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四章
日本人であった、前世の私へ
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『親愛なメリューエル。
私の帰還の日が決まりました。
悲しまれるのは苦手なので、パーティは開きません。
あと三日、この国を楽しんで帰ります。
先日お会いしましたので、見送りはいりません』
ここまでが、レーベルトの言葉で書かれている。
おそらくライラに教わって、慣れない単語を使いながらも文章を形成したのだろう。
硬すぎるし、品も感じられない、子供のような文章だが、アカネが頑張って書いたのだと思うと、ふ、と笑みがこぼれた。
レーベルト語はそこで途切れ、空白の後にまた文章が続く。そこに書かれているのは日本語だ。私以外の人間が書いた懐かしい文字は、郷愁を誘った。
『メリューエル読めるよね?
もう、レーベルトの言葉めちゃくちゃ難しい!英語とも作りが違うんだもん。しかも私、めっちゃ頑張って覚えたのにこれ、日本に戻ったら意味なくなるんだよ?やってらんないよー!
P.S ロディアス王子に頼んでおにぎりもどき作ってもらったよ!かなり近い味になったと思うから、食べてみて!ミュチュスカさんと一緒に!』
アカネらしい言葉だった。
鈴を鳴らしてメイドを呼び出し、ティータイムの用意をさせる。アカネから届いた贈り物は食料品のようだ、と伝え、皿に乗せて出すよう指示する。
メイドがワゴンを押して入室してくる。
ワゴンには銀皿が置かれていて、目当てのものはその中のようだ。
見慣れないものだろうに、メイドは困惑した様子を一切見せずに私とミュチュスカの前に置いた。
ミュチュスカの別邸で働くメイドたちは、しっかりと教育されているらしい。
おにぎりは、前世で見た通りの形だった。
様々な感情が到来した。
郷愁の念であり、悲しさでもあり、もの寂しさでもあり、切なさでも、そしてその底には微かな嬉しさも隠されている。
複雑な気持ちだった。
泣きたいような、笑いたいような、叫びたいような……何もかもを忘れたいような。
隣で、ミュチュスカが怪訝な声を出した。
「菓子の類か?」
それを聞いて、小さく微笑んだ。
ミュチュスカには、この白い物体が砂糖菓子のように見えるのだろう。
私はそれを手に取った。
フォークとナイフは用意されているし、手づかみで食べるなんてあまりにもはしたないことだ。
公爵家で育てられた私は、身に染みてそれを理解している。
だけど、おにぎりはこうして手で持って食べるのが正しい。
私は、丸い形のおにぎりを手に持って見せた。
ミュチュスカが驚いたように目を見開いている。
私が食べ物を手づかみで取るなんて思わなかったのだろう。
ミュチュスカは、私が厳しく躾られた貴族の娘だと知っている。
だから私は、彼に微笑んだ。
「これは、こうやって手で持って食べるのがマナーなんですって。……アカネ様の世界では、慣れ親しまれた食べ物のようよ。……おにぎり、と言うんですって」
言いながら、声に涙が混ざった。
もう、取り戻せない遠い記憶。
私が日本人だった時の記憶など、前世の人生など、全く思い出せない。
だけど、この食べ物──おにぎりに懐かしさを覚える程度には、私もまた日本人だったのだ。
今の私はレーベルトで育ち、その魂もまたレーベルトに染まりきっているが、日本人として生まれ、そして終わりを迎えたのも確かな事実なのだ。
前世の記憶は──私の人格も、環境も、生まれ育ちも何も思い出せない。
それを気にしたことは無い。
既に終えた人生だ。
今の生は、メリューエル・メンデル。
メンデル公爵家に生まれた、貴族の娘。
アリアン公爵家のミュチュスカの婚約者で、彼に恋をする娘。
それでいい。……それだけで良かった。
だけど、こうして懐かしさを掻き立てるものを見ていると、日本人であった時の記憶に思いを馳せてしまう。
過去の私は何を思い、何を感じて生きていたのか、気になってしまう。
私はその郷愁の想いを振り払うように、おにぎりに口をつけた。
懐かしさをそのまま形にしたようなおにぎりは、少し塩っぽくて、涙の味がした。
突然泣き出した私を、ミュチュスカは心配していたようだったけど、私は誤魔化した。
色々と思い出してしまって、と答えるとさらにミュチュスカの心配を煽ってしまったようだったので、彼もおにぎりを食べるよう促した。
ミュチュスカはそれを口にすると、しばらく沈黙していたが、やがて頷いた。
「意外と食べられるな」
と。失礼なのか、褒めているのか分からない言葉を口にして。
私はそれを聞いて、また少し笑った。
お米は日本のものよりパサパサとしていて、どちらかというとタイ米に近かった。
だけど、それでも私にとっては故郷の味だった。
ミュチュスカにとってこれは、未知の食べ物だっただろう。
だけど意外と食べられるものだと──新しい食感覚だと受け入れられてくれたようだ。
時々でいいから、これを口にしたい。
そう思ったが、その気持ちは振り払った。
今の私は日本人ではなく、レーベルト人だ。
郷愁の想いに駆られるのは、過去の記憶に思いを馳せるのは、もうこれで最後。
前世の記憶の欠片を、置いてきてしまった旧い記憶をすくいあげるようにして、おにぎりは色んな感情を私に運んだ。
きっと、厳密には、私がいた世界とアカネがいた世界は異なるのだろう。
私がいた『日本』には、『氷の騎士と常春の聖女』の本が存在していた。
でもアカネの世界にはきっとそれは──ない。
だから、まるきり同じ、というわけではないのだと思う。
前世の私と、今世の私。
前世日本人であった、という記憶はあるけれど、私がメリューエル・メンデルであることに変わりはしない。
懐かしい食べ物は、私にそれを教えてくれた。
私はそれに、気付くことが出来た。
もう思い出すことも出来ない、日本人であった私へ。
前世の自分に纏わることは何も思い出せないのに、『氷の騎士と常春の聖女』の内容だけは思い出せた。
なぜなのか気になってはいたものの、恐らくそれは前世の私からの今の私への警告だったのかもしれない。
このままでは、私は周囲を不幸にするだけの悪になる、と。
メリューエル・メンデルを、私を、少しでも哀れだと思うなら変える努力をしてみせろと、そういうことだったのかもしれない。
考えても意味の無い神秘に思いを馳せて、また少し、私は微笑みを浮かべた。
私の帰還の日が決まりました。
悲しまれるのは苦手なので、パーティは開きません。
あと三日、この国を楽しんで帰ります。
先日お会いしましたので、見送りはいりません』
ここまでが、レーベルトの言葉で書かれている。
おそらくライラに教わって、慣れない単語を使いながらも文章を形成したのだろう。
硬すぎるし、品も感じられない、子供のような文章だが、アカネが頑張って書いたのだと思うと、ふ、と笑みがこぼれた。
レーベルト語はそこで途切れ、空白の後にまた文章が続く。そこに書かれているのは日本語だ。私以外の人間が書いた懐かしい文字は、郷愁を誘った。
『メリューエル読めるよね?
もう、レーベルトの言葉めちゃくちゃ難しい!英語とも作りが違うんだもん。しかも私、めっちゃ頑張って覚えたのにこれ、日本に戻ったら意味なくなるんだよ?やってらんないよー!
P.S ロディアス王子に頼んでおにぎりもどき作ってもらったよ!かなり近い味になったと思うから、食べてみて!ミュチュスカさんと一緒に!』
アカネらしい言葉だった。
鈴を鳴らしてメイドを呼び出し、ティータイムの用意をさせる。アカネから届いた贈り物は食料品のようだ、と伝え、皿に乗せて出すよう指示する。
メイドがワゴンを押して入室してくる。
ワゴンには銀皿が置かれていて、目当てのものはその中のようだ。
見慣れないものだろうに、メイドは困惑した様子を一切見せずに私とミュチュスカの前に置いた。
ミュチュスカの別邸で働くメイドたちは、しっかりと教育されているらしい。
おにぎりは、前世で見た通りの形だった。
様々な感情が到来した。
郷愁の念であり、悲しさでもあり、もの寂しさでもあり、切なさでも、そしてその底には微かな嬉しさも隠されている。
複雑な気持ちだった。
泣きたいような、笑いたいような、叫びたいような……何もかもを忘れたいような。
隣で、ミュチュスカが怪訝な声を出した。
「菓子の類か?」
それを聞いて、小さく微笑んだ。
ミュチュスカには、この白い物体が砂糖菓子のように見えるのだろう。
私はそれを手に取った。
フォークとナイフは用意されているし、手づかみで食べるなんてあまりにもはしたないことだ。
公爵家で育てられた私は、身に染みてそれを理解している。
だけど、おにぎりはこうして手で持って食べるのが正しい。
私は、丸い形のおにぎりを手に持って見せた。
ミュチュスカが驚いたように目を見開いている。
私が食べ物を手づかみで取るなんて思わなかったのだろう。
ミュチュスカは、私が厳しく躾られた貴族の娘だと知っている。
だから私は、彼に微笑んだ。
「これは、こうやって手で持って食べるのがマナーなんですって。……アカネ様の世界では、慣れ親しまれた食べ物のようよ。……おにぎり、と言うんですって」
言いながら、声に涙が混ざった。
もう、取り戻せない遠い記憶。
私が日本人だった時の記憶など、前世の人生など、全く思い出せない。
だけど、この食べ物──おにぎりに懐かしさを覚える程度には、私もまた日本人だったのだ。
今の私はレーベルトで育ち、その魂もまたレーベルトに染まりきっているが、日本人として生まれ、そして終わりを迎えたのも確かな事実なのだ。
前世の記憶は──私の人格も、環境も、生まれ育ちも何も思い出せない。
それを気にしたことは無い。
既に終えた人生だ。
今の生は、メリューエル・メンデル。
メンデル公爵家に生まれた、貴族の娘。
アリアン公爵家のミュチュスカの婚約者で、彼に恋をする娘。
それでいい。……それだけで良かった。
だけど、こうして懐かしさを掻き立てるものを見ていると、日本人であった時の記憶に思いを馳せてしまう。
過去の私は何を思い、何を感じて生きていたのか、気になってしまう。
私はその郷愁の想いを振り払うように、おにぎりに口をつけた。
懐かしさをそのまま形にしたようなおにぎりは、少し塩っぽくて、涙の味がした。
突然泣き出した私を、ミュチュスカは心配していたようだったけど、私は誤魔化した。
色々と思い出してしまって、と答えるとさらにミュチュスカの心配を煽ってしまったようだったので、彼もおにぎりを食べるよう促した。
ミュチュスカはそれを口にすると、しばらく沈黙していたが、やがて頷いた。
「意外と食べられるな」
と。失礼なのか、褒めているのか分からない言葉を口にして。
私はそれを聞いて、また少し笑った。
お米は日本のものよりパサパサとしていて、どちらかというとタイ米に近かった。
だけど、それでも私にとっては故郷の味だった。
ミュチュスカにとってこれは、未知の食べ物だっただろう。
だけど意外と食べられるものだと──新しい食感覚だと受け入れられてくれたようだ。
時々でいいから、これを口にしたい。
そう思ったが、その気持ちは振り払った。
今の私は日本人ではなく、レーベルト人だ。
郷愁の想いに駆られるのは、過去の記憶に思いを馳せるのは、もうこれで最後。
前世の記憶の欠片を、置いてきてしまった旧い記憶をすくいあげるようにして、おにぎりは色んな感情を私に運んだ。
きっと、厳密には、私がいた世界とアカネがいた世界は異なるのだろう。
私がいた『日本』には、『氷の騎士と常春の聖女』の本が存在していた。
でもアカネの世界にはきっとそれは──ない。
だから、まるきり同じ、というわけではないのだと思う。
前世の私と、今世の私。
前世日本人であった、という記憶はあるけれど、私がメリューエル・メンデルであることに変わりはしない。
懐かしい食べ物は、私にそれを教えてくれた。
私はそれに、気付くことが出来た。
もう思い出すことも出来ない、日本人であった私へ。
前世の自分に纏わることは何も思い出せないのに、『氷の騎士と常春の聖女』の内容だけは思い出せた。
なぜなのか気になってはいたものの、恐らくそれは前世の私からの今の私への警告だったのかもしれない。
このままでは、私は周囲を不幸にするだけの悪になる、と。
メリューエル・メンデルを、私を、少しでも哀れだと思うなら変える努力をしてみせろと、そういうことだったのかもしれない。
考えても意味の無い神秘に思いを馳せて、また少し、私は微笑みを浮かべた。
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