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三章
裏切った⬛︎、裏切られた⬛︎
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「……木の枝に引っかかっていて、幸運だったな」
「え……」
驚いて顔を上げる。
ミュチュスカは、私の髪に触れた。
切ってしまったから、顎下までしかない、短い髪の毛。
以前なら梳けるくらい長かったというのに、今はすぐ、彼の指先から零れ落ちる。
「きみを見つけたのは、朝陽が昇ってからだ。枝葉がクッションとなったために、落下の衝撃も少なかった。……きみの腹中心に打撲の跡があるのは、勢いよく枝に引っかかったからだ」
納得がいった。
どおりで、腹部に広範囲のあざがあったわけだ。
むしろ、あの崖から落ちてよくこの怪我だけで済んだものだと思う。
私はついていたのだろう。
ミュチュスカが、私の手を握った。シーツに触れている私の手の上に、自身のそれを重ねるようにして。
「朝が来て、絶望した。きみを探し始めてから、もう数時間が経過していた」
ミュチュスカは、真夜中でありながら朝陽が昇るまで探してくれていたのだろう。それを思うと、胸が痛んだ。
苦しくて。……嬉しくて。
私が俯くと、彼の指が私の手の甲をなぞった。
まるで、何かを示しているかのような。
指先でなぞられているだけなのに、愛撫されているかのような、みだらな動きに思えた。
「朝が来て、アーベルトに呼ばせた王都騎士団と合流し、きみを探した。流石のアーベルトも、あのまま逃げて犯罪者として処理されることは避けたかったんだろうね」
「っミュチュスカ……」
彼の指が、私の手首をなぞる。
そっと指先が這い上がってきて、肌をくすぐった。
息を詰めてミュチュスカの名を呼んだ。
だけど彼は答えず、過去に思いを馳せるようにして、言葉を続ける。
「俺はきみを失ったかと思ったんだ。……ああ、もう、これで終わりか、と。ただ、認めたくなかっただけ。きみに惹かれていると、きみが気になっている、と……それを受け入れるだけの器が俺には足りてなかった。……餓鬼のようなら意地を張り続けた結果がこれか、と。呆然とした。そして、自身のあまりの未熟さに、愚かさに、愕然とした。俺は……生まれて初めて、自分がこんなに愚劣な人間だと痛感したよ」
ミュチュスカは自嘲した。
乾いた笑いだった。
どこか遠くを見るようだった彼が、私の手首を握る。
ミュチュスカの手は、大きい。
私の手首を握ると、彼の手の大きさを、指の長さを、思い知らされた。
ミュチュスカは私の手首をぐっと握った。
まるで、拘束するように。逃がさないように。
「同じ過ちは、もう繰り返さない」
ミュチュスカは静かに言った。
そして、ちらりと私に視線を向ける。
次は私だ、そう言っているように感じたが、実際その通りなのだろう。
私は手を握ったり開いたりして、視線をさまよわせた。
「……ディミアンには、大したことはされていないわ」
「それを判断するのはきみじゃない」
「………。少し、口付けをされて……舐められた、くらいよ」
ぼそぼそと小さな、聞き取りにくい声になってしまったがミュチュスカにはハッキリと聞こえたらしい。彼の纏う雰囲気が変わったから。
私は俯いて、言い繕うように続けた。
「でも……本当に少しで……。乙女の証は奪われなかったし……」
私らしくない、しどろもどろな言葉だった。
乙女の証が奪われていないからなんだ。婚約者以外の手に触れられて、肌を許したのは事実だと言うのに。恐怖に背筋が凍った。
軽蔑されたらどうしよう。男なら、誰でもいいんだな、とそう言われたらどうしよう。
その恐怖が頭をもたげると、もういてもたってもらいられず私は顔を上げた。
「でも、嫌だったの!嫌だったけど、毒が効くまでは聖女のふりをする必要があったし──」
それが、とどめのようだった。
ミュチュスカの纏う空気がさらに冷たく、氷のようになった。彼は私の手に触れた。
凍えるように冷たい怒りを感じるのに、ミュチュスカの手はあたたかい。そのちぐはぐさに、心臓が嫌な音を立てた。
「え……」
驚いて顔を上げる。
ミュチュスカは、私の髪に触れた。
切ってしまったから、顎下までしかない、短い髪の毛。
以前なら梳けるくらい長かったというのに、今はすぐ、彼の指先から零れ落ちる。
「きみを見つけたのは、朝陽が昇ってからだ。枝葉がクッションとなったために、落下の衝撃も少なかった。……きみの腹中心に打撲の跡があるのは、勢いよく枝に引っかかったからだ」
納得がいった。
どおりで、腹部に広範囲のあざがあったわけだ。
むしろ、あの崖から落ちてよくこの怪我だけで済んだものだと思う。
私はついていたのだろう。
ミュチュスカが、私の手を握った。シーツに触れている私の手の上に、自身のそれを重ねるようにして。
「朝が来て、絶望した。きみを探し始めてから、もう数時間が経過していた」
ミュチュスカは、真夜中でありながら朝陽が昇るまで探してくれていたのだろう。それを思うと、胸が痛んだ。
苦しくて。……嬉しくて。
私が俯くと、彼の指が私の手の甲をなぞった。
まるで、何かを示しているかのような。
指先でなぞられているだけなのに、愛撫されているかのような、みだらな動きに思えた。
「朝が来て、アーベルトに呼ばせた王都騎士団と合流し、きみを探した。流石のアーベルトも、あのまま逃げて犯罪者として処理されることは避けたかったんだろうね」
「っミュチュスカ……」
彼の指が、私の手首をなぞる。
そっと指先が這い上がってきて、肌をくすぐった。
息を詰めてミュチュスカの名を呼んだ。
だけど彼は答えず、過去に思いを馳せるようにして、言葉を続ける。
「俺はきみを失ったかと思ったんだ。……ああ、もう、これで終わりか、と。ただ、認めたくなかっただけ。きみに惹かれていると、きみが気になっている、と……それを受け入れるだけの器が俺には足りてなかった。……餓鬼のようなら意地を張り続けた結果がこれか、と。呆然とした。そして、自身のあまりの未熟さに、愚かさに、愕然とした。俺は……生まれて初めて、自分がこんなに愚劣な人間だと痛感したよ」
ミュチュスカは自嘲した。
乾いた笑いだった。
どこか遠くを見るようだった彼が、私の手首を握る。
ミュチュスカの手は、大きい。
私の手首を握ると、彼の手の大きさを、指の長さを、思い知らされた。
ミュチュスカは私の手首をぐっと握った。
まるで、拘束するように。逃がさないように。
「同じ過ちは、もう繰り返さない」
ミュチュスカは静かに言った。
そして、ちらりと私に視線を向ける。
次は私だ、そう言っているように感じたが、実際その通りなのだろう。
私は手を握ったり開いたりして、視線をさまよわせた。
「……ディミアンには、大したことはされていないわ」
「それを判断するのはきみじゃない」
「………。少し、口付けをされて……舐められた、くらいよ」
ぼそぼそと小さな、聞き取りにくい声になってしまったがミュチュスカにはハッキリと聞こえたらしい。彼の纏う雰囲気が変わったから。
私は俯いて、言い繕うように続けた。
「でも……本当に少しで……。乙女の証は奪われなかったし……」
私らしくない、しどろもどろな言葉だった。
乙女の証が奪われていないからなんだ。婚約者以外の手に触れられて、肌を許したのは事実だと言うのに。恐怖に背筋が凍った。
軽蔑されたらどうしよう。男なら、誰でもいいんだな、とそう言われたらどうしよう。
その恐怖が頭をもたげると、もういてもたってもらいられず私は顔を上げた。
「でも、嫌だったの!嫌だったけど、毒が効くまでは聖女のふりをする必要があったし──」
それが、とどめのようだった。
ミュチュスカの纏う空気がさらに冷たく、氷のようになった。彼は私の手に触れた。
凍えるように冷たい怒りを感じるのに、ミュチュスカの手はあたたかい。そのちぐはぐさに、心臓が嫌な音を立てた。
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