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一章:ミレーゼの死

二十年前 夏

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どれほど自失していたのだろう。
魅入られたように窓ガラスに映り込む自分を見ていると、不意に扉がノックされた。

「お嬢様?起きていらっしゃいますか?」

びく、と大きく肩が跳ねる。
いや、体全体かもしれない。
とにかく私は心底驚いて、扉の方を見た。

(お嬢様……?それって、私……?)

お嬢様、と呼ばれていたのはウブルクの家以来。
それも、こんなに明るく呼びかけられたことは無い。
いつも静かに、だけど感情を一切感じさせない声で「お嬢様」とは呼ばれ、こんなに朗らかに呼ばれたことは無かった。
私は動揺していた。パニックのあまり、何を答えればいいのか、何をすればいいのかすら分からない。
お嬢様、とは私のことなのだろうか。
見た目も年齢も変わってしまっている。

今までの記憶は、どこまでが正しいの……?
私は、誰……?

戸惑っているうちに、相手の女性は部屋に入ることにしたようだった。

「失礼します」

扉が静かに開く。
女性は、以前の私とそう年齢が変わらないようだった。彼女は窓辺に立つ私を見て、目を丸くした。

「お嬢様!起きていらっしゃったのですね」

「私、は……」

「さあさ。朝のお支度をなさいますよ。今日はお嬢様のパーティーデビューでしょう?早くお支度なさいませんと!間に合わなくなってしまいますわ」

女性はメイドのようだった。
彼女の後に数人のメイド服を包んだ女性も入室してくる。その誰もが朗らかに笑い、私に挨拶をする。
私は目を回しそうだった。

一体これは、どうなっているの……?

一人のメイドに促されて、私はドレッサーの前に座った。目の前には、眉を下げて不安そうにこちらを見る少女が鏡に映っている。
青に近い紺の髪も、薄い水色の瞳も、全く見慣れない。その少女は──私は、心細そうにきょどきょどしていた。

「フェリスお嬢様の髪は相変わらず絹のように柔らかいですわね」

(フェリス……?)

一人のメイドが言うと、続いて他のメイドも頷いた。

「柔らかくてふわふわしていらっしゃる。お嬢様の愛らしいお顔といい、一目見た紳士はすぐさまお嬢様に心を奪われてしまいますね」

「本日は、ウブルク公爵家主催のティーパーティー。良き出会いがあるとよいですね」

(ウブルク……!?)

思わず席をたとうとしてしまい、がた、と派手に腰かけていた椅子が音を立てる。
突然のことにメイドたちが目を丸くする。
私は何を言っていいのか口を開閉させながら、ようやく尋ねることが出来た。

「こ……こは、どこ……なの」

目が覚めてからずっと、気になっていたことを。

メイドたちは目を丸くして、それからぎこちなく笑みを浮かべた。手にした櫛が小刻みに震えている。

「冗談……ですわよね?お嬢様ったら。今度はそういったお遊びですか?」

「ちが……違うの!聞いて。私は……私は」

ウブルクの娘、ミレーゼだった。
そしてティファーニの王妃であり、歳は二十五だった。
気がついたら、見知らぬ幼女になっていたの。

そのまま口にしようとしたが、それがあまりにも荒唐無稽であることは、口にせずともわかった。馬鹿馬鹿しいと取り合って貰えないか、あるいは頭の病気を心配されるだろう。

気まずい沈黙が落ちる。
先程まで和気あいあいとしていた室内は、一気に重たい空気となった。

メイドのひとりが、戸惑った様子で私を見た。
薄茶色の髪をひっつめ、後れ毛を少し垂らしている女性だ。口元には、印象的なホクロがある。

「お嬢様……それは、本当に?」

恐る恐る、といった様子で彼女が尋ねた。
手にリボンを持っているメイドが、動揺に震えた。
私は彼女たちに囲まれながら小さく頷く。

「……何も、分からないの……」

「お、お医者様をお呼びして!すぐによ!!」

メイドの一人が転がるように部屋を出ていった。
メイドという職に就く女性がそんなに慌てるところを、私は初めて見た。
少なくとも、ウブルクに仕える女性、そして王妃に仕える女性たちは、何があってもスカートの裾を乱すことはなかった。
緊急時であっても、感情より礼儀を重んじるよう、躾られていたのだ。

ここは、王城とも、そしてウブルクとも全く違う。と私は呆然とそんなことを考えた。

それからすぐ、お医者様が手配された。
壮年の男性は、名をハリスと言った。

「お嬢様、お久しゅうございますな」

「……ごめんなさい。私は、あなたが誰かわからりません」

ハリスの言葉からすると、彼と私は顔見知りなのだろう。この家の専属医なのかもしれない。
私が小さく謝罪をすると、彼は僅かに目を見開いたがすぐに「なるほど」と答えた。

「お嬢様は、記憶に混濁があるのですね」

「…………」

私は押し黙った。
何が起きているのか、私には全く分からない。
ミレーゼとして生きていたはずなのに、気がつけばフェリスという少女の体になっていた。

魂だけ入り込んでしまった?
そんな有り得ない発想まで浮かんでしまうが、そもそもこの状況が既に有り得ない。
有り得ない状況が既に起きている以上、もはやどんな可能性だってバカバカしい、とは捨てきれない。
ハリスは、その後いくつか私に質問した。

「お名前は言えますか?」

「先程、彼女たちがフェリス、と……」

ファミリーネームは?」

「……分からないわ」

「年齢は言えますか?」

「それも、分からない」

「では逆に、お嬢様が覚えていらっしゃることは?」

ハリスに質問されて、私は少し考えてから答えた。

「この国が恐らくティファーニ……であること。ティファーニの基本的な情報、貴族社会のマナーは覚えている……と思うわ」

「日常生活に影響が出るような部分の記憶欠損は見当たらない、と。最後に……本日の聖歴を仰ってください」

「……今日は」

冬真っ只中の、寒い日だった。
北にあるティファーニは、四季関係なくいつも寒いけれど、冬は格別だ。
王城は、陛下によるエルフの祝福によって降雪の影響は出ていないけど、地方は雪が降り積もり悪路となる。
私は、記憶にある日にちを口にした。

「聖暦1256年12月5日です」

それは、私が死んだ日でもあった。
ハリスは、険しい顔をして私を見た。
そして彼は言う。

「……お嬢様。本日は聖暦1236年の9月1日でございます」

私は言葉を失った。
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