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二章
今更、言っても信じられないかもしれないけど
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夜が明けた。
明け方頃、ようやく雨は止み、どこかでピチピチと鳥の鳴く声が聞こえた。
眠るエレノアを椅子にもたれかけさせて、私はロディアス陛下のそばに行った。
額にてのひらに当てれば、熱はまだ高い。
昨夜よりはマシな方だが、それでも。
港町に行って、薬を買いに行くべきだろう。
薬代は、いくらくらいだろう。
手持ちで、足りるだろうか。
足りなければ、なにか売って工面しなければ──。
それに、そうだ。
食事処も今日は休むと伝えに行かなければ。
陽は昇ったし、女将さんはもう起きているだろうか。
私がそう思った時だった。
トントントン、と控えめに玄関扉が叩かれる。
不思議に思ってそちらに近づくと、囁くような声が聞こえてきた。
「おはようございます。朝早くに申し訳ありません。ミュチュスカです」
「──」
ミュチュスカ。
彼ともまた、三年ぶりだ。
私は錠を外し、扉を開けた。
そこには、三年前より大人びた様子のミュチュスカがいた。黄金の髪をひとつに束ねているところは変わらないが、以前よりも落ち着きが増しているように見える。
もともと静かなひとだと思っていたが、さらに、なにものにも動じないような硬さが、今の彼にはあると思った。
私が久しぶりの再会に目を瞬かせていると、彼もまた私を見て、少しだけ目を見開いたあと──目礼した。
「朝早くに申し訳ありません。ロディアス陛下のご様子は」
それで、納得がいく。
昨日、ロディアス陛下は強硬手段をとってこの家までやってきたのだろう。
そして、ミュチュスカはその後を追ってきた。
私はちらりと背後の彼に視線を向けて、答える。
「まだ熱は高いですが……昨夜に比べれば、良くなった方かと思います」
「そうですか……」
無表情の彼が、ほんの少し安堵したように見えた。
「馬車を手配します。港町の詰所に連絡し、至急用意を整えさせます。……突然のことで、ご迷惑をおかけしました。陛下に代わり、臣下として、感謝いたします」
「そんな……。いいえ、こちらこそ……。陛下が……ロディアス様が、無理を押してここに来たのはきっと……私のせいです。ですから」
「陛下ご自身の意思です」
ミュチュスカが、やけにハッキリと言った。
そして、ちらりと私の背後に視線を向ける。
「馬車の用意が整い次第、改めて伺います。お手数をおかけしました」
「待ってください」
思わず、彼に言っていた。
今にもこの場を去ろうとしていたミュチュスカは、私の制止に、怪訝な顔をした。
私は、自分でも言葉がまとまらないうちに、自分でも、何を言いたいか理解できないうちに、するすると言葉をこぼしていた。
「確かにこの家では、大した治療は行えません。……ですが、陛下の……ロディアス様の看病は、私にさせてくれませんか」
「…………」
「お願いします」
一国の王を、適切な医務室ではなく、あばら家に置き、専門医ではなく、平民の女が看病する。
有り得ない話だ。許されない話だ。
それを理解していながら、私はミュチュスカに頭を下げた。
このまま、このまま──彼と、別れたくなくて。
そばに、いたくて。
頭を下げていると、静かに、ミュチュスカが言った。
「かしこまりました。では、必要な物資だけ持ってまいります」
「え……。良い、のですか?」
思わず顔を上げると、彼は変わらず静かな瞳で私を見ていた。
「良いも何も、それを決めるのは私ではありませんので。……ただ、陛下でしたらそう仰られるだろう、と思っただけです」
「……そう。……ありがとう」
礼を言うと、ミュチュスカは短く「いえ」とだけ答えた。
変わらず無表情で、静かな瞳のままだったけど──彼のその気遣いが、とても嬉しかった。
その後、ミュチュスカが持ってきてくれた薬をロディアス陛下に飲ませた。
遅れて医師も到着し、ロディアス陛下の様子を診る。
その時には、彼もうすらと意識を取り戻していて、しっかりと医師の問いかけに答えていた。
医師は、ロディアス陛下を一通り診ると、やがて風邪だろう、と決定付けた。
もともと睡眠不足だったところをさらに冷たい雨に長時間打たれたせいで、無理が祟ったのだろう、と。
よく休んでくだされ、と最後に医師は言った。
陽が昇り、様子を見ているうちに、ずいぶん彼の顔色も良くなってきた。
熱も、平常時より少し高いくらいで、下がってきている。
それでも、冷たい手巾はそのまま額に載せ、温くなるとその度に交換した。
ミュチュスカは、私の代わりに食事処に行き、本日出勤できないことも伝えてくれた。使い走りのようなことをさせるのが申し訳なく固辞したが、ミュチュスカは『それが私の仕事ですので』と頷かなかった。
私は、ロディアス陛下の髪を梳きながら、彼の顔を眺めた。
エレノアは、ロディアス陛下の風邪が移ってはいけないので、老夫婦に預けている。
彼の柔らかくも、細い金の糸のような髪質は、エレノアそっくりだ。やはり、エレノアの髪は彼に似たのだろう。
父娘の共通点を見つけ、思わず微笑みを浮かべた。
「……なにか、いいことでも、あった?」
掠れた声が、聞こえた。
ハッとしてそちらを見ると、ロディアス陛下が目を開けていた。白金のまつ毛を持ち上げ、夜の始まりのような、朝焼けのような、アメジストにも似ている、ルビーにも似ている瞳をこちらに向けていた。
まだ体調が悪いのだろう。
その声は掠れ、小さなものだった。
それでも、昨夜に比べ、顔色はとてもいい。
私は彼の顔を眺めながら、瞳を細めた。
彼の前髪を撫でる。
前髪を横にはらうと、白い額が現れ、それは年齢以上に彼を幼く見せた。
「は……、面倒を、かけてごめん、こんなはずじゃなかったんだけどな……」
ぼやくように、熱い息を吐きながら彼がつぶやく。
自嘲するような声だった。
「……昔。私は、あなたが好きでした」
語りかけるように、話し出す。
彼は、少し驚いたように目を見開いた。
だけどすぐ、力を抜いて、穏やかな瞳で私を見た。
私は、時折、彼の癖っ毛の髪を指に巻き付けるようにして、その感触を楽しんだ。
その癖っ毛も、エレノアと同じ。
くるくるとカールするその髪は、 しっかりと櫛を入れて梳かなければ鳥の巣のようになってしまうことを、私は知っている。
「だけど、好き……という感情だけでは、だめだと思うのです」
「…………」
「結婚とは、婚姻とは、愛だけで成せるものではありません。好きという感情だけで、結ばれるのでは、いずれ、瓦解します。ほんの少しの綻びが、破綻に繋がるのです」
「……うん」
彼は、私の話の着地点が読めないはずなのに、静かに聞いている。私は、盥にかけている手巾を水に浸し、絞るとまた、彼の額に濡れた手巾を置いた。ひんやりとした感覚が心地いいのか、彼が瞳を細めた。
「あの時、私とあなたに足りないものは、きっと、信頼、だった。……そして、私は……あなたを愛していたけれど、信用はしていませんでした」
「……うん」
「今も、あなたを信用しきれるか、というと……それは分かりません。私は、あなたを愛する女である前に、エレノアの母ですから。母である私が、誤った選択をすれば、それは、エレノアにも影響が及ぶ。あの時は、私ひとりの身でしたから、何を選択しても、その結果、どうなろうと私だけの責でした。でも、今は違う」
「エレメンデール。エリィ、僕は──」
「聞いて。ロディアス様」
私は、彼の言葉をさえぎった。
彼の口を封じるように、そっと指先を押し当てた。彼が、困惑したように私を見る。
だけど私は、言葉をとめなかった。
「……あなたを、愛しています」
「──」
彼が、息を呑む気配がした。
だけど、何も言わない。
言えないのだ。
私が、くちびるを指で押えているから。
「ですが、愛だけで、婚姻はできません。……夫婦に必要なのは、愛ではない。……いいえ、もしかしたら、愛も同じくらい必要なのかもしれない。だけどそれ以上に求められるのはきっと──【信頼】です」
「…………」
「昨日、あなたは駆けつけてくれました。エレノアの誕生日に。昨夜は酷い雨でしたし、きっと無理だろうと私は諦めていました。あなたが来れなくても仕方ないだろう、と……信用していませんでした。だって、あなたはこの国の王で、私よりも優先すべきことがある」
彼は、静かに聞いている。
雨が上がり、雲の切れ端から陽が差し込んでいるのか、窓辺にやわらかな日差しがかかる。
「……信用したい、と思いました。必死に……私のために。エレノアのために。真夜中に駆けつけてくれた……あなたのことを」
「エレメンデール」
彼が、私の手を掴んで起き上がる。
「だめです。まだ熱があるのですから」
「構わない。きみは、今」
「待って!待ってください……。その前にひとつ、お伝えしたいことがあります」
覚悟を。
彼を、あなたを──もう一度。
今度こそ、信じよう、と思うだけの、思えるだけの、覚悟を。
その言葉を、口にするのは想像以上に覚悟が必要だった。緊張にくちびるが震える。
だって、それを言ってしまったらもう、後戻りはできない。
この選択が、本当に正しいのか。
この選択を、あとから後悔しないか。
分からない。
でも、後悔しないように生きたい、と思った。
女将さんの言葉を思い出す。
『人生は、後悔の連続だ、とか……人生の選択の先には、必ず後悔がある……なんて言うが、あたしはできるなら、その【後悔】の量を減らして生きていきたいと思っている』
娘さんと、旦那さんを、同時に流行病で亡くした彼女は、きっとたくさん後悔したのだろう。あの時伝えていれば、というようなことが、たくさんあったのだろう。
ひとは、後悔を重ねて生きていく生き物だ。
だけど、その【後悔】するだけの【量】を減らしていく努力は──できるのかもしれない。
いや、できるのだと、思いたい。
だから。
私は、ロディアス様の手を掴んだ。
彼の手は、熱い。
私の手も、恐らく。
強く、掴んだ。
私の決意を、勇気を、覚悟を、示すように。
顔を、あげる。
彼と、視線が交わる。
透明度の高い、水晶のような。
煌めきにも似た泡沫が、瞳の中で弾けるように見える。
私は、ふ、と笑った。
信用したい。
信用しよう。
信頼、できる……そう、思えた。
だから。
「……エレノアは、あなたの子です。ロディアス様」
明け方頃、ようやく雨は止み、どこかでピチピチと鳥の鳴く声が聞こえた。
眠るエレノアを椅子にもたれかけさせて、私はロディアス陛下のそばに行った。
額にてのひらに当てれば、熱はまだ高い。
昨夜よりはマシな方だが、それでも。
港町に行って、薬を買いに行くべきだろう。
薬代は、いくらくらいだろう。
手持ちで、足りるだろうか。
足りなければ、なにか売って工面しなければ──。
それに、そうだ。
食事処も今日は休むと伝えに行かなければ。
陽は昇ったし、女将さんはもう起きているだろうか。
私がそう思った時だった。
トントントン、と控えめに玄関扉が叩かれる。
不思議に思ってそちらに近づくと、囁くような声が聞こえてきた。
「おはようございます。朝早くに申し訳ありません。ミュチュスカです」
「──」
ミュチュスカ。
彼ともまた、三年ぶりだ。
私は錠を外し、扉を開けた。
そこには、三年前より大人びた様子のミュチュスカがいた。黄金の髪をひとつに束ねているところは変わらないが、以前よりも落ち着きが増しているように見える。
もともと静かなひとだと思っていたが、さらに、なにものにも動じないような硬さが、今の彼にはあると思った。
私が久しぶりの再会に目を瞬かせていると、彼もまた私を見て、少しだけ目を見開いたあと──目礼した。
「朝早くに申し訳ありません。ロディアス陛下のご様子は」
それで、納得がいく。
昨日、ロディアス陛下は強硬手段をとってこの家までやってきたのだろう。
そして、ミュチュスカはその後を追ってきた。
私はちらりと背後の彼に視線を向けて、答える。
「まだ熱は高いですが……昨夜に比べれば、良くなった方かと思います」
「そうですか……」
無表情の彼が、ほんの少し安堵したように見えた。
「馬車を手配します。港町の詰所に連絡し、至急用意を整えさせます。……突然のことで、ご迷惑をおかけしました。陛下に代わり、臣下として、感謝いたします」
「そんな……。いいえ、こちらこそ……。陛下が……ロディアス様が、無理を押してここに来たのはきっと……私のせいです。ですから」
「陛下ご自身の意思です」
ミュチュスカが、やけにハッキリと言った。
そして、ちらりと私の背後に視線を向ける。
「馬車の用意が整い次第、改めて伺います。お手数をおかけしました」
「待ってください」
思わず、彼に言っていた。
今にもこの場を去ろうとしていたミュチュスカは、私の制止に、怪訝な顔をした。
私は、自分でも言葉がまとまらないうちに、自分でも、何を言いたいか理解できないうちに、するすると言葉をこぼしていた。
「確かにこの家では、大した治療は行えません。……ですが、陛下の……ロディアス様の看病は、私にさせてくれませんか」
「…………」
「お願いします」
一国の王を、適切な医務室ではなく、あばら家に置き、専門医ではなく、平民の女が看病する。
有り得ない話だ。許されない話だ。
それを理解していながら、私はミュチュスカに頭を下げた。
このまま、このまま──彼と、別れたくなくて。
そばに、いたくて。
頭を下げていると、静かに、ミュチュスカが言った。
「かしこまりました。では、必要な物資だけ持ってまいります」
「え……。良い、のですか?」
思わず顔を上げると、彼は変わらず静かな瞳で私を見ていた。
「良いも何も、それを決めるのは私ではありませんので。……ただ、陛下でしたらそう仰られるだろう、と思っただけです」
「……そう。……ありがとう」
礼を言うと、ミュチュスカは短く「いえ」とだけ答えた。
変わらず無表情で、静かな瞳のままだったけど──彼のその気遣いが、とても嬉しかった。
その後、ミュチュスカが持ってきてくれた薬をロディアス陛下に飲ませた。
遅れて医師も到着し、ロディアス陛下の様子を診る。
その時には、彼もうすらと意識を取り戻していて、しっかりと医師の問いかけに答えていた。
医師は、ロディアス陛下を一通り診ると、やがて風邪だろう、と決定付けた。
もともと睡眠不足だったところをさらに冷たい雨に長時間打たれたせいで、無理が祟ったのだろう、と。
よく休んでくだされ、と最後に医師は言った。
陽が昇り、様子を見ているうちに、ずいぶん彼の顔色も良くなってきた。
熱も、平常時より少し高いくらいで、下がってきている。
それでも、冷たい手巾はそのまま額に載せ、温くなるとその度に交換した。
ミュチュスカは、私の代わりに食事処に行き、本日出勤できないことも伝えてくれた。使い走りのようなことをさせるのが申し訳なく固辞したが、ミュチュスカは『それが私の仕事ですので』と頷かなかった。
私は、ロディアス陛下の髪を梳きながら、彼の顔を眺めた。
エレノアは、ロディアス陛下の風邪が移ってはいけないので、老夫婦に預けている。
彼の柔らかくも、細い金の糸のような髪質は、エレノアそっくりだ。やはり、エレノアの髪は彼に似たのだろう。
父娘の共通点を見つけ、思わず微笑みを浮かべた。
「……なにか、いいことでも、あった?」
掠れた声が、聞こえた。
ハッとしてそちらを見ると、ロディアス陛下が目を開けていた。白金のまつ毛を持ち上げ、夜の始まりのような、朝焼けのような、アメジストにも似ている、ルビーにも似ている瞳をこちらに向けていた。
まだ体調が悪いのだろう。
その声は掠れ、小さなものだった。
それでも、昨夜に比べ、顔色はとてもいい。
私は彼の顔を眺めながら、瞳を細めた。
彼の前髪を撫でる。
前髪を横にはらうと、白い額が現れ、それは年齢以上に彼を幼く見せた。
「は……、面倒を、かけてごめん、こんなはずじゃなかったんだけどな……」
ぼやくように、熱い息を吐きながら彼がつぶやく。
自嘲するような声だった。
「……昔。私は、あなたが好きでした」
語りかけるように、話し出す。
彼は、少し驚いたように目を見開いた。
だけどすぐ、力を抜いて、穏やかな瞳で私を見た。
私は、時折、彼の癖っ毛の髪を指に巻き付けるようにして、その感触を楽しんだ。
その癖っ毛も、エレノアと同じ。
くるくるとカールするその髪は、 しっかりと櫛を入れて梳かなければ鳥の巣のようになってしまうことを、私は知っている。
「だけど、好き……という感情だけでは、だめだと思うのです」
「…………」
「結婚とは、婚姻とは、愛だけで成せるものではありません。好きという感情だけで、結ばれるのでは、いずれ、瓦解します。ほんの少しの綻びが、破綻に繋がるのです」
「……うん」
彼は、私の話の着地点が読めないはずなのに、静かに聞いている。私は、盥にかけている手巾を水に浸し、絞るとまた、彼の額に濡れた手巾を置いた。ひんやりとした感覚が心地いいのか、彼が瞳を細めた。
「あの時、私とあなたに足りないものは、きっと、信頼、だった。……そして、私は……あなたを愛していたけれど、信用はしていませんでした」
「……うん」
「今も、あなたを信用しきれるか、というと……それは分かりません。私は、あなたを愛する女である前に、エレノアの母ですから。母である私が、誤った選択をすれば、それは、エレノアにも影響が及ぶ。あの時は、私ひとりの身でしたから、何を選択しても、その結果、どうなろうと私だけの責でした。でも、今は違う」
「エレメンデール。エリィ、僕は──」
「聞いて。ロディアス様」
私は、彼の言葉をさえぎった。
彼の口を封じるように、そっと指先を押し当てた。彼が、困惑したように私を見る。
だけど私は、言葉をとめなかった。
「……あなたを、愛しています」
「──」
彼が、息を呑む気配がした。
だけど、何も言わない。
言えないのだ。
私が、くちびるを指で押えているから。
「ですが、愛だけで、婚姻はできません。……夫婦に必要なのは、愛ではない。……いいえ、もしかしたら、愛も同じくらい必要なのかもしれない。だけどそれ以上に求められるのはきっと──【信頼】です」
「…………」
「昨日、あなたは駆けつけてくれました。エレノアの誕生日に。昨夜は酷い雨でしたし、きっと無理だろうと私は諦めていました。あなたが来れなくても仕方ないだろう、と……信用していませんでした。だって、あなたはこの国の王で、私よりも優先すべきことがある」
彼は、静かに聞いている。
雨が上がり、雲の切れ端から陽が差し込んでいるのか、窓辺にやわらかな日差しがかかる。
「……信用したい、と思いました。必死に……私のために。エレノアのために。真夜中に駆けつけてくれた……あなたのことを」
「エレメンデール」
彼が、私の手を掴んで起き上がる。
「だめです。まだ熱があるのですから」
「構わない。きみは、今」
「待って!待ってください……。その前にひとつ、お伝えしたいことがあります」
覚悟を。
彼を、あなたを──もう一度。
今度こそ、信じよう、と思うだけの、思えるだけの、覚悟を。
その言葉を、口にするのは想像以上に覚悟が必要だった。緊張にくちびるが震える。
だって、それを言ってしまったらもう、後戻りはできない。
この選択が、本当に正しいのか。
この選択を、あとから後悔しないか。
分からない。
でも、後悔しないように生きたい、と思った。
女将さんの言葉を思い出す。
『人生は、後悔の連続だ、とか……人生の選択の先には、必ず後悔がある……なんて言うが、あたしはできるなら、その【後悔】の量を減らして生きていきたいと思っている』
娘さんと、旦那さんを、同時に流行病で亡くした彼女は、きっとたくさん後悔したのだろう。あの時伝えていれば、というようなことが、たくさんあったのだろう。
ひとは、後悔を重ねて生きていく生き物だ。
だけど、その【後悔】するだけの【量】を減らしていく努力は──できるのかもしれない。
いや、できるのだと、思いたい。
だから。
私は、ロディアス様の手を掴んだ。
彼の手は、熱い。
私の手も、恐らく。
強く、掴んだ。
私の決意を、勇気を、覚悟を、示すように。
顔を、あげる。
彼と、視線が交わる。
透明度の高い、水晶のような。
煌めきにも似た泡沫が、瞳の中で弾けるように見える。
私は、ふ、と笑った。
信用したい。
信用しよう。
信頼、できる……そう、思えた。
だから。
「……エレノアは、あなたの子です。ロディアス様」
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