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一章

裏切りの聖女、偽りの悪女

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思わず目を見開いた。
びっくりして顔を上げると、変わらず冷静な様子のミュチュスカが落ち着いた声で続けた。

「俺はやられっぱなしが一番嫌いだ。そしてきみはいつも良いように、自分勝手に振る舞うよね。俺はそれを見る度に思っていたんだ。きみの高慢な鼻を折ってやりたい、組み伏せて思い知らせたい、って。紳士にあるまじき考えだと自重しているし、俺は感情を抑えることは得意な方だから、今は実行に移していない」

ぐい、と腰を引き寄せられた。
息を呑む。見慣れたミュチュスカの騎士服に頬があたる。ひんやりとした感触は金のミリタリーボタンだろう。

「だからメリューエル。あまり俺を挑発しない方がいい。きみはあの夜の記憶があるでしょう?また泣きながら謝らされたい?」

「──ッ」

気がついた時には、思い切りミュチュスカの胸を押していた。
何、今の。何今の……何、今の!?
混乱のあまり、何も言えなかった。意味の無い言葉ばかり口からこぼれ落ちる。
あ、とか、う、とか。そういう類の母音のみ。羞恥なのか、屈辱なのか分からない熱で顔が熱くなる。何も言えなくなった私を見てミュチュスカが笑った。皮肉げな、シニカルな笑みだった。真面目が服を着ているような彼がそんな笑い方をしたことに、私は目を奪われた。

「そう、きみはそういう顔の方が似合うよ。そうやって悔しいけど負けを認めているような、そんな可哀想な顔がね」

ミュチュスカはにっこり笑った。
愕然とした。私はこんなミュチュスカを、知らない。
それからどうやって部屋のソファまでたどり着いたのか、あまり記憶はなかった。気がつけばミュチュスカはいなかったし、私は部屋でひとりだった。テーブルには、ミュチュスカが城下で買ってきたという菓子が並べられている。
隣にはまだ温いハーブティーが。
ぼんやりと記憶が戻ってくる。
たしかハーブティーはラズレッラが入れてくれたものだ。洒落た優美な小皿に載っているのは、スミレの砂糖漬け。
砂糖の塊を口にするなんていつもの私なら絶対しないが、これはミュチュスカが買ってきたものだ。
私にだけ、というわけではなくライラや聖女にも購入してきたというのだから、今頃ふたりもこれを食べていることだろう。そういえば聖女は小箱をもっていた。もしかしたら私と食べようとしていたのかもしれない。

私の婚約者ミュチュスカほかの女せいじょに贈ったものを私と食べる、か。
やはり聖女が何を考えているのか、私には全く分からない。口に運んだスミレの砂糖漬けはあまりに甘すぎて、そして花のかぐわしい芳香が漂って、甘いものがダメな私はすぐにギブアップしてしまいそうになったけど、皿に載った分は全て食した。

攻撃的な強い花の香りに、舌が麻痺しそうなほどの甘さ。まるでミュチュスカのようだ、と思った。

護衛騎士選抜の日。
私は聖女に呼び出された。
部屋に向かえば、ライラはいない。
呼び出されたのは私だけのようだ。
周囲に視線を走らせる私に、聖女は手持ち無沙汰にそわそわと手を握ったり開けたりしている。
私はそんな彼女を白けた思いで見ながら、儀礼に則り礼を執った。

「お呼びかと聞きましたが」

「あ、うん。ごめんね、メリューエルも忙しいのに」

「いえ、聖女様に比べたら瑣末事ですわ」

威圧感を与えないようにゆったりと話しながら聖女の話を促した。彼女は話しにくそうに視線を逸らした。嫌な予感がする。
どく、と心臓の音がやけに大きく聞こえた。
聖女は覚悟を決めたように顔を上げた。

「わたし、私──聖女護衛騎士にはミュチュスカさんを指名しようと思います」

「……理由をお伺いしても?」

そして、わざわざ私だけ呼び立てた理由も。
落ち着いた声で尋ねると、聖女はあからさまに慌てた様子を見せた。

「違う違う!ほんと、意味は無いっていうか、それを説明するためにもメリューエルを呼んだんだけどね?」

聖女は説明した。
ミュチュスカを選んだのは消去法だ、と。

六人のうち、まず私に無礼を働いたアーベルト・ベッテルガムだが、彼は表向き公爵子息として再教育を施す必要ありとされ、ベッテルガム公爵邸に戻されて再度社交マナーを学び直している最中だ。
事実上の自宅謹慎という処分。五大貴族の令嬢を陵辱しようとしたのだ。本来なら処刑でもおかしくないはずなのだが、私との間に何が起きたか表沙汰にできない以上、そこが落とし所だと私も理解している。
そのため、アーベルトは物理的に聖女騎士に選ばれない。
何より、陛下が許さないだろう。女に暴力を働いた男が、聖女護衛騎士に指名されるなど。
ふたりめのビジョン・ファルオニーは元から騎士向きの男ではない。ひょろりとした体躯の、根っからの研究オタクだ。いざと言う時に聖女を守りきられるか怪しいし、ビジョンの方が聖女護衛騎士を辞退するだろう。
そして三人目。
バルセルト・ルドアールは優しくはしてくれるものの、軽薄な雰囲気があって、苦手だという。確かにあの男は女を入れ食いしているので、聖女の感覚は正しい。

そして、五大貴族以外、つまり王族。
そのうちひとりのアレン・レーベルト・ルムアールは聖女自身が苦手に思っているので除外、王太子のロディアス殿下は全体的にきらきらしくて、あと何を考えているかわからず胡散臭くて苦手だ、とのことだった。

だから、選べるのはミュチュスカしかいない。
彼女は予め考えていたのだろう、すらすらと私に説明した。

ミュチュスカが、聖女護衛騎士に選ばれる。
私は聖女の言葉をどこか遠くで聞いていた。
やはり、ここは物語の世界。私がどう足掻いたところで、物語のとおりに話は進み、事態は動いていくのだ。
覚悟していたこと。既にこの世界には強制力というものがあるのかもしれないと考えていた。だから聖女のその言葉を聞いても驚きはなかったが、やはり、という裏切られたような感情には襲われた。
目を閉じる。聖女の不安そうな声が聞こえた。

「ほんとに他に意味は無いから!ミュチュスカさんは優しいし真面目だし、イケメンだけど!でもちゃんとメリューエルって婚約者がいるの私知ってるし!」

じゃあ、メリューエルわたしという婚約者がいなかったらどうなの?
意地悪な質問が口をついて出そうになったけれど、すんでのところで押しとどめる。
代わりに、貼り付けたような笑みを浮かべた。
笑うのは得意だ。愛想笑いをするのも、誤魔化すように取り繕ってみせるのも。

だって、メリューエル・メンデルはそうして育てられたのだから。

社交マナーや教養の授業、ダンスのレッスン。
そのどれもが、ひとつ間違えれば鞭を打たれ、食事を抜かれ、僅かでも太れば自己管理がなっていないと延々と教育係に嫌味を言われる。
そんな環境で育ったのだから、感情を誤魔化して笑うことには慣れている。
自分の暗い感情を、攻撃的な感情を。聖女には見えないよう覆い隠すのだ。偽りという名の薄いベールを乗せて。

「ええ、存じ上げておりますわ。私は聖女様を信じております」

ねえ、だから、《友達(わたし》を裏切らないでちょうだいね。
そんな気持ちで笑った。

その日──ミュチュスカ・アリアンが聖女の護衛騎士として指名された。

そしてその日以降、私とミュチュスカの婚約破棄の噂がまことしやかに社交界では囁かれるようになったのだ。





【一章 完】
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