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一章
そう簡単に気持ちの切り替えは
しおりを挟む次の日、ミュチュスカが見舞いに訪れた。
その時には私の喉もだいぶ良くなっていて、大声で話すことはできないけど普通に話すことができる程度には回復していた。
婚約者と言えど、寝室でふたりきりになれるはずもなく、私は続き部屋である応接室に彼を通した。ミュチュスカの対面に座る。
部屋の隅にはラズレッラが控えているが、この距離だ。大声をあげなければ会話が聞こえることもないだろう。
ミュチュスカは私を見て、目を細めた。不機嫌そうな顔だ。足を組みながら、私をじっと見つめた後、ミュチュスカはまつ毛を伏せた。
「回復したようだな」
「……はい。お陰様で」
「先日のことを、きみはどれくらい覚えている?」
ミュチュスカは砕けた言葉で問いかけてきた。彼が敬語を使わず、私をあなた、と呼ばないのは珍しくて困惑した。
しかしミュチュスカはそんな私に構わず、深い海色の瞳でこちらを見つめた。いや、見つめる、という表現では生易しいだろう。睨みつけているようにすら感じる。
今日もいつもと変わらず、ミュチュスカは美しかった。癖のある黄金の長髪が肩にかかり、胸元に流され、煌めきを帯びている。
シャツの隙間からちらりと覗く白い首筋は色っぽいのに、切れ長の冷たい瞳が全体的な雰囲気を冷たく凍らせていた。
アンバランスなのだ、彼はとても。
眠っている時はきっと、無防備でただ危うい色気を振り撒くだけなのだろう。私は彼の寝姿を見たことがないが、中性的でどこもかしこもお上品、という言葉がピッタリ当てはまる美しい彼は、目を閉じるときっと芸術品のようになる。
彼の、ミュチュスカの蒼い瞳は、あまりに力強すぎる。
華やかで他者を魅了する容姿でありながら、彼が夜会で婦人や令嬢のアプローチに埋もれずに済んでいるのは、その強すぎる瞳があるからだ。だいたいは、彼のその氷のような冷たい青の瞳に、牽制される。彼は近くで眺める芸術品なのではなく、遠目に楽しむ観賞用なのだと思わさせる。
もっとも、私のように欲望が人一倍強く、自重という言葉を知らない女には大した効果がないようだが。
私はミュチュスカの瞳を見るのが好きだ。だから今も、彼と話しているというこの状況を利用して好きなだけ眺めた。さながら視姦のような目付きになっていたことだろう。
ミュチュスカが眉を寄せた。
「メリューエル」
「……ああ、先日のこと、ですか?」
私は今聞いたようにうっとりと微笑んだ。
きっと、華のようだと称される可愛らしい笑みになっていることだろう。だけどこの微笑みがミュチュスカに通用したことは無い。
私はくちびるに人差し指を当てて、考える素振りをした。
「あまりはっきりとは。でも、あなたが来てくれたことは覚えているわよ?ミュチュスカ、あなた私に触れられたのね?」
にっこり笑っていう。
すぐにでも席をたち、彼の隣に座り直しそうに見えたのか。彼は牽制するように言った。
「触れるだけなら誰でも出来る。命令なら、俺はどんな穢れだって触れられるよ。きみは忘れてるみたいだけど、俺は騎士だ。国に忠誠を誓っている」
「嬉しい誤算ね」
「きみは相変わらず、表面上の言葉しか受け取らないな。あの時、俺が望んできみに触れたと思うか?嫌いな女に、わざわざ俺が触れるとでも?」
「でもあなた、私に触れられたじゃない。それでこの話は終わりよ。それで?ミュチュスカ。私に嫌味を言うためだけに来たわけじゃないでしょう?婚約者に愛の言葉ひとつないのかしら。私、待ってるのだけど」
ミュチュスカの鋭い言葉を受け流して微笑めば、ミュチュスカが苦い顔になった。
そして、足を組みかえながら私に言った。
「……あの後、医者にきみを診せた。もちろん内密にね。結果、きみが飲まされたのは『黒夢の幻』と呼ばれる違法薬物であることが分かった」
あら、意外。
ミュチュスカは私のために医者を呼んでくれたのか。嫌いな婚約者のためにわざわざ、ご苦労なことだ。真面目なミュチュスカのことだ。あのまま放置して私が息絶えるようなことがあれば困ると考えたのだろう。
ふぅん、と興味無さそうな声が出た。ミュチュスカの眉が寄る。
「きみはあの時、色々言っていたが脈略がなくてよく分からなかった。だから、今、改めて聞く。きみはどうしてあれを飲むはめになったんだ?」
「………」
私は少し考えた。
聖女がディミアンに酒を──違法薬物が混入したそれを飲まされそうになっていた、と言えば今のミュチュスカは更に聖女に対して庇護欲を抱くことになるだろう。それは避けたいわね、と考えた。すました顔で黙り込んでいたからか、また私の名が呼ばれた。ため息をつく。
「せっかちね、ミュチュスカ。あなたそんな男だったかしら?」
今までは私の返答がなければさっさと踵を返していたような男だ。私の言葉を待つようになっただけまだマシなのかもしれない。こうして考えると本当に嫌われているな、と分かり自嘲した。
「俺がどういう男か、きみは知ってるのか?」
きみごときが?とでも言いたげな声だった。だから私も微笑む。
「ええ、知っているわ。ミュチュスカ。あなたについて、あなたが知らないことまで知っているかもしれないわね」
ミュチュスカはますます嫌そうに眉を寄せた。
そんな顔も美しい、と思いながら私は先程の彼の質問に答えた。
「……さぁ、あの時は私も酒が進みすぎて忘れちゃったわ。ああ、でもディミアンには気をつけるのね。彼の行動には目を光らせたらどう?聖女護衛騎士様」
「……俺はまだ聖女護衛騎士と指名されたわけじゃない。ディミアンに飲まされたのか?」
「覚えてないわよ。でも、そうね。あの男と話して──そこから、記憶の混濁は始まってるわね。ねえ、ミュチュスカ。あなたが私のそばを離れたからこうなったのよ?それは、覚えておいてね」
毒を忍ばせる。
もっともそれは、今すぐ効く即効性のあるものではない。この毒はいずれ──そう。私が死んだ後に発揮するものだ。
その時になって、ミュチュスカは自責の念に駆られればいい。私が笑うと、ミュチュスカはしばらく黙っていたがやがて答えた。
「……ああ、そうだな」
と。驚いた。
いつもの彼なら『先日の夜会のエスコートは俺じゃなかった。エスコート役の男に言え』とでも言っているところだ。やはり、彼なりに思うところがあるのだろう。今、それほどに効いているなら、私が死んだらきっと。
その時のことを考えると、笑みがとまらない。
ミュチュスカは仕事途中に抜け出してきたようで、すぐに部屋から出ていった。ひとり残された私は、ミュチュスカが一口も口を付けなかった紅茶をぼんやりと眺める。
何も入れていないのだけど、と内心自嘲した。
警戒されてしまっただろうか?
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