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二章

変化か、知らなかっただけか

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「おはよう。挨拶出来て、偉いね」

「えらい?」

「すごい、ってことだよ」

ロディアス陛下と、エレノアが会話をしている。
めまいがする。
本当なら、すぐにでもエレノアを引き離さなければならないのに。

(…………)

「おかーしゃ?」

エレノアが、私を見る。
じっと見つめて、不思議そうにしている。
だから私も、ロディアス陛下と同じように腰を折って、娘と視線を合わせた。

「……このひとがね。クルミのパンプディングを持ってきてくれたんですって」

「くるみ!」

瞬時に、エレノアの顔が明るくなる。
それを見ていると、私の悩みなどどうでもいい瑣末事に思えた。
エレノアが喜んでいるのだ。
ここで、私が拒否して、ロディアス陛下を追い出すのは──エレノアをも、傷つけることになる。

「エレノア、クルミのパンプディング好きだったわね。このひとにありがとう、って言える?」

「ありぁとー!」

少し舌っ足らずになってしまったエレノアに、ロディアス陛下が笑う。
どうして、そんな顔で笑えるの。
この子は、あなたの子ではないとはっきり言ったのに。なぜ。
心に蟠りを覚える。
ぐちゃぐちゃな心中のままいると、エレノアの明るい声が聞こえてきた。

「どれ?どれ?食べていーの?」

「いいよ。全部きみのものだけど、全部食べていいかはお母さんに聞いてからね」

「いい!?」

「だめにきまってるでしょう?虫歯になってしまうわ」

「ならない!」

「なるの」

私はロディアス陛下からバスケットを受け取った。その中に、クルミのパンプディングが入っているらしい。バターとクルミの芳香に、食欲が刺激された。
隣町のパティスリーは、裕福な商家御用達だ。
店の名前は有名で、ディエッセンにいても何度か耳にした。
このクルミのパンプディングは、そこの店のものだ。

隣町は、ディエッセンより都市側にあり、ここからは馬を飛ばしても片道一日かかる。
そして、一昨日と昨日、彼は食事処に現れなかった。

「……ご一緒されますか?」

私が尋ねると、彼は驚いたように目を見開いた。
そして、僅かに躊躇いを見せながら、

「……いいの?」

と私に問い返した。

「いただきものですから。私たちだけで食べるわけにはいきませんもの」

「別にそれはいいんだけど……。そっか。そうだね。きみたちが構わないなら──僕も、ご相伴に与ろうかな」

彼がまた、笑う。
とても、嬉しそうに。
幸福だとでも、言うように。

ほら、また。

忘れたはずなのに。
失ったはずなのに。

胸の奥が、じりじりと、騒ぎ出す。
それを私は無視して、殺して、狭いキッチンへと向かった。

クルミのパンプディングは、今まで私が作っていたものと同じものとは思えないほどに、贅沢な味わいがした。バターをたっぷりと使い、ナッツやくるみ、果実も練り込まれ、サクサクとした食感も合わさり、舌を楽しませた。
エレノアは初めて食べたパティスリーのお菓子に夢中だ。口いっぱいに頬張るのを見て私は苦笑する。

「エレノア、リスさんみたいになってるわ。喉に詰まったら大変だから、少しずつね」

手巾で口元を拭っていると、視線を感じた。
そちらを向けば、ロディアス陛下が静かに私を──いや、私たちを見ている。

「…………」

私はその視線を無視して、エレノアの口元を拭った。エレノアは、あっという間に一切れ食べると、すぐにもうひとつ、と強請った。
私は彼女のちいさな頭を撫でた。

「だめよ。また明日」

「やぁあ!」

「だーめ。お昼ご飯が食べられなくなってしまうもの。いい子にしていたら、明日はもう少し大きめに切ってあげるから」

「…………。…………ほんとぉ?」

長い、とても長い沈黙の末──葛藤しながら、エレノアが言う。
私はそれを見て、吹き出しそうになりながら答えた。

「ほんとう。お母さんは嘘を吐かないもの」

「やくそく?」

「ええ。約束」

私はエレノアの頭をもう一度撫でてから、ロディアス陛下を見た。
彼は、甘いものをあまり食べないと言ったとおり、クルミのパンプディングを一欠片皿に盛り、口にしたきりだった。
その代わり、私が出した、ほんのり味のついた粗茶を口にしている。
王城にいたら、絶対に出されないであろうお茶だ。
ほんの僅かに渋みを感じる香草茶は、私が山の麓で摘んできた薬草を水と煮込んだものだ。
王に供するために何種類ものハーブを培養し、選別されて淹れられるハーブティーとは比べ物にならない。
そういえば彼は、就寝前にハーブティーを飲むことが習慣だった。
舌が肥えている彼には、このお茶は苦い水のようにしか感じないだろう。

「お口に合わないのではありませんか?」

私が尋ねると、なぜか彼は驚いたような顔をした。目を見開いて、そして白金のまつ毛を何度かぱちぱちと瞬いて見せてから──。

「まさか」

と答えた。

彼は、木の椀を手に取り、口をつける。
そして、まつ毛を伏せたまま言った。

「……すごく美味しい。こんなに心が落ち着くお茶は、初めて飲んだ」

「お世辞は結構です」

「本心だよ」

「…………」

「信じてくれない?」

彼が私を真っ直ぐに見つめる。
私は答えなかった。
試すように、睨むように、強く彼を見つめた。
彼もまた、私から視線を外さない。

互いに静かに見つめ合う。
無言の時間が流れる。
どこか、時間の流れを遅く感じた。

それを破ったのは、朗らかな明るい声。

「エレノア。二歳、です!」

「…………え、」

いつの間にか、エレノアがロディアス陛下の隣に立っている。椅子に座っている彼の横に立ち、指を二本立てていた。突然のエレノアの言葉に、私だけでなくロディアス陛下もまた、困惑しているようだった。

「え……と。ロディアス、二十八歳です」

(……どうしてあなたも答えるの)

内心呟きながら、私はふたりの会話を見守ることにした。

「もう、三歳!」

「三歳?三歳になるの?お姉さんだね」

「うん。お姉さん!」

にっこり、エレノアが笑う。
ロディアス陛下が、ちらりと私を見た。

「……彼女に触ってもいい?」

「なぜ、私に聞くのですか」

「突然、娘に触れられて気分を害さないかと思ったから」

「……どうぞ。エレノアが嫌がらなければ」

私が許可を出すと、どこか彼はほっとした様子を見せる。

……調子が、狂う。

ロディアス陛下が、恐る恐る、と言った様子でエレノアの頭を撫でた。
柔らかな頭を、何度も撫でて、彼が感心したように言った。

「柔らかい」

「んー?」

「いや……。きみは、三歳になるの?いつ?」

「春の、始まりの、日!」

エレノアがはっきりそう答えるのは、私が何度となく彼女に伝えているからだ。
あなたが生まれたのは、春の始まりの日なのよ、と。
それを聞いて、ロディアス陛下が何度か瞬いた。

「そっか……。じゃあ、きみは春の妖精だね」

「ようせい?なぁに?それ」

「春を教えてくれる、魔法使いだよ。ちいさな妖精さん」

「……………んー?」

まだエレノアには難しかったようで、眉を寄せている。
ロディアス陛下はそれにも関わず、ずっとエレノアの頭を撫でている。まるで、手を離すのが名残惜しい、と言わんばかりに。
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