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二章
全てを擲つ覚悟 【ミュチュスカ】
しおりを挟むロディアスとミュチュスカが共にメリューエルに宛てがわれた部屋に向かい、部屋を検分している途中で聖女が飛び出してきた。文字通り、ベッドの下から這い出てきたのだ。
これにはロディアスもミュチュスカも驚いた。とっさにロディアスの前に出て剣を抜こうと半分刀身をあらわにしていたが、相手が探していた聖女だと気がつくとその手も止まった。
「聖女様、ご無事ですか」
ロディアスがすぐに彼女のそばに歩み寄った。聖女の顔はぐしゃぐしゃだった。あまり化粧を施していないとはいえ、涙と鼻水で酷い有様だ。淑女がこんなふうに泣くところを少なくともミュチュスカは見たことが──いや、あった。
だが、相手は自身の婚約者だし、泣かせたのもまたミュチュスカ本人だが。
聖女は泣きながら語った。よく見れば、その手には覚えのある銀の髪が握られている。固く握りしめたためか、髪はくしゃくしゃになってしまっていた。
「わ、私の代わりにって……メリュ、メリューエルが……!」
泣きすぎていて何を言ってるのか上手く聞き取れないが、メリューエルと代わり、という言葉にロディアスとミュチュスカの顔は厳しくなった。ロディアスは根気強く聖女を宥め、話を聞き出した。
メリューエルが自主的に聖女の身代わりを申し出て、部屋を去った──。
自身の長い髪を切り、聖女に託して。
瞬間、ミュチュスカは、床に穴が空いたのではと思うほど深い絶望に囚われた。今、踏みしめているのは床なのか、それとも底のない沼地なのか分からない。
思ってもみなかった。
まさか、メリューエルを失う──かもしれない、そんな日が来るなんて。
だが、考えてみれば当たり前とは言わずとも可能性のある話だった。
貴族社会は常に策略と詭計に満ちている。
権力しか頭にない人間は、どのようにして権力者を引きずり降ろし、その後釜に収まろうかと、血眼になって権謀術数を巡らせている。
五大貴族は社交界で強い権力を有している。
メリューエルがメンデル家直系の令嬢である以上、命を脅かされる危険性は一般的な令嬢よりも高い。
わかっていたはずだ。
長くロディアスの側近として働き、アリアン公爵家次期当主として自覚していたはずだ。この世界は優しく平穏なものでは無い、と。
穏やかに見える日々は薄氷の上に成り立っている、と。
知っていたはずなのに。
それなのに──油断していた。
メリューエルなら、大丈夫だろう、と。
なぜかミュチュスカはメリューエルなら殺しても死なないだろう、とどこかで考えていたように思う。
死んでも死ななそうな逞しさがメリューエルにはあるからだ。
あの気の強い女は何をしても大丈夫だろう、という傲慢さがあったのかもしれなかった。
そのことに気がつき、唖然とした。
慢心していたのだ。騎士として叙任を受けたにもかかわらず、その名にふさわしくない思考、行動だったと今思い知った。
呆然とするミュチュスカに、ロディアスが代わって聖女をなだめている。
ぱらぱらと聖女の手から銀の髪が舞い落ちる。それを目にして、とっさにその髪を掴んでいた。聖女が驚いて目を見開く。
「っ……」
その黒い瞳と視線が交わって、ようやくミュチュスカは我に返った。
涙に潤む黒曜石のような瞳を見て、ミュチュスカは意図して落ち着いた声を出した。
「……殿下、単独行動の許可を」
「……できない。お前のことだから何か考えがあってのことだとは分かる。でも、王太子として許可できない」
「理由を」
短いが、はっきりと分かるほど冷たさを帯びた声だった。
ロディアスは今まで彼のこんな声を聞いたことがない。
今にも部屋を飛び出していきそうなミュチュスカは、ぐっと拳をにぎりしめることでその衝動を耐えていた。
あまりにも強く握りすぎていて、見ている方が心配になるほどだ。
ロディアスは聖女の頭に自身の上着を着せかけた。
涙と鼻水で酷い有様だからだ。
「きみもわかってると思うが、おそらくこの件には叔父上が関わっている。まずは捕らえた男を拷問にかけて──」
今回の襲撃は、予めメイドと従僕、騎士の食事に睡眠薬が盛られたのが原因だ。その中でも食事を取らなかったり、耐性があって眠らなかったものもいたが、全て賊にうちふせられていた。
だが、異常を察知し増援が駆けつけたことにより、数人は捕縛に至っている。末端のものだろうが、なにか話すかもしれない。
ロディアスはそう考えたのだろう。急いては事を仕損じる。
「それを待て、と?婚約者が攫われてなお、大人しく王城で呑気に待機しろと仰せですか」
「ミュチュスカ」
諌めるようにロディアスは言った。
ミュチュスカは彼を見ることなく、騎士服につけている章飾を取り外した。無理に取ったので、ぶち、という音がする。
これは王太子の側近を示す勲章だ。
これを外すということは──
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