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二章
だって、どう信じろと言うの
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その日は、土砂降りの雨だった。
数日前から天気が崩れていたが、今日は一際酷い。
窓の外を眺めながら、ため息を吐く。
──今日は、エレノアの誕生日だ。
エレノアは、今日、三歳になった。
いつもより少しだけ早く、食事処の仕事を切り上げた私は、老夫婦の元にエレノアを迎えに行った。
前日の夜から仕込みをしていたクルミのパンプディングと、少し奮発して、お肉の入ったシチュー、パンを夕食に出す。
エレノアは、ぺろりと食事を終えたあと、ふと、言った。
「おにいさんは?」
「……この雨ですもの。きっと、今日は来られないわね」
クルミのパンプディングを食べたことで、ロディアス陛下のことを思い出してしまったのだろう。私は苦笑して、いつものようにエレノアの頬を手巾で拭う。
もう外はすっかり暗い。
──やはり、無理だったのだ。
一国の王が、こんな辺境に長くいるなんて。
身分のないただの平民の女と共にいる、なんて。
彼は、必ず王城に戻らなければならないひとだ。
彼を待つ、大勢のひとがいる。
そして、それは私たちではない。
私とエレノア。
大勢のレーベルト国民。
天秤にかけて、傾く先は、誰だってわかることだ。
彼は、こんな辺境の街にいていいひとではない。
彼に、愛していると言われた。
想いの深さを知らせるような、教えるような、そんな声だった。
だけど、無理だったのだ。
既に私は王妃ではないし、王女でもない。
身分を失った平民の女。
しかも、子まで生んでいる。
レーベルトの王族として生まれ、国主でもある彼が選べる存在ではない。むしろ、選んではいけない。
エレノアを王城に連れていき、正式に王女だと認められれば、生活は格段に良くなるだろう。
王女として傅かれ、敬れ、何にも不自由のない生活を送れるだろう。
だけど、それだけ。
守りの固い王城は、中に住むものもまた、容易に外に出すことをしない。
守られる代わりに、自由を失う、鉄壁の城。
そこが悪意の潜む鳥籠になるか、幸福を覚える箱庭になるかは、まだ分からない。
でも、私は知っている。
既に、知っている。
あの場所が、ひどく息苦しい檻の中だと。
娘に──エレノアに、その思いをさせるくらいなら。
もう二度と、あの場所には戻りたくないと、そう思う。
時計を見れば、あと数時間で日付が変わる。
私はエレノアの額にキスをした。
「ほら、いい子はもう眠る時間よ。エレノアは、三歳になったのでしょう?ひとつお姉さんになったエレノアは、上手に眠れるかしら?」
「ゆめ?」
エレノアが、きょとんとした様子で私を見上げた。薄く微笑んで、彼女の髪を撫でる。
エレノアの髪は柔らかくて、ふわふわだ。
赤ちゃんだった頃を思い出す。
「……そうよ。いい子のエレノアは、もう夢の時間なの。ほら、いらっしゃい。お母さんが子守唄を歌ってあげるわ」
「……ん」
甘えるように、エレノアが手を伸ばす。
その手を取って、私はエレノアを抱き上げた。
「っと……」
娘の重さに、私は少しふらついた。
食事処で働くようになって、多少は体力がついたとはいえ、最近はエレノアを抱き上げる度に、少し、足元が揺れてしまう。
エレノアはまた少し、重たくなったような気がする。
その重みが嬉しくも、幸福だと思う。
愛おしくて、幸せだと思うのだ。
「甘えたさんね。私の可愛いエレノアは、いつまでこうして抱っこされてくれるかしらね?」
「んー?」
にっこりと、私の言葉の意味が分かっているのか、分かっていないのか。エレノアが笑いかける。
いずれ、エレノアも大きくなる。
成長し、素敵な女性となるだろう。
その時を思うと早くも、寂しさが胸を過る。
「きっと、幸せになるのよ。お母さんは、それだけを……あなたの幸福だけを、願っているから」
☆
轟音が鳴る。
どこかで雷が落ちたようだ。
窓が銀色に光り、一瞬、あたりを白く染めあげた。
私は繕い物の手を止め、窓の外に視線を向ける。
バケツをひっくり返したような大雨は、まだ続いている。
窓には雨粒が激しく叩きつけられ、一筋、また一筋と雨の道を作っている。
ずいぶん短くなった蝋燭を見て、今夜はもうこれくらいにした方がいいだろうかと手元に視線を向ける。さいきん、エレノアはぐんぐん大きくなる。今着ているシャツも、もうしばらくしたら着られなくなってしまうだろう。
だから、その前に手直ししているのだ。
針仕事を長く続けていたため、肩が凝る。
ぐっと腕を回そうとした時だった。
こんこん、と扉が──控えめに、叩かれる。
その音に、瞬時に体が強ばった。
夜も更けた。
こんな時間に、しかもこんな天気の夜に訪ねてくるひとなど──。
物取りか、殺人か。
緊張に息を飲む。
咄嗟に、キッチンに閉まってある包丁に、視線を向けた。
どれほど、時間が経過しただろうか。
窓の外はうるさいくらい、雨の音がするのに、室内は恐ろしいくらい静かだった。
ドッドッ、と心臓が嫌な音を立てる。
緊張のあまり硬直している私の耳に──聞き覚えのある声が、聞こえた。
「エリィ?……エレメンデール、まだ起きてるかな」
数日前から天気が崩れていたが、今日は一際酷い。
窓の外を眺めながら、ため息を吐く。
──今日は、エレノアの誕生日だ。
エレノアは、今日、三歳になった。
いつもより少しだけ早く、食事処の仕事を切り上げた私は、老夫婦の元にエレノアを迎えに行った。
前日の夜から仕込みをしていたクルミのパンプディングと、少し奮発して、お肉の入ったシチュー、パンを夕食に出す。
エレノアは、ぺろりと食事を終えたあと、ふと、言った。
「おにいさんは?」
「……この雨ですもの。きっと、今日は来られないわね」
クルミのパンプディングを食べたことで、ロディアス陛下のことを思い出してしまったのだろう。私は苦笑して、いつものようにエレノアの頬を手巾で拭う。
もう外はすっかり暗い。
──やはり、無理だったのだ。
一国の王が、こんな辺境に長くいるなんて。
身分のないただの平民の女と共にいる、なんて。
彼は、必ず王城に戻らなければならないひとだ。
彼を待つ、大勢のひとがいる。
そして、それは私たちではない。
私とエレノア。
大勢のレーベルト国民。
天秤にかけて、傾く先は、誰だってわかることだ。
彼は、こんな辺境の街にいていいひとではない。
彼に、愛していると言われた。
想いの深さを知らせるような、教えるような、そんな声だった。
だけど、無理だったのだ。
既に私は王妃ではないし、王女でもない。
身分を失った平民の女。
しかも、子まで生んでいる。
レーベルトの王族として生まれ、国主でもある彼が選べる存在ではない。むしろ、選んではいけない。
エレノアを王城に連れていき、正式に王女だと認められれば、生活は格段に良くなるだろう。
王女として傅かれ、敬れ、何にも不自由のない生活を送れるだろう。
だけど、それだけ。
守りの固い王城は、中に住むものもまた、容易に外に出すことをしない。
守られる代わりに、自由を失う、鉄壁の城。
そこが悪意の潜む鳥籠になるか、幸福を覚える箱庭になるかは、まだ分からない。
でも、私は知っている。
既に、知っている。
あの場所が、ひどく息苦しい檻の中だと。
娘に──エレノアに、その思いをさせるくらいなら。
もう二度と、あの場所には戻りたくないと、そう思う。
時計を見れば、あと数時間で日付が変わる。
私はエレノアの額にキスをした。
「ほら、いい子はもう眠る時間よ。エレノアは、三歳になったのでしょう?ひとつお姉さんになったエレノアは、上手に眠れるかしら?」
「ゆめ?」
エレノアが、きょとんとした様子で私を見上げた。薄く微笑んで、彼女の髪を撫でる。
エレノアの髪は柔らかくて、ふわふわだ。
赤ちゃんだった頃を思い出す。
「……そうよ。いい子のエレノアは、もう夢の時間なの。ほら、いらっしゃい。お母さんが子守唄を歌ってあげるわ」
「……ん」
甘えるように、エレノアが手を伸ばす。
その手を取って、私はエレノアを抱き上げた。
「っと……」
娘の重さに、私は少しふらついた。
食事処で働くようになって、多少は体力がついたとはいえ、最近はエレノアを抱き上げる度に、少し、足元が揺れてしまう。
エレノアはまた少し、重たくなったような気がする。
その重みが嬉しくも、幸福だと思う。
愛おしくて、幸せだと思うのだ。
「甘えたさんね。私の可愛いエレノアは、いつまでこうして抱っこされてくれるかしらね?」
「んー?」
にっこりと、私の言葉の意味が分かっているのか、分かっていないのか。エレノアが笑いかける。
いずれ、エレノアも大きくなる。
成長し、素敵な女性となるだろう。
その時を思うと早くも、寂しさが胸を過る。
「きっと、幸せになるのよ。お母さんは、それだけを……あなたの幸福だけを、願っているから」
☆
轟音が鳴る。
どこかで雷が落ちたようだ。
窓が銀色に光り、一瞬、あたりを白く染めあげた。
私は繕い物の手を止め、窓の外に視線を向ける。
バケツをひっくり返したような大雨は、まだ続いている。
窓には雨粒が激しく叩きつけられ、一筋、また一筋と雨の道を作っている。
ずいぶん短くなった蝋燭を見て、今夜はもうこれくらいにした方がいいだろうかと手元に視線を向ける。さいきん、エレノアはぐんぐん大きくなる。今着ているシャツも、もうしばらくしたら着られなくなってしまうだろう。
だから、その前に手直ししているのだ。
針仕事を長く続けていたため、肩が凝る。
ぐっと腕を回そうとした時だった。
こんこん、と扉が──控えめに、叩かれる。
その音に、瞬時に体が強ばった。
夜も更けた。
こんな時間に、しかもこんな天気の夜に訪ねてくるひとなど──。
物取りか、殺人か。
緊張に息を飲む。
咄嗟に、キッチンに閉まってある包丁に、視線を向けた。
どれほど、時間が経過しただろうか。
窓の外はうるさいくらい、雨の音がするのに、室内は恐ろしいくらい静かだった。
ドッドッ、と心臓が嫌な音を立てる。
緊張のあまり硬直している私の耳に──聞き覚えのある声が、聞こえた。
「エリィ?……エレメンデール、まだ起きてるかな」
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