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二章

今更、なぜ。

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過去を思い出していた私に、女将さんが笑いながら言った。

「全く。あんたは若いのに、ずいぶん熱心だよねぇ。あんたが面接に来た時は、その熱に気圧されちまったよ。今どきそんな若いのがいるとは思わなかったからね」

女将さんの言葉は少しくすぐったい。
微笑みを浮かべて椅子を並べ終え、振り返ろうとした、その時。

カラン、と扉のベルが鳴る音がした。
女将さんがすぐにそちらに向き、眉を下げる。

「ああ、すまないねぇ。お客さん。今日は店仕舞いなんだ」

「今さっきここに着いたところなんだ。スープだけでいい。出してもらえないかな」

「──、」

息を呑んだのは、きっと私だけ。
女将さんには気付かれていない。
ひゅ、と呼吸がか細くなった。
何年経っても忘れることのない、その声。
甘さを含んだ、男のひとにしては、高めの、声。

──まさか。

そんな、馬鹿な。

だって、今更。なぜ。
硬直する私を置いて、ふたりは会話を続けていく。

「て言ってもねぇ。もう火の始末はしちまったし、片付けも終えたところなんだよ」

「そこをなんとか、頼めないかな。冷えたスープだけで構わない。相場の二倍……いや、三倍の金を払うから、どうか」

「あんた、三倍っていったら、向こうの方にもっといい店があるじゃないか……。まだやっている時間帯だろうさ」

「ここの店がいいんだ。旅の途中、評判を聞いたものでね。それで、女将。どうかな。頼めない?」

「……そこまで言われちゃあ仕方ないね。相場の三倍も出してくれるって言うんだ。断る理由がないよ。だけど、食材は尽きちまったし、有り合わせのもんしか作れないからね」

「構わない。ほんとうに、冷えたスープだけでも良いんだ」

「あんた、三倍もの金もらっといて冷めたスープだけ提供するなんて、うちがそんな悪どい商売する店に見えるのかい?エリィ、すまないけど火を起こしてくれるかい?」

「……。…………」

縫い付けられたように、その男から視線を逸らせない。紺のローブを深く被っているせいで、顔は見えない。
だけど、その鼻筋も、薄いくちびるも。
平民にしては白すぎる肌も。
何もかも──記憶の通りだ。

手が強ばって、指先一本、動かせない。
くちびるがかじかんだように、震えた。

なにかに取り憑かれたように男を凝視する私を、女将さんが再度呼んだ。

「エリィ?どうしたんだい?……ぼおっとしちゃって」

「!っ、す、すみません。あの、──いえ、分かりました。火を起こします」

何を言おうとしたのか、分からない。
何を言えばいいのか、分からない。

なぜ。どうして。なんで。

そんな言葉ばかり、頭を駆け巡る。



コトン、と皿を置く音がする。
いつもはとっくに店仕舞いをしている時間帯に、料理を提供していることに違和感を拭えない。
温め直した豆と野菜のスープを口にして、男が少し考えるようにして言った。

「……このスープは、誰が作ったの?」

「──」

それは、私に聞いているのだろうか。
いたって平然と話をする男の思惑が分からない。
胸元を掴んで揺さぶって、尋ねたい思いだった。
自然な様子で会話をする男とは対処的に、私は上手く言葉が出ない。
そんな私に代わり、返事をしたのは女将さんだった。

「ああ、それならエリィですよ。この子、深みのあるスープを作るもんでねぇ。あたしにもその味は出せないんですよ、あはは」

女将さんが朗らかに笑う。
私は強ばった顔のまま、男を見て、女将さんを見て、ぎこちないくらい何度も瞬きを繰り返し、ようやく言葉を返す。

「そ……そんなことはありませんよ。まだまだ勉強中の身です、わたしは……」

「……エリィ。あんた、なんだか様子がおかしいね。疲れでも溜まっちまったかい?」

「いえ。そんなことは、」

「エリィ」

男が、名を呼んだ。
偽りの名を。
今の、私の名を。

どきり、と胸が痛いくらい心臓が音を立てた。
男の声は、柔らかい。
記憶にある通りだ。
それでも、何を考えているか、分からない。
それも、記憶の通り。

「……それが、きみの名前?」

責められているようにも、ただ確かめているだけのようにも、感じた。
急に、居心地が悪くなる。
逃げ出したくなる。
いたたまれない私の代わりに返事をしたのは、やっぱり女将さんだった。

「そうですよぉ。あ、でもだめですよ、お客さん!この子には、もう愛するひとがいるんですからね。娘もいるんだから」

「女将さんっ……」

思わず、彼女を呼んでいた。
キッチンカウンターの奥で、新たに料理を作っている彼女が怪訝に振り替える。

「うん?」

「あ、あの。シチュー、出来たんじゃないですか?持っていきます」

「ああ。そうだね。ついでにサラダも持って行っておくれ」

男の、彼の、そばにあまりいたくなかった。
逃げ出すように私は女将さんの元に向かう。
だけど、シチューやサラダを渡されたら、また彼の元に戻らなければならない。
当然なのに、気が重たくて仕方ない。
よほど悲壮な顔をしていたのだろうか。
女将さんが声を潜めて尋ねてきた。

「どうしたんだい。いつものあんたらしくない」

いつもの私は、どう振る舞っていただろうか。
上手く思い出せない。
頭が、ぐちゃぐちゃだ。

「……あの男が苦手かい?」

「そういう、わけでは」

「そうかい?でもあんた、顔色が悪いよ」

女将さんは心配そうな声を出した。

「三倍の金につられて、入れなきゃ良かったかねぇ」

「そんなことはありません。……あの、大丈夫です。少し……疲れて。そう。疲れて、目眩がしただけで」

「それは良くないね。明日は休んでも構わないよ」

「大丈夫です。ごめんなさい、心配かけて」

「それは構わないけど……」

女将さんはなおもこちらを伺うように見ていたので、私は彼女の気遣いに微笑みを返した。
大丈夫。大丈夫だ

(私には……エレノアがいるのだから)

守らないと。守りきらないと。
狼狽えているだけではだめ。
まずは、確認しなければ。
彼は──ロディアス陛下が、今更、私に何の用で、ここを訪れたのか。

もし。
万が一、王城に戻るよう言われたら──。
エレノアを取り上げられそうになったら──。

その時は、すぐにでも。
逃げ出せるよう手筈を整えなければ。

大丈夫。……大丈夫。
焦ってはだめ。
深呼吸をして。
ゆっくり、ゆっくりと。
道筋を立てて、物事を考えるの。

(……大丈夫。大丈夫よ)

小さく、胸の内で呟いた。
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