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二章:逃げられないのなら
昔の記憶
しおりを挟む──聖暦1246年7月12日。
十五歳、夏の日。
社交デビューが近づいてきた。
デビューを迎える令嬢らしく、私は白のドレスに身を包んでいる。まるでウェディングドレスのように思えて、苦い気持ちになる。
仮縫いしたドレスに身を包むと、お母様がとても褒めてくれた。
「とっても綺麗よ!フェリス。今度の夜会で話題をさらうのはあなたかもしれないわね?」
「お母様ったら……」
前回は、ウブルクの娘として、失敗は許されなかった。姉に恥をかかせるなと強く注意され、兄には公爵家の娘として最低限の振る舞いをしろときつく言い含められた。
パーティに向かう前に私は既に緊張で胃と腹が痛かった。
それでも失敗だけは許されない、と何度も言葉を繰り返し、澄ました顔を貼り付けて夜会に臨んだ。
そして──そこで、彼と出会ったのだ。
リュシアン殿下と。
その時初めて私は、彼が七歳の誕生日の夜に出会った【オーブリー】なのだと知ったのだ。
(最初は……オーブリー・デスピアこそが彼なのだと思ったけど)
リュシアン殿下から直接言われて、思い違いをしていた事実に気がついた。
確かに髪の色が違ったけど、なにか事情があるのかしら、と私は呑気にも考えていたのだ。
まさか、ティファーニの王太子が思い出の彼とは思いもしなかったから。
お針子が私の前に立ち、サイズ感を確かめる。彼女の手が胸部に触れ、腹部に触れると、彼女は短く唸った。
「うーん……少し布が余ってますね」
カッと頬が熱を持つ。
胸がささやかなのは、ミレーゼであった時と変わらない。フェリスとなり、新しい人生を歩むこととなったけど、残念なことに体型はあまり変わらなかった。
……体型だけではない。
私は、髪色と瞳の色こそ違うものの、顔かたちはミレーゼそのものだった。
まるで、ミレーゼの金の髪を黒に染め、蜂蜜色の瞳を空色に変えただけのよう。
ミレーゼである私を知らないから誰も指摘しないが、ミレーゼを知る人なら、おや、と思う程度には、全く顔の造形が同じだった。
……悲しいことに、胸の貧弱さも。
十五歳となり、もう少し成長するだろうかと期待していたのだが、残念なことに今後の発育は望めそうになかった。
お針子の、胸元の布が足りていないという発言に顔を赤らめていると彼女は巻尺を手に、ふたたびあちこち測り始めた。
「やっぱり、ウエストがかなり緩いです。お嬢様、痩せられました?」
「え……?」
バストじゃなくて、ウエスト?
目をぱちくりさせてお針子を見ると、彼女は私の腰に手で触れながら顔を上げた。
薄い茶色の癖髪に、そばかすの浮いた頬。眼鏡を掛けた彼女はミリアンと言う。
王都に店を構える【ラジュボール】のお針子だ。
ミリアンの言葉にお母様が思い出したように言った。
「そういえば、アークも言っていたわ。あなたが少しほっそりしたようだ、って。心配していたの」
「……そう、でしょうか?」
意識して減量を心がけてはいなかった。
だけど指摘されて気がつく。
社交デビューが近づくにつれ、自然と私は自身の体型を気にするようになっていた。
ドレスを綺麗に着られるようにウエストはなるべく絞るべきだ。腰は、細ければ細い方がいい。
腰の細さが、ドレスの形を決めるのだから。
その思いで、知らず知らずのうちに食事を抑えていたことに気がつく。
その思考も、ウブルクで過ごしていた頃に自然と身についたものだった。
夜会やパーティがある時は、その一ヶ月前から減量を心がけ、芋やパン、パスタといった重たいものは意識的に避けるようにしていた。
いつの間にか、それが癖づいてしまっていたのだ。
ウエストが細くなったのも、納得の理由だった。
私は言葉を選びながらもミリアンに言った。
「細い方が……綺麗に着られるかと思ったの」
「まあ!じゅうぶんお嬢様は細いですよ!既にとても細くいらっしゃるのに、これ以上減量するのはよろしくありません。健康を害しますわ。あまり体重を落とされると、貧血にもなりますし、疲労も溜まりやすくなります」
真剣な顔をしてミリアンが言った。
「そうよ、フェリス。あなたはとても細いわ。……折れそうなほど細い腰は、たしかに淑女の憧れだけど……。彼女たちは肋の骨を抜いていると聞くわ」
お母様は苦々しく言った。
そして私を見て、ふたたび諭すように言った。
「あなたはじゅうぶん、美しいです。だから、もう減量は不要ですよ。今日は、あなたの好きなグラタンフィノアを用意させましょう。パリジャンサンドイッチに、ポタージュとヴィシソワーズのジュレもね」
見事にパンと芋尽くしだ。
私はくすくす笑いながらお母様に言った。
「もう、そんなに食べられません」
「少しづつ食べれば良いのよ。せっかくですもの。アークの好きな物も用意させましょうか。あの子はカリーヴルストが好みだったわね……」
そうしてドレスの打ち合わせが終わると、ミリアンが部屋を出た。
私もそれに続いて部屋を出ようとすると、お母様に声をかけられる。
「フェリス」
「?……はい」
くるりと、振り返ってお母様を見る。
彼女は、瞳を細めて私を見つめていた。
切なそうな視線に、訳もなく胸が騒ぐ。
「お母様……?」
「あなたは、今思い焦がれる男性はいますか?」
お母様に突然尋ねられて、息を呑むほど驚いた。
突然の質問に動揺したし、困惑したが、私の答えはひとつだった。
「いいえ、いません」
「……それならいいの。フェリスにもいつか、愛する人が現れるわ。その時……相手が、誰であっても、私はあなたを応援しようと思うの」
「…………?」
意図の読めないお母様の言葉に、私は内心首を傾げた。
(誰であっても……?)
伯爵家の娘である以上、私もいずれ誰かと結婚することになるのだろう。
だけど、政略ではなく、私は愛し愛されるような結婚がしたいと思っていた。
以前は、不可能だった願い。
フェリスとして、今の私なら、きっとそれも許される。
(ううん。……許されなくても……もう、あんな結婚は、嫌)
冷たい日々だった。
氷を飲んでいるような、そんな冷たさを毎日感じていた。
初夜のベッドで言われた言葉は、今もなお、私の胸に刻み込まれている。
『僕に愛されてる、と思った?』
酷薄な、彼の瞳。
薄い灰青の瞳は、何を写しているのか私には分からない。
『僕はきみを愛していない。愛されていると思ってるなら、間違いだね』
愛されている、なんて思っていなかった。
だけど言葉にして突きつけられると、それはナイフのように私の心臓を刺した。
私は、顔を上げた。
もう失った、存在しなかったことになっている過去から振り切るように。
お母様が、切実に──そうだ。
これは、心配する瞳だ。
彼女の案じる瞳を見つめ返して、私は微笑んだ。
「ありがとうございます、お母様。今はまだ分からないけれど……いつか、私も人を愛することができたら、と思います」
意図的に省いた言葉。
(いつか、私もまた人を愛することができたら──)
過去、恋をしたことがあった。
焦がれたことがあった。
だけどそれも、昔の記憶。
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