を俗世に引き落とし、穢したのは俺だ、ってね。まるで、レーベルトの四季を司る神話のようだな」

ミュチュスカはくすり、と笑った。
だから私もまた、ミュチュスカの首の後ろに手を回して、彼に抱きついた。
ミュチュスカは私の前では香水をつけなくなった。いつ子を成すか分からないから、ということらしい。
もう私の好きなあのシトラスに混ざる、甘いスパイスの香りはしない。その代わり、清潔な石鹸の香りがした。
この香りも、私は大好きだ。
肌を合わせる時、彼に抱きしめられる時。
私がミュチュスカを抱きしめる時、いつもこの香りがするから。
神話の女神は、ひとりの男に堕とされて、権能を失った。
だけど私は。

「私は、あなたから離れないわ。……だって私は、人間ですもの」

小さく微笑んで、ミュチュスカの薄いくちびるに口付けを落とした。

私は聖女になれなかった。

だけど、聖女になれない私は、彼を堕とす堕天使にはなれたらしい。
『聖女』とはあまりにも離れすぎている。
きっと、魔物の類だ。

私はミュチュスカの頬を撫で、笑みを浮かべた。
歪んだ笑みだろう。
歪な欲を秘めた、執着的な愛に狂った女の顔をしているだろう。

でも、ミュチュスカもそうだ。
そんな私を見て、満たされたような顔をしている。
それを見て、私は深く感じるのだ。
それは、痛いくらいの充足感。

一緒に──私と同じところまで、彼を堕としてしまった。
堕ちて、くれた。

それがどれほど嬉しいか、昏い悦びを伴うか、きっとミュチュスカは知らない。
だけどそれでいいと思った。

春の陽射しに似合わない、濃厚な口付けを繰り返す。
それは、子を成す行為のはじまりの合図。




【聖女になれない私。 完】
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